ただよう黒
昼食に使った食器を洗っていると、「高いとこ行こう」と悠紗が言い出した。スポンジの手を止めた僕は、「高いとこ」ときょとんと繰り返す。こくんとした悠紗は、僕が来て以来保育園を休んでいる。
「って、どこ」
「屋上」
「行けるの」
「うん。僕、たまに遊びにいくの。空見たり、下見たりね。ここじゃ見れないでしょ」
ベランダを一瞥する。二階という位置では、まあそうだ。
「行こうよ。ひとりじゃ行っちゃダメって言われてるんだ。萌梨くんが一緒ならいいよ」
「そう、かな。屋上って、フェンスとかある?」
「うん。金網もあるよ」
「そっ、か。じゃあ、うん。これは片づけさせてね」
そんなわけで、手早く食器を片づけると悠紗と共に部屋を出た。ここに来て一週間、この部屋を出るのは初めてだ。
悠紗が合鍵で鍵を締めると、僕たちはエレベーターに乗った。最上階の十階のボタンは一番上にあり、悠紗は手が届かないから僕が押す。屋上へは階段でのぼった。
開放されている屋上には何もなく、灰色のコンクリートが広がっていた。冷たい風の流れが頬で感じられ、空気の匂いは街中より軽い。音はほとんどなく、青空からの陽射しは柔らかかった。ぐるりと囲うコンクリートのフェンスに、さらに高く金網が張ってある。のぼれば自殺できるかな、と考えるのは、僕の悪い癖だ。
慣れた様子で金網へと歩いていく悠紗を追いかける。悠紗はフェンスによじのぼろうとして、慌てて止めた。
「危ないよ」
「いつもしてるもん」
「落っこちたら」
「高いとこには行かないよ」
とはいえ、僕の腰に悠紗の足が来る高さに行かれてしまった。頭が金網の上に出ていないのに免じ、無理にたしなめずにいる。
「僕ね」
「ん」
悠紗の声が降ってくるのは、変な感じだ。下に聞こえるのに慣れてしまった。
「こんな高いところがよかったんだ」
「え」
「おうち。ここは、おとうさんとおかあさんが別れて引っ越してきたんだ」
「あ、そう、なんだ」
踏みこんだ話題につい狼狽える。悠紗は淡々とした表情ながら、瞳は何だか遠い。
「僕、赤ちゃんだった。分かるようになってきたら、そう思うようになったの。高いところだったらなあって。高かったら、ここに来なくてもベランダでこうできるでしょ」
僕は金網に指を引っかけ、それ越しに見渡せるマンションの並びを望んだ。風が前髪を舞い上げる。
僕は高いところは嫌だな、と思った。飛び降りて死ねる。そんな環境にいたら危険だ。ふらふらと向こう側に行くに違いない。死は虚しくても楽だ。死にたくなければ、高いところにはいられない。
「おとうさんが、高いところは嫌って言ったんだ」
「えっ」
悠紗を仰ぐ。鳥瞰していた悠紗もこちらを見下ろす。僕たちは普段と逆の上下で見つめあった。金網のあいだを抜けていく風が、さらさらと悠紗の黒髪をなびかす。
「なあに」
「あ、いや」
自分が高いところでは自殺すると考えていたので、どきっとしてしまった。
「聖樹さんが」
「うん。高いところがよかったって言ったら、高いところは嫌だったって。ごめんねって」
しばし黙り、「高所恐怖症なのかな」と僕はつぶやく。
「こーしょ──」
「恐怖症。高いところが怖い人」
「んー」と悠紗は顰め面で考えこむ。
「高いとこ。怖い。そうかなあ。分かんない。おとうさん、高いところが怖いっていうより、下見るのが嫌みたい。怖いじゃないの。何か、じわっと嫌がるの。虫が嫌いな女の子が、きゃーとかも言えずに動けなくなるみたいに。窓とかあると、平気なんだよ。こんな、こうやって、剥き出しっていうのかな」
「うん」
「これだとね、何か、ふーっなる」
「ふーっと」
