風切り羽-21

息苦しい時間

 沙霧さんが部屋を訪ねてきたとき、本音では嫌な緊張が走った。
 昼食も終わった昼下がり、聖樹さんは昨日繰り越した風呂掃除を、悠紗はゲームを、僕はその隣で読書をしていた。
 沙霧さんは、ドアを開けた聖樹さんと喜んで出迎えた悠紗には咲っても、僕には咲わなかった。雰囲気をまずくしたくなくて、僕は気づかなかったふりで、哀しくなったのは隠した。
 聖樹さんが掃除に戻ると、沙霧さんは悠紗のそばに腰を下ろした。沙霧さんの近くにいるのは怖かったので、僕が後退する。聖樹さんや悠紗にはああ言われても、やはり、沙霧さんには僕への敵意がある。
 ベランダのガラス戸に下がり、レースカーテンにもたれた。悠紗が懸念の表情をすると、僕は何とか気丈に咲い、読んでいた雑誌に目を落とす。
 僕の手にあるのは、ロック系の音楽雑誌だ。バックナンバーで、XENONのインタビュー記事が載っている。聖樹さんが、何冊か引っ張り出してきてくれたのだ。こういう雑誌は、メンバーが送ってきてくれるという。
 しかし、XENONの特集はなく、インディーズ特集の簡単なインタビューにしか出ていない。悠紗が語ってくれた通り、梨羽さんがしゃべらないと書いている雑誌もあった。ギターの紫苑さんもしゃべらないらしい。ベースの要さんとドラムスの葉月さんは、よくしゃべっている。
 この数冊を読んでみて、少しながらXENONに関する知識が明るくなった。
 梨羽さんに対し、なぜそんなに書く詩が激しいのかと質問を投げかけた一冊があった。そう問いかけた人をしばらく睨んで──そう書いてある──梨羽さんが言った答えは、意味深だった。
『それしか聞こえないから』
 場の空気が悪くなりかけたのを、『こいつ根暗なんですよねー』という高笑いで要さんが救った、とある。要さんと葉月さんがひと弾みになって、梨羽さんと紫苑さんをバンド外と取り持っている様子だ。
 もうひとつ興味深い情報で、結成の切っかけが“隔離教室”だったということだ。これは、普通の教室にいたら問題がある生徒を別室に隔離する、というものらしい。『別室登校の加害者版』と葉月さんがあっさり言っている。
 加害者。そういえば、聖樹さんも問題児だったと言っていた。不良だったのだろうか。
 何か変なバンドだなあ、と雑誌をめくっていると、「萌梨くん」と声をかけられた。顔を上げると、悠紗がそばに来ている。
「梨羽くんたちのお話だね」
 うなずきつつ、ちらりと沙霧さんはゲームをしているのを確認する。
「おもしろい?」
「うん」
 悠紗は嬉しそうにすると、正面にしゃがんだ。一緒に雑誌を覗き、「萌梨くんなら分かると思った」と言う。
「梨羽くんたちを嫌がる人、多いんだ」
「嫌がる」
「にこにこしたり、明るいこと言ったりしないでしょ」
「うん」
「あとね、そこにはあんまり書いてなくても、音楽始める前に四人ともたくさん悪いことしたんだ。僕も要くんと葉月くんがしたことしか知らない。紫苑くんと梨羽くんは教えてくれない」
 雑誌に目を落とし、“隔離教室”の文字に目を留める。
「要くんたちがしたのって、すごく悪いことだよ。僕はそんなの構わないの。要くんたちも、しなきゃよかったとか思ってないよ。ただね、梨羽くんは違うの」
「梨羽、さん」
「うん。梨羽くんは自分が嫌い。で、歌うのも嫌いなんだよね」
「悠」と沙霧さんの声がかかった。悠紗は沙霧さんを振り向き、僕は居すくまった。沙霧さんは悠紗にコントローラーをさしだす。
「お前の番」
「えっ、早い。あ、ミスしたんだ」
「してねえよ」
「えー。やだなあ、僕負けそう」
「スタート押すぜ」
「ダメ、待ってよっ。萌梨くん、ごめんねっ」
 悠紗は立ち上がり、沙霧さんの隣に駆け戻った。僕は雑誌を抱え直す。
 渡したコントローラーで悠紗がゲームを始めると、沙霧さんは僕を向いた。視線が合って、びくんと睫毛を下げる。
 雑誌を読もうとしても、活字に集中できない。沙霧さんの視線は、怖い。いろんな猜疑が煮つめられていて、ちくちくする。やっと目を離されると、ほっとして、少し息を吐いた。
 沙霧さんとは仲良くなれそうにない。沙霧さんが、僕を辱めたりしないのは分かっていても、このいたたまれない気持ちは、疎外されていた教室で席に縮まっていたのに似ている。
 本当は僕は、こうして誰に対してもびくついて、殻をまとおうとする。初対面で打ち解けられた聖樹さんと悠紗は、奇跡なのだ。沙霧さんがいると、消えない傷口による欠落を思い出す。
