風切り羽-16

訪ねてきたのは

 翌朝、聖樹さんの様子は日頃と変わりなかった。何か視線を投げかけたり、ふらついたり、表情を曇らせたりもしない。目玉焼きにマヨネーズをかける悠紗に苦笑したりと、あれは夢だったのかとも思いそうに穏やかだった。
 結局、聖樹さんは明け方に寝室に戻っている。僕は慌てて、寝たふりをした。背を向けて、目をぎゅっとつぶっていたから、聖樹さんがどんな顔をしていたかは分からない。見るのも怖かった。鏡を見るハメになる気がした。無力感と自殺願望に憂悶したあとの、今際のごとく蒼ざめた顔──昨夜は、一睡もできなかった。
 ところが、聖樹さんは普通だ。おっとりして、何事もなかったようにしている。
 悠紗にも、聖樹さんを案じる様子はない。熟睡して気づかなかったのか。あるいは本当に夢だったのか。自分の寝不足の頭痛にとまどいつつ、そう信じそうになっていた。
 しかし、そうではなかったのは、聖樹さんが出かけたあとに証明された。鍵のかかった音のあと、悠紗が僕を見上げて、愁色したため息をついたのだ。
 とはいっても、悠紗は何も口にしなかった。僕も訊けなかった。そうやって演技することで、悠紗が聖樹さんを心配しているのは窺える。
 昨日、悠紗が屋上でしてくれた話も、これで皮肉にも理解できてしまった。聖樹さんにのさばる何らかの傷口をつかめないのが、悠紗に不安を抱かせているのだろう。
 あの眼鏡を思い出す。あの伊達眼鏡は、聖樹さんにとって、僕のこの長い前髪なのかもしれない。目をはっきり覗きこまないように、覗きこまれないように、人をやんわり拒絶する防壁だ。だとしたら、悠紗や、まあ僕や、心を許した人の前では外すのも分かる。
 朝食が終わると、僕は食器を片づけて悠紗はゲームを始めた。スポンジに洗剤を染みこませ、どうしようかなあと思う。
 今まで通りにしておけばいいのか。悠紗はそうしている。居候の立場ならそれにならうのが賢明だとしても、耳に聖樹さんのすすり泣きが残っている。
 聖樹さんが何に苦しんでいるのか、いったいどれほどのものなのか、それは分からない。けれど、精神的な腫瘍が耐えがたいのは分かる。僕も抱えている。僕も何度も、ああして声を殺して泣いた。知らないふりしていいのかなと悩みながらも、手はスポンジを泡立てて、皿やカップをこすっていく。
 聖樹さんが傷つくこととは何だろう。たとえば、家庭には奥さんがいない。会社もありうる。過去も、バンドをする友達がいたりはしても、言い切れない。
 ひとつ気になるのは、引き戸の隙間から流れてきた、あの凄まじい空虚だ。全部放り投げたような、暗い水底に埋没したような──あれには、死の匂いがしていた。生への未練も、死んでまで何か訴える激しさもない。死にたい。ただ、ぽつりとそう思う匂いが。何もかもだるくてやりきれない虚脱感、振りはらえないおぞましいものに怯える嗚咽、痛みすぎる傷が達する空恐ろしい無感覚。あれは、どうしても、僕が抱えているものと似ているのだ。
 まさか、と正直思った。まさか、聖樹さんは──
 先走りかなあ、と立ち止まる。分からない。自分がそうなので、一面観で聖樹さんにそれを被せているのかもしれない。単に夕食の魚が悪かったのかもしれない。悠紗の瞳も、聖樹さんの心ではなく軆を案じていたというのもなくはない。
 ため息をついた。分かるわけがない。そう自認すると、食器洗いに徹した。
 身勝手な意見だとしても、今の僕は自分も持て余している。いかに心配しようと、それはただだ。しかし、救いをさしのべるとなると、労力を要する。僕にはそのゆとりがない。共倒れになって、さらに悪くしてしまうに決まっている。