「目がね。透明というか、突き抜けちゃう感じ。僕、そのとき、おとうさんの気持ちが分かんなくなっちゃう」
悠紗は景色に目をやり、どこか不安そうにする。
「おとうさんが心配になるんだ」
「心配」
「その目、僕を置いてっちゃう目なんだよね。いつもは僕を見てくれてる。そのときは、僕なんか突き抜けていっちゃう感じがする。そんな目なの」
悠紗の白く小さい手は、金網をぎゅっとつかんでいる。悠紗の白さは、ちっとも外を駆けまわらない功績らしかった。
「何でかは分かんないんだ。分かったらいいのに、分かんない」
「悠紗──」
「心配なの。僕も、おとうさんも」
悠紗は睫毛を伏せる。僕は金網にある手を離し、悠紗の肩に置いた。悠紗は僕を見つめる。
「おとうさん、いてくれるかな」
「僕は、いると思うよ」
「ほんと」
「聖樹さん、悠紗を大事に想ってるよ」
悠紗は金網を降りて僕に抱きついた。僕は悠紗の頭に手を乗せ、そっと髪を撫でる。悠紗は僕の腰にきつく顔を伏せた。
正直、悠紗の心は測りかねた。聖樹さんが悠紗を置いていくなんて、考えられない。それに、いつもああしておっとり微笑んでいる聖樹さんが、そんな不吉な目──
そこで、顔を上げる。違う。そうだ。聖樹さんにはつかみにくくなる瞬間がある。僕も見聞きした。部外者の僕にはそれは単なる不思議なものだ。息子である悠紗には、違うふうに映るのかもしれない。自分を突き抜け、消えてしまう不安をともなわせて。
聖樹さんは、僕の気持ちもよく分かってくれる。やっぱり、のんきな生活を送ってきた人には、痛んだ心を洞察するのはむずかしいと思うのだ。だとしたら、聖樹さんも何か抱えていることになる。そんなふうには見えなくても、そういう人ほど目に見えて落ちこむ人間より傷ついていたりする。
聖樹さんは傷ついているのだろうか。だから僕の傷を感知し、的確に労わることができるのだろうか。金網を見上げる。聖樹さんも僕と同じく、この金網に自殺を連想してしまうのだろうか。
まさかなあ、という思いがあった。だって、聖樹さんにはそんな片鱗もない。曖昧になるのが傷ついている、とするのも安直だ。
何しろ、聖樹さんはおっとりしている。おまけに悠紗の父親だ。僕を理解してくれるのも、悠紗同様、無神経になれない繊細さが要因なのではないだろうか。
悠紗の不安も、きっと人に感応しすぎるためだ。そう思った。だが、くしくもその夜、それが独断だと悟る出来事に遭遇してしまう。
深夜だった。またもや、不眠症にのしかかられていた。後頭部からこめかみにかけて、刺すような鈍痛が往来している。何か知覚すれば、それをすぐさまいらだちに付会しようと、感覚が澄みきっている。しきりに寝返りを打ち、ふとんをかぶったり頭を出したり、暗闇に降りそうな追想の銀幕だけは振りはらっていた。
起きていても寝ていても、一律にこうなのが厭わしかった。傷口が今にも開きそうだ。必死にその覚醒を押しやる。何も考えなければいいのに、頭は錯綜し、それがいつ、あの光景に接続されるか怯える。うるさい動悸が息苦しく、冷や汗や硬直する筋肉にますます眠れなくなる。逆撫でされる神経に、意識は無意味に冴え渡り、頭の暴れはいらだちと共にひどくなる。
悪循環に泣きそうな僕は、うつぶせになってまくらに顔を埋めた。慣れてきたシャンプーの匂いがする。全部この暗闇に埋めてしまおう。そう思い、震える肩に力をこめたときだった。
がちゃっと突然の音がして、びくんと肩を打たれた。寝室から誰か出てくる。聖樹さんなのは、背丈で分かった。
