風切り羽-20

月明かりのベランダ

 息苦しさに目を開いた。唇を噛みしめたくなる痛みが胸を襲う。視界は真っ暗だった。静寂には耳につく音もない。何秒か考え、今が夜中であるのと、自分がふとんに身を丸めているのに気づいた。
 頭はふやけて、鈍痛を発している。まただ。また夢だ。今日は何だっただろう。小さい頃だった。そう、上級生に、何にも分からないまま、させられたときのことだ。嫌になる。忘れられたと思っていたことを、脳はこうして焼きついているのを夢で主張する。
 暗い空中に視線を置いた。心臓にあるのは搏動ではなく、締めつけそうな痛みだった。荒い息もなく、ただ泣きたい。まばたきをした。途端、目頭が発熱し、視界がぼやけた。こめかみに生温い雫があふれ、震える息を吐く。
 まくらに顔を伏せた。まくらは僕の涙を飲みこんでいく。
 声を押し殺し、素直に解放した。そうしないとつらかった。あのとき、僕は理由が分からなくて、泣くことすらできなかった。現在でぐらい、泣きたい。あのとき、本当は泣きたかった。あれが何だったのか、知りたかった。知って、嫌だと感じていいものだと理解し、次からは断ることを憶えるべきだった。あのふたりとおかあさんに抑えつけられ、無知に終わらせてしまった。こうして泣いていれば、何か変わっていたかもしれないのに。
 七歳の僕には、された行為がどういった意味を持つのかすら分からなかった。子供だった。せいぜいあった所感は、排泄器官を口に入れる抵抗だ。別にあったはずの根深い嫌悪は、感じることを知らなくて気づけなかった。あとで妙に泣きたくなっただけだ。あのふたりの優しげな対応にも、不愉快になるべきだといっさい気取らせてもらえなかった。あのとき、僕は本能に頼ることもできなかった。まだ本能は眠っていたのだ。
 涙は止まらなかった。喉がずきずきして胸も痛い。あのやりきれない疼痛が総身に染み渡る。平然と嘘をついたあのふたりも、それを鵜呑みにしたおかあさんも、みんな憎らしかった。僕ひとりに膿んで焼きついている。僕ひとりに。あれで僕が傷ついたなんて、ほとんどの人には分からない。どんなにあれが僕をぼろぼろにしたか。誰にも分からない。
 やがて、心の奥がだるくなってきた。憎しみを感じたせいだ。僕の気力は、憎しみなんてものに見合っていない。動いたり、しゃべったり、咲ったり、そんな最低限のことにも精神力が必要で、憎む余力は掠奪されている。
 悔しくて、虚しかった。憎めるのなら、それを糧に立ち上がり、苦痛を告発できたかもしれない。でももう、そんな余裕もない。憎しみなんか、感じただけ反動が長くなる。すると、あの死にたい気持ちがやってくる。それを押し返すのにまた精神力が必要になり、真っ暗にぐったりして、悪循環がひたすら続く。
 僕はダメなのだ。この命は生きることに向いていない。いちいち努力を施さないと、普通でいられない。
 陰鬱な思量が巡り、吐き気がしてきた。やめようと思っても止まらない。うずくまっているのが悪いのだろうかと、外の空気を吸うのを思いついた。十月の下旬だ。まだ寒さに凍えるほどではないだろう。上着は羽織って、ふらつきながらベランダに出た。
 外は静かで、冷たい闇に覆われていた。濡れた頬に刺さる冷たさに驚き、上着の袖で雑に涙をぬぐう。今日も自販機や明かりを残す部屋はあっても、この暗闇には心許なかった。マンションのあいだでは、月が星をまとっている。
 上着の合わせをつかみ、手すりにもたれた。こんな深夜でも、下の道路をときおりさあっと車が通り抜けていく。土曜日の夜だ。正しくは日曜日になっているのだろうけど。
 透明な息をつき、瞳の力を抜いた。秋の虫の声は減っている。このあいだまで、汗でびしょ濡れになるほど暑かったのに。冬が近いのだ。軆の感覚を削り、ぼうっと手すりに体重を預ける。
 忌まわしい記憶を探りたくなくて、思考を無理に切り替えた。昨日のことを考えた。あのバンドの部屋を掃除したことを。
 あの断章は心に残っている。あれを読んで、急速にそのバンドへの興味が湧いてきた。忘れていたバンド名も、共同でキッチンの掃除をした悠紗に訊いて思い出した。XENON。「意味知ってる?」と訊くと、台に乗ってシンクを磨いていた悠紗は、「化学の何とかって言ってたよ」と答えた。
