風切り羽-18

1004号室

 次の日の土曜日、なぜか聖樹さんは早起きだった。仕事行くのかなあ、とふとんでもぐもぐしていると、聖樹さんが始めたのは家事だった。思い返せば、聖樹さんは週末にまとめて洗濯や掃除をする。とはいえ、先週は昼過ぎにのんびり始めていた。何かあるのかな、と伸びをしてふとんを出る。
 座りこんで目をこすっていると、聖樹さんが顔を出して洗濯物がないかを問うてきた。寝ぼける僕はよく考えずに服やタオルを渡した。あ、と気づいたときには、すでに洗濯機に放りこまれている頃で、ばつが悪くなる。
 起きてきた悠紗も、僕と同じく聖樹さんの早起きに目をぱちぱちさせていた。「どうしたのかな」と悠紗に訊かれても、僕はもっと答えられない。
 いそがしそうな聖樹さんに代わり、僕が朝食に作ることにした。顔を洗いにいったとき、聖樹さんにも断っておく。「僕もやる」とキッチンについてきた悠紗に、たまごを溶いてもらったり、食パンにバターを塗ってもらったりして、オムレツとトーストをこしらえた。ごはんが残っていたが、三人ぶんはなさそうだったので、聖樹さんがおにぎりにでもしてしまうだろう。
 簡単な朝食ができると、みんないったん食卓に着いた。
「おとうさん、今日何かあるの」
 トーストをかじる悠紗が、怪訝そうな上目遣いになる。オムレツにケチャップをかける聖樹さんはうなずく。
「お仕事?」
「ううん。掃除に行こうと思って」
 悠紗の瞳は、歓喜に輝いた。スープに口をつける僕は、まだ意味を把握しきれない。
「そっかあ。もう帰ってくるんだよね。いつ帰ってくるかな」
「まあ、一週間前には帰ってくるよ」
「うん。わー、会えるんだ。久しぶりだあ」
 喜ぶ悠紗は、理解を取り残された僕を向いた。
「萌梨くんは、梨羽くんたちに会うの初めてだよね」
「あ、うん」
「おもしろいんだよ。要くんと葉月くんは仲良くなれるよ。エピレプシー、行くでしょ」
 依然僕は、“エピレプシー”という言葉の意味を知らなかった。というより、なぜ掃除が例のバンドの話に飛ぶのか分からなかった。オムレツを飲みこんだ聖樹さんは、「ライヴのことなんだ」と説く。
「ライヴ」
「十三日の金曜日にやるライヴ。その四人、十三日の金曜日には、地元のここでイベントとしてワンマンライヴをするって決めてるんだ。そのライヴを、一応決まった企画としてそう呼んでる」
「はあ。エピレプシー」
「その言葉次第は、イベントのライヴみたいな意味じゃないよ。正しい意味は癲癇」
「癲癇って、あの」
「痙攣して失神する病気」
「………、何でですか」
 聖樹さんは咲い、「見れば分かるよ」と言った。癲癇。見れば分かる。人が泡を吹いてもがくのなんて、悪いけれどあまり進んで見たくない。十三日の金曜日にしろそれにしろ、そのバンドの方向性は不吉だ。
「どうして十三日の金曜日なんですか」
「何となくじゃないかな」
「違うよっ」
 ココアを飲んでいた悠紗が顔を上げる。
「要くんが悪魔の日だからって言ってたもん」
「悪魔の日」
「梨羽くんに悪魔が来るの」
「梨羽、くん」
「ヴォーカルだよ」と聖樹さんが注釈を入れる。
「梨羽くんは悪魔を見ながら歌うんだって。いつもそうだけど、ここに帰ってきたら悪魔が強くなる。梨羽くんはそれを神様って思ってるけど、こっちから見たら悪魔なんだ。悪魔が見えないと、梨羽くんは歌えないの」
「はあ」と僕は神妙にオムレツをスプーンですくう。いったいどんな人たちなのだろう。本当に怖くないのだろうか。
「萌梨くん、エピレプシー行くでしょ」
「えっ」
 そんな話を聞くと躊躇してしまう。渋る僕に、「行ってみなよ」と聖樹さんは言った。
「取って食ったりはしないし」
「……しそうですよ」
 聖樹さんは咲い、「僕が変なことしないようにも言っておく」と添える。
「僕の頼みだったら、守ってくれるよ」
「行こうよ、萌梨くん」
 悠紗はせがむ。まあ、悠紗がこんなに気に入っている人たちだ。聖樹さんの友達でもある。沙霧さんの例もあるけど──僕はうなずいた。悠紗はにこにこしてココアを飲む。まだ案じる僕を、「大丈夫だよ」と聖樹さんが励ました。
「いきなりライヴに行くんじゃないし」
「え、そうなんですか」
「どちらかといえば、音楽を抜きにしたプライベートな友達なんだ。こっちに来たら、ここには個人的に来る」
「誰か近所に住んでるんですか」
「いや、みんな上に住んでるよ」
「えっ」
「年中留守ではあっても。そこを掃除しにいくんだ。帰ってくる前はそうするって約束なんだよね」
 切断された状況が、ようやく接続されてきた。要するに、その四人が帰ってくるので、四人の部屋を掃除し、出迎えよう、ということなのだ。
「えと、四つの部屋を掃除するんですか」
「まさか。みんな一緒の部屋だよ。十階の四号室」
「みんな一緒、ですか」
「うん。四人ともそれで構わないみたい」
「はあ」とカフェオレをすする。ここが地元ならば、年中空にしている部屋を借りるより、実家を利用すればいいのに。帰らないのだろうか。音楽をやると、親に反対される図をよく見かける。それなのだろうか。聖樹さんと悠紗がしてくれる話によると、そうとう個性的なバンドであるらしいし、親としては応援できないのかもしれない。