 せめて、沙霧さんが敵愾心をやわらげてくれたらいい。だが、それもむずかしそうだ。沙霧さんは僕を不審がっている。僕をずうずうしい奴だと思っている。それは僕も自認していて、いっそう沙霧さんに顔向けできない。
 確かに、僕はここにいるべき人間ではない。しかし、聖樹さんと悠紗は許してくれた。僕はあえて他人行儀を捨てようとしているけど、沙霧さんはそれを咎めてくる。
 沙霧さんが正しい。僕は厚かましい。聖樹さんと悠紗は変わっているのだろう。
 沙霧さんのために出ていこうなんて考えなくていい。聖樹さんの台詞を頭に言い聞かせても、この空気にいると、すごくつらい。
 沙霧さんは、悠紗の操作を揶揄し、言い返されて楽しげに笑っている。沙霧さんは沙霧さんで、この部屋の空気になじんでいる。僕も僕でここになじんでいる。なのに、こんなにも壁がある。
 悪いのは、僕だろう。沙霧さんにはここにいる権利がある。僕にはない。僕がここになじむのは、甘えた身勝手だ。近頃は鎮まってきていた疑問が噴き返る。
 ここにいてはいけないのだろうか。僕の居場所はあの悪夢なのか。沙霧さんは帰れと訴えている。何にも知らないくせに、と僕はわがままをわめける立場なのか。
 すべて知られたって、沙霧さんの不信感はぬぐえないと思う。僕がされてきたことは、ほとんどの人間に一蹴される。一般ではありえないからだ。嫌悪のあまり、笑いに貶める。その要は常識だ。普通の人間には、自分たちの反応で僕がさらに沈めば、不可解でしかない。
 沙霧さんも不可解がる人だろう。僕がこの心をさらしても、「だからどうした」「言い訳にもなってない」とか言ってくるに決まっている。
 僕はここにいてはいけない。空気を濁らせ、悠紗には気を遣わせている。僕も沙霧さんといるのは息苦しい。
 でも、だとしたらどうするのか。帰るのか。あの街に。膝に顔をうずめた。
 頭の中で記憶がずきずきしてくる。あの精神力の浪費、その反動、無気力と抑鬱、陵辱で無残に麻痺する神経──よかったことなんて、ひとつもない。ひとりぼっちだった。希望はいつか死ぬことだった。帰りたくない。死んでも帰りたくない。僕だってできれば生きているのを好きでいたい。帰ったらそんな淡い望みはおしまいだ。
 苦しかった。他人には分からなくても、僕には凄まじい苦痛だった。もう二度とあんな屈辱は受けたくない。僕にはここにいる権利はないけど、あんなことをされる義務だってない。
 頭の中が思索に錯乱してきた。気分が悪くなって、頭ががんがんしてくる。ガラス戸に背中をもたせかけた。軆が重い。細胞の全部が贅肉になったように、床にぐしゃりと崩れそうだ。視線が泳ぎそうになり、目を閉じて膝に顔を埋める。呼吸が億劫だ。喉がむかむかしている。
 でも、今の状態を悟られたくない。空気も悪くしたくない。
 鬱を発散せずに溜めこみ、すうっと意識が薄くなりかけた瞬間だった。誰かに肩をつかまれ、僕は痙攣したみたいに顔を上げた。
「大丈夫?」
 物柔らかな声だった。視界がかすんでいる。僕は無意識に目をこすり、そこにいるのが聖樹さんだと気づく。いつもの聖樹さんと違った。何で、と思ったら、いつのまにか眼鏡をかけていた。
「あ……、」
「どうしたの」
 僕は呼吸を整え、乾いた唇を舐める。
「え、と、あの、平気、です」
「平気って、すごい真っ青だよ」
 聖樹さんは僕の額に触れた。石鹸の匂いがした。「熱はないか」とつぶやき、けれど、指先に移った僕の汗に聖樹さんは愁眉になる。
「休んだほうがよくない?」
「大丈夫、です」
 もつれそうなろれつを、何とかまとめる。
「向こうの部屋、あるよ」
「いえ、いいです」
「無理しないで」
「してない、です。ほんとに、その、慣れてますし」
 聖樹さんは短く口をつぐみ、「そっか」と強制はしなかった。僕は自分が何と言ったか、よく分かっていなかった。
「つらくなったら、遠慮しないでね」
 こくんとした。聖樹さんは微笑んで、僕の肩に軽く手を置くと、腰を上げる。
 そして見てしまう。聖樹さんの肩に隠れていた、心配そうな悠紗の隣の沙霧さんが、心配ではない複雑な瞳でこちらをじっと見ているのを。
 その視線の含みが読めずとまどった。聖樹さんに話しかけられて、沙霧さんはその視線は伏せたものの、改めて、沙霧さんの心を暗中に感じてしまった。

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