風切り羽-2

夜道にて

 けばけばしかったイルミネーションが落ちついていく。車道も半分になり、人をよけたりぶつかったりする回数も減った。並ぶ店もきらびやかな流行りの店でなく、コンビニや本屋、マンションやアパートもちらほらしはじめる。明るさがぐっと落ち、滲んだ視界を痛感せずにすんだ。ざわめきも遠のき、自分の荒れた息遣いやばたばたする鼓動が聞き取れる。駅前をそれたみたいだった。
 ようやく駆け足を緩めた。あそこを離れられただろうか。ぐるぐるして戻ってきたりしていないだろうか。僕はここの地理をまるきり知らない。振り返ると、荷物を背負って駆け抜けてきた僕に訝しそうな人はいても、追ってくる影はない。天を仰いでも、ホテルっぽい高い建物はない。立ち止まった。急に足を緩めたせいか、こめかみがくらついていた。でも、止まったら逆効果で咳きこんでしまった。前屈みになって呼吸を整える。こんなに耳障りな心臓は初めてだ。疾走も、能動も──何か、いろいろ、初めてだ。喘ぐ胸を抑え、なおも歩く。
 夜が深まっていくごとに、暗い場所に迷いこんでいった。人も減ってしんとして、道路も歩道のない一方通行になったりする。住宅街だ。マンションが立ち並び、光が極端に少ない。街燈や自動販売機、ときどき通り抜ける車のヘッドライトが頼りだ。
 ぜんぜん知らない匂いがする。当たり前だ。あの部屋を逃げ出さなければ、一生この道を歩くことはなかった。そう思うと、今の自分の危険が身に迫って泣きそうになる。かばんの持ち手を握りしめ、無意味にきょときょとする。不安と絶望が胸を犯す。激情に走った副作用に、凄まじい畏怖が襲ってくる。
 どうしよう。いったいどうするつもりだ。こんなところで逃げ出してもどうにもならない。何をしているのだろう。あんなのはいつだってされてきた。なぜ今日に限って恐怖に負けてしまったのか。最悪だ。ここでなくても、別のところでも思い切れた。こんなところで限界に達しなくてもいいではないか。バカみたいだ。
 明日どうしているのだろう。次の瞬間も分からない。どうしよう。やっぱり帰ろうか。嫌だ。それは嫌だ。だけど、だったらどうすればいい? こうしてふらついているのか。そんなことをしたら行き倒れか、警察に保護されるかだ。でなければ捜しにきた先生か。
 たぶんそうだ。僕はつかまる。そしてまた何も言えず、僕ひとりしかられる。どう言ったってみんな僕を信じない。仮に信じても重く考えない。男が男に! 遊びの延長にされておしまいだ。帰ったって、歩いていたって、僕はあそこに戻る運命だ。来週にはまた学校に通い、みんなにたかられ、傷を傷でえぐられている。今ここを歩いているのはくだらない現実逃避だ。
 来週は犯されている。逃げられない。あとちょっとで先生、警察、何にも分かっていない大人に、地獄に連れ戻される。
 どうしてこうなのだろう。みんな理解できないくせに、どんな苦しいか知らないくせに、僕がされていることを定義する。向こうはふざけていた、考えすぎだ、お前がはねつければいい──この苦痛を大したことはないと、逆らえない自業自得だと決めつける。実際言われたわけではないけれど、何にも分かっていない人がそう言うのは分かっている。されなければ分からない。強烈な空恐ろしい無感覚。またたいて眼前を犯す光景。焼きついて喪失も過去にもできない記憶。脳の麻痺をつんざく心の激痛。なってみないと分からない。いろんなものをもぎとられ、隙間だらけになってみなくては、この神経の浪費の反動は味わえない。
 向こうがふざけていたといって、何なのだろう。向こうが本気でなければこちらも傷つかないなんてバカげている。考えすぎでもない。必要なもの、成長すべきもの、いろんなものを切断され、僕の精神の欠乏は回復もできずに枯れている。はねつけられたら、どんなに楽だろう? 折り重なった恐怖の潜在意識で、僕は僕にだって裏切られるようになっているのだ。頭の指令が、心の悲鳴が、断ち切られてかけはなれた神経のせいで軆に行き届かず、すくんで動けなくなる。
