そばにいてあげて
屋上に出ると、こもった生活をしているせいで太陽がまぶしかった。晴れていても肌寒く、青空にはちぎれ雲がかかっている。高い場所だと、吹く風も強くて冷たい。
上着を着てきて正解だった。髪やその上着は、ときおり強く流れる風をはらむ。
寒いのも当然だ。カレンダーは、もうじき十一月に入る。悠紗は金網に登って天を仰ぎ、僕はそのそばに立って景色を観望した。
昼食の最中、悠紗が「行きたい」と言い出し、僕もつきそいでマンションの屋上にやってきた。ここに来るのは二度目だ。僕自身、外の風に当たりたいのもあった。
向こうのマンションの無数の窓に目をうろつかせ、十一月か、と思った。あの忌まわしい修学旅行は、十月のなかばだった。僕の中ではずいぶん経った。あっちはどうなっているだろう。そろそろ出歩いてもいいのだろうか。
追手はない。気配もない。自意識過剰だったのか。僕なんかいなくなっても、みんな放っているのかもしれない。
そうだといいなあ、と思うのが哀しい。自尊心でも疼けばいいのに、あそこを逃げおおせたかもしれないことに、心底ほっとする。みんなに僕を忘れてほしい。そして、ここにいるのを誰にも侵されたくない。
道路を見下ろし、歩道を行く人や車の往来に細目になる。
放られている? 甘い話だ。誰も心配していないのは知っている。でも、僕をはめこんでおかなければ、自分の立場がまずくなる人はいる。そういう人は僕を探している。いずれその人が、あの道路をうろつきにくる恐れは捨て切れない。
見つかったら、僕は間違いなくめちゃくちゃにしかられる。同級生たちは、僕を辱めたことは念頭にもなく、「なぜかいきなり出ていった」とか報告したに決まっている。みんなそれを信じ、僕が悪いと決めこむ。
仮に僕がされたことを訴えても、まじめに聞いてくれない。僕がさんざんされてきたことは、そうなっている。
ただ、おとうさんは僕をしからない。代わりに抱きしめる。逃がさないように。おかあさんの二の舞にしないように。きつく抱きしめる。
あちらに帰れば、あの生活を繰り返すのだろう。無闇に泣きたくなって。死にたくなる屈辱で押し開かれて。行き着くのは無気力のどんづまりだ。
何でだろう。何で僕はあんなふうに生きなきゃいけなかったんだろう。すべてが疎ましく、怖かった。毎日を無理に過ごしていた。軆の痛みが心の麻痺を呼んでいた。
死にたかった。心は死んでいた。何で自殺しなかったんだろう。死ねばよかったのに。軆が死ぬのなんか、いつなのか知れない。明日死ぬとしても遅すぎる。僕のひと晩は長すぎる。死ねば終わる。肉体が精神に追いつけば、こんな心の壊死に悩んだりしなくても──
「萌梨くんっ」
突然、肩を揺すぶられた。目を開いた。いや、まぶたは開いていた。真っ暗だった視覚が、現実に戻った。眼界が内界から外界に反転した。
「萌梨くん」
泣きそうな声がして、きょときょとする。金網に登っている悠紗がいた。悠紗は僕の肩をつかみ、瞳を滲ませている。
「悠紗──」
「何で」
「えっ」
「何でそんななの」
「え、えと、悠紗」
「ダメだよ。萌梨くんもそんなのしたら、僕分かんないよ。どうして。そんな、いなくなっちゃう目しないでよ」
悠紗の白い頬に涙があふれる。僕は狼狽える。
「嫌だよ。おとうさんみたいな目、しないでよお」
「あ……、」
「やだよ。そんな目しないで。僕、分かんないよお」
肩にある小さい手を取り、悠紗を抱き下ろした。悠紗は僕に取りついて泣き出した。僕はまごつきながら謝り、地面に膝をついて悠紗を抱きしめた。
幼い軆は、僕の細腕にも収まった。うなじにぽろぽろと悠紗の涙がこぼれていく。悠紗が泣くのは、保育園に行くのを嫌がったとき以来だ。悠紗の頭を撫でた。悠紗の震えが伝わってきた。
そうだよな、と思った。聖樹さんの苦痛の原因が判然としなくて、最もつらいのは悠紗だ。自分は無力かもしれなくても、やはり演技せずに頼ってほしいのだ。