 知らないふりをするべきだ。気力もないくせに気張られたって、聖樹さんも嬉しくないだろう。聖樹さんは僕を理解してくれるけど、僕が聖樹さんにそうするのはうぬぼれだ。
 リビングに戻ると、悠紗に招かれてその隣に座った。悠紗は例のRPGをしている。悠紗が降りかかるイベントを必ず切り抜けていくのを見るのは好きだ。悠紗はゲーム雑誌をめくり、そこに載っている攻略を参考にしたりもしている。
「僕、今度、本屋さんに行きたいな」
「本」
「これの今月の出てるかも」
 悠紗はめくっている雑誌をしめす。
「萌梨くんも行かない?」
「え、ううん。僕はまだ外に出るの危ないし。見つかったら、ね」
「あ、そっか。んー、じゃあ僕もいいや」
「行っていいよ」
「萌梨くんと行こうと思ったんだもん」
 僕がはにかんで咲うと、悠紗も咲う。「いつか行こうね」と言われ、それにはうなずいた。
 ゲームにハマっていると時間が過ぎるのは早い。昼過ぎになって、僕は冷やごはんでピラフを作った。「オムライスできる?」と悠紗に上目で訊かれ、悠紗のぶんはオムライスにまとめる。悠紗は、ケチャップをかけたそれを、嬉々として食べてくれた。作ったものをおいしそうに食べてもらえるのは嬉しい。僕はピラフのまま食べ、皿が空になったら、その食器やフライパンを片づけた。
 部屋にインターホンが鳴り響いたのは、食器や調理用具を済まし、フライパンに取りかかったときだった。少し焦げついたたまごを落としていた僕と、朝食の食器をしまっていた悠紗は、顔を合わせた。
 何だろ、という当惑が瞳に通う。
「鳴った、よね」
「うん」
「誰かな」
「聖樹さん、ではないよね」
「鍵持ってるもんね」
「そっか」
「ほっとくのがいいかな」
 悠紗が言ったところで、もう一度インターホンが鳴る。僕と悠紗に不安が流れる。
「こんな時間に誰か来たこと、ある?」
「いつも保育園だったもん」
「あ、そっか。それ知らない人なのかな」
「じゃ、どうでもいい人──」
 どん、とドアををたたく音がした。僕はスポンジを握った。悠紗は皿を置き、眉をゆがめる。
「出たのがいいかな」
「変な人だったら」
「電話あるもん」
「電話」
 悠紗は、電気のスイッチのそばにあるインターホンをさした。
「あれで帰ってくださいって言えばいいかも」
「聞くかな」
「怖い人なんて来ないよ」
「でも、僕が、………」
 僕と悠紗は、再び顔を合わせた。そう、ここに“怖い人”が来る可能性はある。僕を探しにきた人間が。父親なり先生なり、警察なり何なり。嗅ぎつけられないとは限らない。
 インターホンが鳴る。僕は目を彷徨わせた。どうしよう。来たのだろうか。帰らされるのか。頭の中にあの光景が走る。おとうさん。みんな。教室、通学路、ベッド──
「大丈夫」と悠紗が気丈に言った。
「変な人だったら、僕が追い返すよ」
「だけど」
「出てみておかしかったら、そっちの部屋に隠れたらいいよ。僕、絶対言う。取って」
 躊躇いつつも手を洗い、タオルで水気をぬぐった。インターホンはあきらめずに鳴っている。視線がぶれて、指が小刻みになっていた。おとうさんだったらどうしよう。先生だったらどうしよう。僕をあの場所に連れ戻す人だったら。取り返しがつかない。ここにいられなくなる。切羽つまる心に、悠紗を縋り見てしまう。「怖くないよ」と悠紗は言った。
「おとうさんだっているでしょ。萌梨くん連れていかれても、また僕たちが取り返しにいってあげる」