「でね、ひとりぼっちって意味にしてるの」
「ひとり、ぼっち」
「誰とも仲良くなれなくて、ひとりぼっちなの。梨羽くんのことなんだって」
「梨羽さん、って、その──」
「歌歌うの」
「歌詞書くのって、その人だよね」
「うん」
「どんな人なの」
「え。んー、梨羽くんはしゃべらないよ」
「しゃべらない」
「ずっと英語の音楽聴いてて、端っこにいて、しゃべらないの。顔はかわいいよ。目がぱちっとしてて、女の子みたい。おとうさんの一個下なんだけど、高校生ぐらいに見えるの」
「はあ」
「梨羽くんは、普通の歌歌う人とは違うんだ。みんな音楽が好きで歌うでしょ。梨羽くんは歌うのが嫌いなんだ」
「……嫌い」
「要くんたちも言ってる。梨羽くんは、歌は歌っても、歌手は“しっかく”だって」
 こする焜炉の上を騒ぐ泡を見つめた。歌うのが嫌いな歌手。どんな歌手だ。メンバーにも“失格”と言われる。いくら僕が音楽に暗くても、そんな歌手やバンドは聞いたことがない。
 重ねて質問しようとしたとき、悠紗が悲鳴をあげて台を飛び降りた。「何」と駆けよると、排水溝から黒光りが這い出てきていた。僕は慌てて殺虫剤を取り、飛ぶ前に退治できた。死骸は悲鳴に駆けつけた聖樹さんが処理してくれた。悠紗は僕にしがみついて、半泣きになる。「虫、平気なんじゃないの」と訊くと、「あれはやだよお」と返ってきた。
 そのどさくさで、梨羽さんについて質問する機会も絶たれてしまった。僕の中の梨羽さんやXENONへの疑問は、消化どころかふくらんでいる。それに驚いていた。これまで、そんなものにちっとも興味を持てなかった。音楽や文学に向ける気力の余裕があれば、生きるのをマシにするほうにそそいでいた。
 僕は無気力で無関心だった。手首を守るのや紐で輪を作らないのに手一杯で、娯楽は眼中になかった。なのに、あの詩に惹起されてバンドに惹かれている。あの詩がそういう力を持っているのだろうか。僕が変わってきているのか。
 現在の自分を内省してみる。あちらにいた頃よりマシになっている。向こうでの僕は、欠落に支配されていた。四六時中死ぬことを考え、会う人会う人が怖くて、恐怖をじかに踏み躙られていた。そのたびぐらぐらして、残るのは痛みより虚しさで、普通を演じている徒労に押しつぶされていた。無意味にいらついたときには性器や手首を傷つけた。ここにいて、そんなみじめな生活からマシにはなっている。けれど癒されたとは思わない。僕自身信じたくなくても、この亀裂はそんなに簡単なものではないのだ。事実、今もあんな夢で苦しんだし、ふとした隙に無感覚は僕を襲う。マシはマシであって、完治ではない。
 腐って、たかられて、ゴミクズ同然。惹きつけられるのは、あの詩の威力だ。秘められた凄まじい痛みを僕は感知してしまった。自分もそうだから。あんな歌詞じゃ、歌うのも憂鬱だろう。でも、その梨羽さんはそういうのしか歌えないのかもしれない。砂を噛む気持ちにしかなれないのかもしれない。同族意識は苦手だけれど、ゴミクズにされてきたこの心は、嫌でもあのざらついた孤独感に共鳴する。あの詩の悲鳴が、自分の心の悲鳴に似ていると気づいてしまう。
 身動きして手すりにもたれなおした。また、ヘッドライトを伸ばす車が抜けていった。遠ざかるテールライトをぼんやり見つめた。くだり坂になってるのか、テールライトはかすむのでなく消えて見えなくなった。
 うつむき、ため息をつく。関係のない考えごとをしていて、夢の残像は鮮烈ではなくなっている。胸苦しさは残っている。無造作に胸をさすり、深呼吸したときだった。
「萌梨くん?」
 びくっと振り返った。そこには、カーテンをめくってガラス戸を開けた聖樹さんがいた。ほっと息をつき、ついで、どんな顔をすればいいのか分からなくなる。聖樹さんは追求せず、もうひとつのサンダルでベランダにおりた。
 聖樹さんを見上げる。聖樹さんも僕を見返し、微笑んだ。けれど、その頬はこわばっていた。僕の脳裏に、数日前のひと晩じゅう嗚咽とうずくまっていた聖樹さんがよぎる。
