悪夢に背いて
午後は長かった。僕は仕切りへゆっくり移動し、そこにもたれかかった。頭が重い。夕べは微睡みもしなかった。それを思い出すと、聖樹さんのすすり泣きも思い出してしまった。
聖樹さん。あの嘔吐や嗚咽をたどっていると、自分に重なってくる。そう、僕もああしていっぱい吐いた。泣いてうめいた。埋めても埋めても、ゾンビのようによみがえってくる。感触。音。臭い。連鎖した記憶にあの光景が立ち上がり、鮮血を通わせる。
外界がふっと真っ暗になって、内界がぐちゃぐちゃに混線した。断片的に視覚がまたたく。めまいや吐き気に座っているのも苦しくなる。頭が痛い。ずきずきする。その痛みが心象の制御を壊す。
抑えられて軆が動かない。髪をつかまれて脈打つ熱に喉が塞がれ、精液の苦味が充満する。裂かれる服と笑い声が耳鳴りに入り混じり、卑猥なささやきと共に性器をもてあそばれる。辱める格好で陰部を広げられ、フラッシュが走って、唸り声や息遣いが錯落とする。内臓の圧迫が下腹部を引き裂き、奥への発射を繰り返される。
抵抗が効かない。無力感や絶望感が真っ暗に蔓延し、虚しい疑問があふれる。何をしてるんだろう。何でこんなことしてるんだろう。どうして男にこんなことされてるんだろう。何で。どうして。どうして僕なんだろう。痛い。痛い。痛い──
涙があふれそうになった。慌てて我慢した。その拍子に視覚が戻った。抱える膝が見えて、睫毛を上下させる。硬くなっていた筋肉がやわらいで、細く震える息がもれて、何とか記憶の奔流を食い止められた。
こんなのを考えても意味はない。考えてはいけない。あんなのは殺すべきだ。埋めて忘れるべきだ。僕の精神がもたない。忘れなきゃ。屈辱も、激痛も、空虚も。何もかも忘れなきゃ。あれを逃げるためにここにいるのだ。殺して埋めて湮滅し、忘れて逃げて解放されないと。死ぬまでこんなふうなのは嫌だ。
呼吸が整うと、全身の力を抜いた。耐えられなかった頭痛が、くらつきと共に昇華していく。視線が脚を泳いだ。筋肉が重く弛緩した。死体になった気分だった。何にも感じない。
今だったらどっちでもいい。いや、どちらかといえば死にたい。
死んだら楽だ。こんなふうに悶絶したりせずに済む。この心は、あんなことをされた軆を脱出できる。このだるい無気力を忘れられる。死にたい。死んでいい。死ねば──
「萌梨くんっ」
びくんと顔を上げた。悠紗が膝に乗っかってきていた。
「あ……、」
「どうしたの。気分悪いの」
「う、ううん」
「ほっぺた真っ白だよ」
「あ、その、いろいろ思い出しちゃって」
悠紗は僕を見つめ、「ここにいるんだよ」と言った。僕はぎこちなくこくんとした。
「ごめん」
悠紗は首を振り、僕はかろうじて微笑めた。悠紗は安心した顔になる。その先には、こちらを一視する沙霧さんがいる。僕はうつむき、悠紗だけ見るように努めた。
ダメだなあと直感が働いた。僕とあの人はダメだ。敵意しか感知できない。そんなふうにされたら、僕も怯えて直視できなくなる。どうやら、僕と沙霧さんは合わない。
部屋には影が落ちていた。悠紗を下ろすと、沙霧さんと遊ぶのに帰した。明かりをつけてカーテンを閉めると、乾いた昼食に使った食器を拭く作業にかかった。わずかに残る水滴をぬぐい、器具はシンクの下に、食器は棚にしまっていく。
食器棚のガラス張りの扉を閉めていると、左手に伸びる廊下の奥で鍵の開く音がした。玄関であるそこに目をやると、ちょうどスーツすがたの聖樹さんがドアを開けた。僕が正面にいるのに気づくと、眼鏡越しにいつも通り微笑んでくれる。そわついていた僕は、その笑みにすごく安堵した。
買い物ぶくろを提げる聖樹さんは、玄関を見下ろして僕にリビングのほうを見やってみせた。僕はうなずいた。沙霧さんの靴があるのだろう。
聖樹さんは買い物ぶくろを持ち直して、こちらにやってくる。僕のそばに来てリビングが覗けると、「ただいま」と言った。悠紗がぱっと顔を上げ、沙霧さんもこちらを向く。
「おかえりなさーい」
「よお」
「人んちに上がりこんでおいて、『よお』はないだろ」