何、と思っていると、蹌踉とした影は壁を伝って、倒れるように洗面所によろめきこむ。引き戸ががさつに閉まり、明かりがついたかと思うと、激しい水音がした。そして、それに明らかに嘔吐する声が重なり、僕は目を開いて、息遣いを喉で止めた。
まごつきに搏動が不穏なものに変わり、軆は首を捻じ曲げた体勢で固まる。引き戸の隙間が、無遠慮に捻じれた喉のうめきを吐き出す。胃物が飛び散る音はあふれる水音が消しても、抑えこめないうめきは紛れていない。
僕はまばたきをした。それがさいわい、無理な体勢の硬直は解いた。が、そうなると視線がうろつき、力が抜けた軆は、今度は震えはじめる。
何。何だろう。聖樹さん──
恐る恐る起き上がると、顔に洗面所の橙色の明かりが当たった。その光は暗い床に太く伸び、テーブル、コンポをとおり、俯瞰してくる影のように壁を照らしている。洗面所のクッションフロアに電燈が反射していた。
どさっと崩れ落ちる音がして、それでも戻す声は止まらない。その痛ましい咳きこみには、水音など非力だった。静けさに物音は際立ち、洗面所の様子を見るよりくっきり想像させた。
どうして、と思った。数時間前の聖樹さんを思い返した。体調が悪そうだったろうか。いや、変わらずに穏やかだった。心をかきみだされているふうもなかった。
何で。怖い夢を見たのか。夢でそこまで情動が来るだろうか。僕でもあるまいし──
途端、はっと軆がこわばった。荒っぽかった呼吸が引き、喉が冷たくなる。指がわななき、知らずにふとんを握りしめる。昼間の悠紗の話と、それに基づいた自分の憶測がよぎった。
聖樹さんは傷ついているのだろうか。
そこで、気づいた。その引き戸の隙間からのっそりただよう、重たく沈鬱な黒いものに。その嘔吐には、内的なものを吐き出したい感もある。絶した痛覚に、はびこりゆく麻痺も感じる。みじめな自分を打ち砕いてしまいたい、破滅への渇望も。
吐瀉がおさまっても、次は息づまりそうな嗚咽がぬかるんだ。どうすればいいのか分からなかった。聖樹さんが何かに襲われたのは分かる。それに対して、自分がどうしたらいいかは分からなかった。
抑えこみ、呼吸を震わせる、苦しげな嗚咽がする。僕がいつも押し殺す声に似ている。どうしたらいいのだろう。立ち上がってそこに行くのか。背中でも撫でるのか。僕はそうされて落ち着くだろうか。分からない。されたことがない。
体感の再現のときに軆に触られたら、誰だろうと嫌悪に振りはらう傾向はある。だいたい慰撫が効くのは肉体的苦痛のときだ。精神的なときには、人によってどう対応してほしいか変わる。かえって癇に障ったりもする。
どうしよう。痛みは分かるのに、それをどうやわらげたらいいか分からない。
僕ならどうしてほしいだろう。構ってほしいだろうか。余計なお世話だろうか。放っておいてほしいだろうか。抱きとめてほしいだろうか。僕だったら──
ずる、と音がした。飲んだ息に心臓がすくむ。這いずる音だ。ついで、がたんっ、とやや乱暴な音と共に引き戸が完全に閉ざされた。部屋は急に暗闇に還り、もれた明かりが、薄くドア付近を照らすばかりになる。
聖樹さんの嗚咽は止まらなかった。明瞭ではなくなっても、くぐもった声なら耳を澄まさずとも聞き取れる。水音が止まり、戻すうめきが混じる。
動けなかった。何も考えられず、何もできず、暗闇に座りこんで、立てなかった。しかし横たわりなおす勇気もなく、無力に聖樹さんの苦痛を聞いていた。呼吸を痙攣させるゆがんだ噎びは、次第に弱々しいすすり泣きになっていく。
聖樹さんの泣き声はいつまでも続いた。それはあまりにも僕の苦悶の声に酷似していた。その事実をどう取ればいいのか、僕には何も分からなかった。
【第十六章へ】