 あの無力感。分かるわけがない。
 何も知らない人だって、僕を踏み躙る人だって、寸裂と化した心で生きていく苦悶は分かりはしない。どんなに呼吸の震えを意識して生きているか。みんな生きていることなんか忘れて生きている。僕はそれができない。無理に生きている。死ねばいいのに生きている。死ぬほうが向いている。何かを見たり聞いたり、動いたり呼吸したり、ここにいることがだるくてたまらない。
 自殺したくなるのはそのだるささえ吹っ飛んだ、物凄い虚しさにおちいったときだ。手首にカミソリを当てた。縄跳びで輪を作った。マンションから飛び降りようか、路線に飛びこもうか、理科室から薬をくすねてこようか。どんなに痛くてもかまわない。この心の痛みに勝るものはない。
 死にたい。僕はいつもその欲望と闘っている。この凄絶な精神力は、何もされたことのない人には分からない。人が何で心を侵害されるか、定義する人間には分からない。僕はもうすぐ、そんな幸せな人たちに、あの悪夢に放りこまれる。あと何時間、何分、何秒かあとには。僕は犯される。心を殺される。内面的に発狂する。僕は逃げているけれど、こんなのは茶番だ。どうせ捕まる。逃げられない。どうにもできない。いつも、ずっと、死ぬまで、死んだみたいに生きていかなきゃ──
 脈絡ない自己憐憫の思考にかまけて、早足を紡いでいた脚がもつれた。疲れはじめた脚と、ずりおちた荷物に釣りあいを取り損ね、つまずいてしまった。荷物にぐいと地面に引きこまれて膝もすりむける。手のひらにアスファルトの冷たさが広がり、またもや泣きそうになった。ついてない。何でこうなんだろう。そう思っていたときだった。
「大丈夫?」
 後方に足音が近づいて、そんな声がかぶさった。慌てて立ち上がろうとした。が、地面にはりついたような重い荷物に速やかに立ち上がれなかった。そのあいだに声の人はそばにやってくる。
「大丈夫?」
 物柔らかな、でも、男の人の声だった。顔を上げるのが怖かった。背広を着て、品のいい革靴を履いている。仕事帰りだろうか。すらりとした脚をしている。おろおろと荷物をかかえて立ち上がろうとすると、その人は僕の腕を取った。僕は大袈裟なくらいにそれに痙攣し、反射的にその手を振りはらってしまった。
「あ……、」
 面食らった空気が伝わる。頬が発火した。ひどい。この人は僕を手伝おうとしただけなのに。
「え、えっと、その、ごめんなさい」
「いや……」
「あの、僕、大丈夫です。ごめんなさい」
 その人の顔も見ずにぺこぺことすると、身を返してその場を逃げ出した。走る揺れに荷物がずりおちかける。軆が熱くなっていた。瞳が滲む。やっぱりダメだ。しょせんこうだ。傷が綻び出そうになると、繕って隠してしまう。
 右に角があった。あの人の視界を失せたくて曲がった。右手の前方にまぶしい光がある。コンビニだ。身を隠せたことにほっとして、歩調を緩ませた。すりむけた膝がずきずきしている。コンビニを通り過ぎると、あたりは再び暗くなった。
 体内に黒い自嘲の波が押し寄せた。そうだ。僕は心では苦しいと喚けても、口には出せない。言う勇気がない。感づかれそうになればごまかす。自分がされていることを話しても、「ふざけあいだったから、気にしてない」と嘘をつけくわえるだろう。恥ずかしいのだ。されていることも、傷を自覚していることも。
 傷ついている、と思っていることを誰かに知られるのが怖い。僕は傷ついているんです。言葉にした途端、自己憐憫が含まれている気がしてならない。酔っているとは思われたくない。でも、僕の裂けめは人には見えないし、まして感じられない。自己陶酔と透明な傷、このふたつを明確に言い分ける術が僕にはない。その術を獲得しない限り、この傷の存在を漏洩させるわけにはいかない。