「お邪魔しております」
聖樹さんは咲い、「しまうの手伝ってくれる?」と僕に買い物ぶくろを軽く上げてみせた。僕はこくんとする。こちらを観察する沙霧さんには何とか黙殺を決めこみ、聖樹さんからふくろを受け取る。
「沙霧、いつ来たの?」
もう一方の買い物ぶくろを開く聖樹さんに話しかけられ、沙霧さんの僕に刺さる目は消えた。秘かにほっとして、聖樹さんに渡された買い物ぶくろの野菜を取り出す。軽快な音楽で、悠紗はゲームをしているのが分かる。
「昼飯食ったあと」
「また学校サボったの」
「親子だな」と沙霧さんは舌打ちする。
「悠にも言われたぜ。今日は違う。試験だよ。中間」
「あ、そうか。その頃だね。どうだった?」
「最悪。追試だろうな」
「行かなきゃダメだよ」
「兄貴怒らせると、怖そうだもんな」
「何それ」
「行きますよってこと」
「素直にそう言ってよ」
聖樹さん相手だと沙霧さんの声には無邪気さがあった。聖樹さんも会話に弾みがある。兄弟なんだよなあ、としつこく胸のうちで確認する。
牛乳や豆腐なども冷蔵庫に収めていく。悠紗へのスナック菓子やパンは、食器棚のうち、扉がなくラック状になったところに置かれるようになっている。そうしてビニールぶくろが空になると、「もう遅いよ」と聖樹さんは沙霧さんに帰宅をうながした。「えー」と沙霧さんは子供っぽい抗議をした。
「帰りたくないなー。かあさんたち、うるさいんだよ。大学。ああやだ。行きたくねえ」
「はいはい。行かなきゃいいよ」
「はあ。高校だって行きたくなかったのにさ。兄貴は大学行ったんだよな」
「僕が出たのは専門だよ」
聖樹さんは僕の肩をそっと押し、足を踏み出させてくれる。おかげで僕は、キッチンで突っ立たずにリビングに戻れた。
「帰らないとかあさんたち心配するよ。夜道は危ないし」
「女じゃあるまいし」
ちょっとずきっとした。僕は男でも夜道を歩くのは怖い。
「あのね、男だからって今は安心できないんだよ」
そう言った聖樹さんを、僕ははたと見上げた。聖樹さんは沙霧さんと話している。
思わず、なだめられてしまった。男だったら平気だ、という類いの先入観には、この傷口だからこそ痛めつけられてきた。男は夜に出歩いても何もされないとか、男だったら何かされてもやり返せない自分が悪いとか。そういう言葉を聞くたび、自分ひとりが情けないのかと落ちこんでいた。男だからって安心できない。そんな意見を聞かせてくれたのは、聖樹さんが初めてだった。
聖樹さんは僕を悠紗の隣に行かせると、沙霧さんには「そこまで送るよ」と帰宅を諭した。沙霧さんはしぶしぶ立ち上がる。悠紗の隣に座った僕を瞥視した沙霧さんの視線は、変わらず好感がなかった。でも僕は悠紗に咲いかけられ、沈まずにいられた。
聖樹さんと沙霧さんは玄関に行き、そこで立ち話をするのがぼんやり聞こえた。内容は分からない。悠紗に名前を呼ばれ、僕はそちらを向く。
「萌梨くん、元気なかったね」
「え、そう、かな」
「うん。ごめんね。沙霧くんがやだったんでしょ」
はっきり言われると、うなずきづらい。一応、あちらの会話が聞き取れないし、こちらの声も向こうには届かないのだろうが。
「嫌、というか。悠紗は好きなんだよね」
「うん」
「じゃ、それでいいんじゃないかな」
悠紗はコントローラーのボタンをいじる。画面に映っているのは、だいぶん進んだRPGだ。
「沙霧くん、嫌な人じゃないんだよ」
「うん」
自分が気に入った人にはね、と皮肉が内心で続く。
「萌梨くんが嫌いっていうのじゃないと思うんだ」
口をつぐむ。それには首肯できなかった。
「今は、萌梨くんを見るより、僕とおとうさんを想うのが先に来てるんだよ。萌梨くんが悪い人なんじゃないか、って思ってるだけなの。僕とおとうさんに悪いことしないかなって。しないって分かったら、嫌なのはなくなると思うよ」
「………、分かる、かな」
「分かるよ。だって、萌梨くん悪くないもん」
そうなのだろうか。あの目が引っかかって言葉に詰まっていると、がちゃ、とドアの閉まる音がした。足音がやってきて、戻ってきたのは聖樹さんひとりだった。やっぱり、ほっとしてしまう。