 力強い悠紗にぎこちなくうなずき、思い切って受話器を取った。「貸して」と言う悠紗に、こわごわ渡す。
「はい。鈴城ですけど」
 指先に残っていた水滴を、服の裾でぬぐった。受話器から声がした。僕が息をつめた途端、悠紗の表情はなぜか輝いた。
「ほんとっ。来たの?」
 事態が読めなくて、僕はまごまごする。向こうで答えがする。悠紗は嬉しそうにした。
「なーんだ、びっくりしたよ。──え、うん。ちょっとね。電話くれてたらよかったのに。──あはは、分かった。待ってて」
 不安と怪訝を綯い混ぜる僕に、悠紗は笑顔を残して受話器を渡した。泣きそうな僕に、「変な人じゃないよ」と悠紗はひとまずほっとできる報告をくれた。
「あ、じゃあ、誰?」
「沙霧くん」
「え」
「あ、萌梨くんは会うの初めてだよね。平気だよ。おもしろいし。待っててね」
「え、あ──」
 悠紗は小走りに玄関に行ってしまった。残った僕は状況を把握できずにぽかんとする。
 沙霧くん。沙霧くん──とは、そう、悠紗の友達だ。ゲームがうまいとか何とかの。
 沙霧くんが来たのか。こんな昼間に? やはり子供ではないのか。玄関のほうで音がして、さしせまった僕の喉は畏怖に硬くなった。大人だったらどうしよう。他人は怖い。大人や同世代が怖い。
 震える膝で後退り、仕切りに背中を寄せた。キッチンの奥におさまったとき、ぱたぱたと悠紗がやってきた。
「萌梨くん──あ、あれ。そんな怖がらなくていいよ」
「でも……」
「誰かいんの?」
 男の声だ。しかも声変わりしている。本能的に硬直する僕に、「平気だよ」と悠紗は言った。僕は言葉を発せなかった。
「悠」
 近づいた足音に乗ってすがたを見せたのは、すらりと背の高い美少年だった。恐怖に頭は真っ暗になった。十七、八くらいだろうか。僕がシンクにつかまって怯えているのに反し、その人はあからさまに訝る顔をした。「誰?」とその人は悠紗を見下ろす。
「萌梨くん。僕の友達でね、おとうさんの友達なの」
「兄貴の」
 兄貴。聖樹さんが兄貴。あれ。そうか。何だ。“沙霧くん”は“聖樹さんの弟”だったのか。
「友達って、こんなん──いくつだよ。中坊じゃないか」
「うん」
「どういうつながりが」
「えーとねえ。あれ、何だろ。萌梨くん、おとうさんとどこで知り合ったの?」
「え」と僕はしどろもどろになる。
「あ、あの、そこで」
「そこ」
「う、うん」
「あ。そっ、か」
 悠紗は察した顔になる。僕より遥かに背が高いその人を、悠紗は頭を垂直にしそうにして仰いだ。
「そこだって」
「何だよそれ」
「そこはそこなの」
 その人──沙霧さんは、悠紗でなく僕に不審の目を向けた。そのさまやなりは、聖樹さんの弟だと思いがたかった。長髪気味の髪形や着崩したジーンズには、粗野な鋭さがある。けれど、聖樹さんも弟がいると語っていた。しかも十八歳になる高校生で、悠紗も懐いていると。悠紗は、沙霧さんの目をたしなめている。
「俺、こいつ初めて見たぜ」
「僕もこないだ会ったもん」
「ふうん──」
 ちらりとしてきた沙霧さんの目には、明らかに好意がない。僕は畏縮し、うつむいてしまう。
「で、こいつ、何でこんな時間にここにいるわけ」
「暮らしてるんだもん」
「は?」
「僕たちとここに住んでるの」
「待てよ。他人だろ」
「そんなん関係ないの」
「あのなあ。こいつの親はどうなんだよ。家あるだろ。つうか、こいつはよくても、ばれたらお前と兄貴が、」
「いいんだってば。ほら、ゲームしよっ」
「ったく、あのバカ兄貴」
 その言葉に軽蔑はなく、あるのは親しい軽口だった。沙霧さんは、悠紗に脚を押されながら僕を見返る。