 どんな歌なんだろ、と興味は湧いてきた。ロック、と聖樹さんは言っていた。音楽に無知な僕は、怖そうだなと偏見する。ロックというと、耳をどうにかしそうな音楽に乗せて、がなりたてるイメージしかない。悪魔を見ながらの歌。聴いてみたいような、遠慮したいような。
 朝食のあと、聖樹さんは家事を再開した。食器は僕が洗い、聖樹さんと悠紗は洗濯物を干す。そのあとざっと掃除機をかけると、残りは明日、となって午前中にそのバンドの部屋に行く運びとなった。ひとりでいてもつまらないし、精神的にも危ないので、僕もついていった。掃除なら僕も手伝える。
 このあいだ屋上に行ったときにも通った十階に、エレベータで到着する。1004号室、の下に名前は入っていない。聖樹さんは慣れた手つきで鍵を開ける。僕と悠紗は手ぶらだ。掃除用具はここにあるのだそうだ。水道とか通ってるのかな、とよく分からず心配していると鍵が開き、僕たちはぞろぞろと中に入った。
 ほとんど何もない部屋だった。空気にほこりがこもっている。壁際のテレビと接続されたゲーム、その横の山積みになった雑誌、キッチンとリビングを別ける仕切りに沿うコンポ、目立つものはそれぐらいだ。ほかは部屋は空っぽで、まるで引っ越しをしていったあとだ。かえりみたキッチンには小さめの冷蔵庫があり、それも抜かれたコンセントを蛇のごとく転がせている。
 ベランダのガラス戸を開け放っていた聖樹さんは、クローゼットからほうきを取りだした。それは僕に渡し、悠紗にははたきを渡す。悠紗はコンポのほこりを丁寧に落とした。僕はほうきで床のほこりを集めた。聖樹さんはバケツに水を汲んできて、雑巾で窓を拭く。
 テレビのほこりを落としていた悠紗は、手を止めて雑誌のそばにしゃがみこんだ。「こら」と聖樹さんが、なぜか強く注意する。
「見ないの」
「どんなのか分かってるよ」
「でもダメ」
「要くんたち見てるじゃん」
「悠も要ぐらいになってからにしなさい」
 悠紗はむくれたものの、素直にテレビのほこり落としに戻った。何だろ、と思った僕は、その周辺のほこりを集めるとき、さりげなく雑誌の表紙を盗み見た。
 思わず頬が引き攣った。その山にはゲームの攻略本や漫画に混じり、表紙からどぎついポルノ雑誌があった。全裸できわどいぼかししかないものや、縛られているものや、そのもの最中のものまである。聖樹さんが注意するはずだ。
 露骨に目をそらした。が、遅かった。悪い記憶にくらつきそうになった。そうだ。ああいうのは恰好の教科書だった。みんなによってたかられ、ああいう雑誌の女の人と同じかたちにさせられた。それで女の子の代わりに──。吐き気がしてへたりこみそうになり、慌ててほうきをつかむ。落ち着いて呼吸し、何とかめまいをこらえる。
 健全な男が四人もいたら、あんなものはあって当然だ。別に僕への嫌がらせではない。けれど、普通、隠しておかないだろうか。あんなに堂々と置いておかなくてもいいのに。女の子が出入りしないので気にしないのか。僕はあんなの見たくなかった。
 平静を装って掃除をしながら、聖樹さんの部屋にはああいうのないなあ、と気づいた。悠紗がいるので我慢しているのか。聖樹さんが劣情を持つのは考えられなくても、紳士には性欲がないと決めつけるのも失礼だ。聖樹さんも男だし、女の人が欲しくなるときもあるだろう。例え離婚歴があって子持ちでも、聖樹さんの容姿や性格なら、同じ条件の男より女の人に不自由しない気がする。恋人がいる気配はない。奥さんとダメになり、恋愛に意欲がなくなっているのだろうか。そんな勝手な臆断をすると、集中を掃除に戻した。
 午前中は、数ヵ月ぶんのほこりを追いやるのに費やした。昼頃、一度鈴城家に帰り、昼食のうどんを食べた。分担の相談をし、僕はリビングに仕上げの掃除機をかけることになった。聖樹さんはバスルームとトイレを洗い、悠紗はベランダを掃くことになる。まずそれをし、終わったら残っているキッチンや拭き掃除をやる。昼食と後片づけが終わると、僕たちは再び1004号室に向かった。
 掃除機は引きずりまわす大きなものでなく、モップ要領の手軽なものだった。細かい掃除に使用する吸い口の場所も聞いておき、フローリングに掃除機を這わせる。悠紗はほうきとちりとりを持ってベランダに出て、聖樹さんは奥のドアに消えた。
 ベランダの悠紗は、たまにしゃがみこんで渋い顔をしていた。「何してるの」と行ってみると、虫の死骸をしめされて後退った。「死んでるよねえ」と言われて、ぎこちなくうなずいて部屋に引き下がる。虫に恐怖はなくても、人並みに嫌悪はある。掃除機を握り直し、ゴキブリ見ないなと思った。さすがに十階には出ないか。それとも隠れてるのかな、と思うとちょっとぞっとした。
 床一面に掃除機をかけると吸い口を変え、隅々の掃除に取りかかった。ガラス戸の溝、壁際やテレビの周り、雑誌の周辺のときには視線を落とさないようにした。
 コンポを乗せる低いサイドボードも掃除した。コンポの後ろも横から吸い口をさしこんでほこりを吸う。すると、ばさっという音と共に、何かが吸い口を塞いだ。眉を寄せて掃除機を引き、犯人を確かめる。
 紙だった。ノートをちぎった、粗末な紙の切れ端だ。スイッチを切ると、その紙片はふわりと吸い口を落ちた。拾って、吸引でついた皺を伸ばす。
 何か書かれていた。女の子みたいな、子供っぽい丸字だ。つい読んでしまう。