 告白したとして、たかがそれくらいと言われるのも怖い。大半の人がそう言う気がする。男が、男に。何で笑い飛ばせないんだとみんな言うだろう。拒めばいいじゃないかとも考えるだろう。それが、怖い。そう言われて、考えられて、苦しむ自分を自虐する状態になるのが怖い。みずからこの傷口を否定するのが怖い。他人にこの傷を笑われて否定されれば、僕は内罰的になるだろう。
 意気地なしなのだ。人に逆らえない。内観に自信がない。すぐ流される。意思もつらぬけない。僕は脆弱だ。傷ついているなんて死んでも言えない。人にしたら僕の傷は大したことはない。ひとりで抱えこみ、傷の存在を信じられているほうがマシだ。僕は自分自身でいることを否定するほど、傷に溺れたくない。いつだって溺れそうにはなっている。しかし、何も分かっていない他人に沼に突き落とされるのはごめんだ。
 足が重くなってきている。腿や膝が引き攣れた痛みを発している。僕はきょろきょろして、後方に公園があるのに気づいた。ベンチか、ブランコぐらいはあるだろう。座りたかった僕は、引き返してその公園に入った。
 広い児童公園だった。ブランコ、すべり台、砂場だけでなく、ジャングルジムや雲梯、鉄棒もある。ベンチもあった。この住宅街に暮らす、子供たちの広場なのだろうか。僕は自分の家の近くの公園を思い出し、ふと足を止めた。夜の公園では、しばしば独特の光景が繰り広げられている。野良犬の集会とか、不良のたまり場とか、浮浪者の休息とか、恋人たちの逢い引きとか。変質者もいる。けれど、見まわしても、そういう影はなかった。
 砂場を一望できる、入口近くのベンチに腰かけた。背中にさっきのコンビニの電燈が届いている。澄んだ虫の声が響き渡るほかは閑静で、おさまっていない搏動や呼吸が目立った。ほてる頬を秋冷のそよ風が冷やす。
 荷物は隣に置いた。脚ががくがくになっている。膝の疼きを覗くと、けっこう大きくすりむけていた。かたわらの電燈で照らしてみると、流れた血がぬめっている。かばんを開けて、ティッシュを出し、唾をつけるかに迷って、そのまま血を拭った。ぴりっと痛みが走る。傷自体は適当に、周りの血は丁寧にぬぐう。ティッシュをかばんに戻すと、手持ち無沙汰になった。ため息をついてうつむき、ベンチに沈みこむ。
 それで、どうしよう。あんがい、誰も追いかけてこない。こんな住宅街に迷いこんでいるなんて思いもよらないのか。先生たちは僕が逃げ出したのを知らないとか。同室の同級生としては報告して心当たりを追及されたら痛いところだ。でも、点呼がある。いずれにせよ、明日の朝食には発覚する。隠していたら具合の悪いことがあるのではと疑われるし、同室のみんなは報告していると思う。どうせみんな僕が公言できないのを知っている。見当を訊かれてもしらばくれる。本気で分からないと言うのかもしれないが。先生たちが知りながら放っているというのはないだろう。失踪されたら不祥事だ。外に出たとは考えずホテル内を探しまわってるのだろうか。僕のおとなしくて行動力にとぼしい性格は、担任ぐらいは知っている。先生が来なかったらどうしよう。もし捕まらなかったらどうなるのだろう。
 金銭はおみやげ代の一万円だ。何も買っていないので崩れていないが、一生の逃亡生活をまかなえるはずもない。家に帰ることはできても、家も嫌だった。家は、学校と同じくらい嫌いだ。家の居心地がよければ、登校拒否や引きこもりという手段で助かっていたかもしれない。僕の家にはおかあさんがいない。おとうさんは──
 吐き気がして振りはらった。考えたくない。
 あの街に、学校に、家に連れ戻されずに済んだら、僕はどうしよう。働ける歳でもない。歳を偽るか。ホームレスになるか。僕は見るからに子供だ。警察に補導される恐れがある。いっそ補導してきた警察に告白してみようか。どんな思量を巡らせても、現実味がなかった。あの地獄に引きずられていく仮説だけ、恐怖と嫌悪が嫌でも現実味を持たせる。やはりそうなのか。僕はあそこに連れ戻される運命なのか。

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