聖樹さんは外した眼鏡を仕切りに置いて、スーツを着替えた。あれ、と思った。そういえば、沙霧さんの前では眼鏡を外さなかった。外すヒマがなかったせいだろうか。きっとそうだ。
エプロンを着た聖樹さんは、夕食を作りはじめる。僕もキッチンに行った。夕食の手伝いは暗黙の了解になっている。聖樹さんもいちいち断ったりせず、何をしてほしいか頼んでくれる。
今日はカレーだった。僕は野菜の皮剥きをして、聖樹さんはサラダ用のマカロニを湯がく。
「沙霧、いきなり来てびっくりしたよね」
野菜の皮を剥く手を止め、苦笑いした。
「悠紗がインターホンに出るまで、追いかけてきた人かと思っちゃいました」
「そっか。ごめんね。前もって言っておくとかすればいいのに。ああいう子なんだ」
剥き出しになった野菜は、ボウルの水に浸す。全部の皮を剥くと、今度は包丁で一口大に刻んでいった。
「近頃、よく来るんだ。家にいるのが嫌だって」
「ご両親と仲が悪いんですか」
「普通だよ。適当に反抗して、適当に甘えて」
そんなものか、と普通の家庭を知らない僕は思う。
「あの、気に障ったらすみません。あんまり、聖樹さんとは似てないですね」
「そう? ああ、悠はそう言うかな。だいたいは似てるって言われる」
「そうなんですか。ごめんなさい」
「いや、僕も似てるとは思わないよ。容姿だけ見たら似てるんだろうね」
「………、まあ、そうですね」
僕も容姿しか見なかった──というか、見せてもらえなかったと思うけれど。包丁を境に野菜は細分されていく。
「想像と違ってました。聖樹さんの弟さんっていうんで、もっと、こう、ゆったりした人かと」
「はは。僕が優柔不断なんで、あっちがしっかりしちゃったんだ」
「学校、サボったりするって」
「しょっちゅうだよ。で、変なのが街に遊びにいくんじゃなくて、悠を保育園から連れてきて、ここで羽伸ばすところだね。沙霧にも体質があるんだよ」
「体質、ですか」
切ったじゃがいもをすくって、別のボウルに入れる。次はにんじんを取った。
「学校とかそういうのと合わない。一時期、危なくなったときもあるし」
「危なく、ですか」
「中学生の頃かな。僕は実家出てたんで詳しく知らなくても、いろいろと。僕とも口きいてくれなかった。奥さんと離婚して時間ができたら、話してくれるようになって。あんなふうに戻っていったんだ」
沙霧さんを思い返した。あの人もあの人で、抱えるものはあるのだろうか。
水に浮いていた野菜は、ばらばらになって一方のボウルにごった返していく。聖樹さんはマカロニを火からおろすと、それを調理するより、自然解凍していた肉を電子レンジで軽く温め、もう一本の包丁を刺し入れた。
「沙霧、萌梨くんには愛想なかったね」
最後の野菜を細かくしていた僕は、手を休めて顔を上げる。
「平気、です。怪しまれて当然ですし」
聖樹さんは困ったふうに咲い、「沙霧って疑り深いんだよ」と言う。
「あれで、僕と悠を心配してくれてるんだよね。何度か会えば理解すると思うよ。それまでつらいかもしれなくても、気を遣ったりしないでね。沙霧のために出ていこうなんて考えちゃダメだよ」
何とも言えずに口ごもる。本当に、何でこの人はそんなに分かってくれるのだろう。
「僕もごめん。沙霧に『来るな』とも言えなくて。あの子、大事なんだよね。昔から僕に構ってくれるんだ」
こくんとうなずいた。聖樹さんは微笑み、切った肉を鍋に落として炒める。切った野菜が入ったボウルを抱えて、僕はそばで待機する。
沙霧さんを思った。どうにかなるだろう。あの人と何時間もふたりきりになる、なんてことはたぶん起こらない。聖樹さんや悠紗があいだにいてくれる。
認めてもらえる可能性は希薄でも、僕だってあっちに帰りたくない。聖樹さんと悠紗は許してくれている。ふたりがここにいるのを理解してくれているのなら、僕はここで、あの悪夢に背いていたかった。
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