 その瞳には、よく見れば聖樹さんに似通う色調があった。髪の色素も軽く、ただし、前述の通り耳にかけられる程度に伸ばしている。顔つきは優雅な聖樹さんと違って野性的だ。目つきはまっすぐで、唇はきゅっと締まり、鼻筋も通っている。頬や顎の線の完璧さは似ていても、聖樹さんは丁寧にした感じで、沙霧さんは削ったらこうなったという感じだ。長めの前髪が、その秀麗な顔を隠顕とさせている。すらりとした体質は痩身で、強い骨格を引き立てていた。よく見たら聖樹さんと似ている箇所はあっても、その方向性やまとう雰囲気が違うので、一見似ていない。
 そんな沙霧さんの綺麗な瞳は、僕を映すと思いっきりゆがんだ。そんなに露骨にされなくても、不穏なものなら瞳で読める。あの人は僕を快く感じていない。やり返せる立場でもなく、おとなしくうなだれて炊事に逃げた。
「沙霧くん、また学校サボってきたの?」
 リビングに行ったふたりの会話が、キッチンに抜けてくる。
「人聞き悪いな。試験で昼までだったんだよ」
 悠紗に対しての沙霧さんの口調は明るく、かわいがっているのが窺える。
「試験? ふうん」
「信じてないだろ」
「うん」と言った悠紗に、「こら」と沙霧さんは笑う。
「ほんとだって。今日はほんと。中間の最終日だったんだ。で、来てみたわけ」
「何で」
「何でって、決まってんだろ。お前、いっちょ前に幼稚園サボってるらしいじゃん」
「あれ、何で知ってんの」
「昨日とおとといも試験だったし。悠を早退で解放してやろうとしたんだよ。で、行ったらいねえんだもん」
「はは」
「マジでサボってんの」
「うん。萌梨くんが一緒にいてくれるもん」
 沙霧さんは言葉を止め、話題を転換させた。僕の話はしたくないらしい。別にあの人に好かれたいわけではなくとも、複雑だった。ああいう態度には、むっとするより傷ついてしまう。僕が向こうでされていたことをしそうな気配はない。それでも、不愉快に思われるのを喜んだりはできなかった。
 悠紗と沙霧さんは、ゲームを始めた。楽しそうだなあ、と自分は混ざれないと実感しながら、フライパンを洗う。あちらに行くのが嫌で、無駄に入念にこすりつづけた。そろそろ不気味に見えてくるかとスポンジを置き、念入りにフライパンや食器の泡を流す。
 水切りに並べ終えてしまうと、いよいよリビングに行くほかなくなる。やだなあ、と思った。することないかな、と考えても、何も浮かばない。
 濡れた食器に目を落としていると、「萌梨くん」と声がした。悠紗がこちらを向いている。
「どうしたの。おいでよ」
「あ、けど」
「そこにいても、何にもないよ」
 それもそう、だった。ここもあそこも所在ないのは変わりない。悠紗はそういう意味で言ったのではないだろうが。そろそろとリビングに行った。沙霧さんはゲームに集中していて、わずかにほっとする。
「ごしごししてたね」
「ちょっと、焦げてて」
「そっか。座りなよ」
「う、ん」
 沙霧さんを意識し、心持ち離れたところに座った。悠紗は僕が怯えているのは分かっても、なぜ怯えるかは分からないようだ。
 視線を落として、膝の上で手を握る。空気を悪くしてしまうとは思っても、怖いものは僕はどうしても怖がってしまう。
 悠紗が僕のそばに来て、覗きこんできた。僕は堅く咲い、「遊んでて」と言った。悠紗は心配そうにしても、どうしたらいいのか分からなかったのか、しぶしぶ沙霧さんの隣に帰る。沙霧さんが僕を眺める。いたたまれなかった。

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