「眠れないの?」
「ちょっと」
「そっか」
「聖樹さんも」
「うん」
 聖樹さんも、同じように手すりにもたれた。手すりに乗った聖樹さんの手の甲は、澄んだ月明かりにどきりとしそうに蒼白い。聖樹さんはパジャマすがたで、上着は着ていない。「寒くないですか」と僕は訊く。時間帯と場所に声をひそめてしまう。「ちょっとね」と聖樹さんも小声で答えた。
「でも、冷たい風に当たりたくて」
「そうですか」
 聖樹さんの息遣いは細かった。普段特に意識せずに話しているので、こうしてそばに並ばれると、大人の人なんだなあと実感させられる。
「悠紗は眠ってるんですか」
「うん。今日、疲れさせちゃったし」
 うなずきつつ、その何気ない言葉に聖樹さんが本当に眠れていなかったことを察する。わずかでも眠っていたら、「昨日」と言うだろう。
「萌梨くんもごめんね。こき使っちゃって」
「いえ。楽しかったです」
「そっか」と聖樹さんは咲った。今度は柔らかさがある。
「もっとまめに掃除してもいいんだけどね。帰ってくるときだけでいいって言うんで」
「ここを離れて、その人たちは何してるんですか」
「ライヴだと思うよ」
「テレビに出たりはしないんですか」
「プロじゃないしね。雑誌のインタビューとかは受けてるけど。でも、それもたまにかな」
「プライベートな友達なんですよね」
「うん」
「ライヴハウスとかで逢ったんですか」
「ううん。中学がみんな同じなんだ。学年はばらばらだけど、みんなこの近くの中学を一応卒業してる」
「一応、ですか」
 聖樹さんはくすりとして、「みんな問題児だったんだ」と言った。
「じゃあ、中学生のときにバンド始めたんですか」
「ヒマつぶしでね。僕がみんなを知ったのは、その頃だよ。やっと楽器があつかえるようになってきた頃。あ、紫苑はもともとギターしてたか。そのときはバンド名もなかったよ」
「XENON、ですよね」
「うん」
「意味、知ってますか」
「元素のひとつなんだ」
「元素」
「化学で水素とか鉄とかあるよね。それのひとつ」
「悠紗が、ひとりぼっちって意味だって」
「うん。キセノンって無味無臭で、ほかの元素とほとんど化合しないんだ。で、誰とも溶け合えなくて、孤立するって意味に取ってるみたい」
「何か、梨羽さんがそうだって」
「梨羽がまさしくそんな感じだからね。無味無臭っていうのも、梨羽は自分をくだらない凡人だと思ってるから」
「じゃあ、梨羽さんのことなんですね」
 聖樹さんはうなずきながらも、どこか躊躇うような表情をした。僕が見つめると、あのこわばった笑みをする。何となく咲い返せなくて、凝視するのも突きつめるみたいで、道路を眺めやった。聖樹さんもそうした。
 しばし沈黙したのち、「梨羽と最初に知り合ったんだ」と聖樹さんがつぶやく。
「え」
「僕、これでも学生の頃は根暗でね。友達とかいなかったんだ。ひとりでいたら、梨羽が引っ張っていってくれた。で、ほかの三人にも逢った」
「そうなんですか」
「学生時代でよかったことなんて、あの四人と知り合えたことぐらいだよ。ほかには憶えておきたいことなんてなかったな」
 聖樹さんは何秒か口をつぐみ、また別の咲いをした。自嘲気味の、崩れそうな笑みだった。「愚痴だね」と謝られて、かぶりを振る。聖樹さんは微笑むと、視線をベランダの下に落とした。僕はそっと聖樹さんの横顔を盗み見る。
 綺麗な顔だ。月光がそそいで、その頬は白く鮮明だ。前髪や睫毛の先には、光の雫があるようにも見える。でも瞳は深くて、物憂げで、表情に月光と隣り合わせの影を落としている。
 僕は誰のことも怖くて、信じられなかった。なぜか聖樹さんには心を許せた。たとえば僕は、あの詩の孤独に共鳴した。聖樹さんにもそんなふうに共鳴したのだろうか。だとしたら、何に?
 僕は聖樹さんに虚ろな影を見る。その影に、だろうか。けれど、それが僕の心を共鳴させるものだとしたら、いったい聖樹さんは何を背負っているのだろう。

第二十一章へ

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