  俺は腐ってる
  蛆虫にたかられて
  ゴミクズ同然

 え、と思った。
 何。何だろう。読み返してみた。何だこれは。異様にどす黒い。文字はかわいらしいのも怖い。
 何の気なしに裏返すと、そっちにも文章があった。同じ字だが、こちらは走り書きだ。

  生きてる奴なんかいない
  死んでるのに気づかないだけ
  瞳に膜をはって
  舌をさばいて
  心の悲鳴に耳をふさいで

 どきっとした。つい掃除も忘れ、その紙を凝視する。何だろう。誰が書いたのだろう。ここはあのバンドの部屋だ。もしかして、歌詞だろうか。
 歌。に、しては、暗すぎる気がする。こんな膿んだ歌詞を歌っても、みんなヒイてしまうのではないか。短い断章でも、この文にこめられた深い闇は感じられる。
 でも──
 紙をたたむ。どうすべきか考え、元の後ろに返しておいた。なぜか持っていきたくなったものの、これはここの一部だ。僕が持っていってはいけない気がした。
 暗い文章だ。でも、僕は惹かれてしまった。何でだろう。ずしっと来る。誰が書いたのかな、と掃除機を抱え直す。これを声に出すのはヴォーカルだし、梨羽さんとやらが書いたのか。どんな人だろう。
 来月の十三日には会えるのだ。何だかどきどきした。僕はこの文章の機微を感じられる──感じてしまう気がした。そして、そうされるのを拒む深い孤独感も。
 掃除をしながら、重い言葉たちは心を離れなかった。一番焼きついたのは、“心の悲鳴に耳をふさいで”というところだった。僕はあの体験に対し、そうしようとしているのかもしれない。
 殺して埋める。単なる現実逃避なのだろうか。耳を塞いでいるだけなのだろうか。仮に刹那的なものであっても、それ以外にマシになる方法はないと思っていた。もしかしたら、それは違うのだろうか。

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