聖樹さんは、悠紗を頼れない子供だと見なしているのではない。わずらわせないように、気を遣っているだけだ。だが、その配慮が悠紗にかえって重荷になっている。何も教えてくれないのに、消えてしまいそうなそぶりは見せる。
僕は死にたくなっていた。悠紗はその目に、聖樹さんを見た。僕のせいだ。僕が悠紗の感情を裂いてしまった。
悠紗を抱きしめ、「ごめんね」と言った。悠紗は嗚咽を上げた。心が痛む。悠紗はこれまで、こうして聖樹さんを案じていることも吐き出せずにいたに違いない。
「ごめん、悠紗」
風が吹いて、流れた悠紗の涙の冷たさが沁みた。
「大丈夫だよ。僕、ここにいるよ」
悠紗はうめき、僕の首にしがみつく。
「いていいよね」
「いてよお」
「じゃあいるよ。いなくならないよ」
悠紗は息を喘がせ、僕の首筋にぴったりと頬を当てた。僕は悠紗の頭を慰撫した。悠紗はおののいている。僕は一考して、ゆっくり言葉を選ぶ。
「悠紗」
「……ん、」
「悠紗も、いてね」
「え……」
「悠紗も僕といて。いなくなったらダメだよ」
まばたきの水音がした。すぐに喉の震えが続いた。「いなくならないよお」と嗚咽が高くなる。
悠紗の繊弱で小さい軆を受け止めた。子供の柔らかい匂いがした。悠紗はしばらく泣いて、胸の弾みが減ってくると、僕の名前を細く呼ぶ。「ん」と僕は応ずる。
「おとうさんも、いるかな」
「え」
「おとうさんも、僕たちといてくれるかな」
僕は考え、けして気休めでなく、「いるよ」と言った。「ほんと」と悠紗は僕を突きつめてくる。
「どこかに行きそうになったら、僕たちが止めればいいよ」
悠紗は軆に隙間を作り、僕を覗きこんだ。その顔は涙にぐちゃぐちゃになっていた。僕は悠紗の濡れた頬に手をあてる。すると、悠紗の瞳は水底にひずんだ。
「あのね」
「ん」
「おとうさん、ほんとに僕を置いていこうとしたの」
「えっ」
「ずっと前だけどね。僕、見たの。そのときは何なのか分かんなかったけど、今は分かるの。おとうさん、前にお風呂場で手首切ってたんだ」
ぎくりと表情がこわばった。悠紗は目をこすりながら涙を流す。
「夜だった。こないだみたいに、おとうさんいっぱい吐いててね。僕、起きたの。いつも起きるわけじゃなくても、こないだみたいにひどいときは起きちゃう。その日もそうだったの。ちょっとずつ止まってきて、音もなくなって、帰ってくるかなあって寝たふりしてたんだよ。おとうさん、帰ってこないの。音もしないし。どうしたのかなって思ってて、おとうさん来なくて、すごく長くて、僕行ったの。そしたら、おとうさんカミソリで手首切って、水に入れてたんだ。僕、そのときそれが何なのか分かんなくて、『おとうさん』って呼んじゃったの。そしたら、おとうさん、僕を見て……その顔、今でも憶えてるよ。真っ青で、唇のとこに吐きすぎて血があって、目がどろどろで、いつものおとうさんじゃなかった。僕を見た途端、おとうさん床に座って泣き出しちゃった。僕より子供みたいに」
悠紗は僕にごそごそと抱きついた。動揺しつつも、僕は悠紗を抱きしめ返す。
「その日もおとうさん、何にも教えてくれなかった」
「悠紗──」
「誰にも言わないで、って。それしか言ってくれなかった」
悠紗の背中を撫でた。悠紗の涙は止まっていない。
僕の心臓は不安に波打っていた。にわかには信じられない。あんなにおっとりした聖樹さんが、死ぬほどの傷口を抱えているなんて──
あの性格からして、演技なのだろうか。学生時代は暗かった、と聖樹さんも自分で語っていた。でも、僕の知る聖樹さんは、暗くない。聖樹さんは温和な偽者を演じているのか。そして押しこめる陰鬱な本物が押し寄せたとき、崩壊状態になるのか。
何で、と思った。何でそんなふうに生きられるのだろう。どうして壊れてしまわないのだろう。僕だったら、耐えられない。
「それでも止められるかな」
悠紗は鼻をすすりあげ、息をぶれさせて訊いてくる。
「おとうさん、止められるかな。ここにいてくれるかな」
最低なのは分かっていても、僕は何とも言えなかった。僕はあの冷めた無感覚を知っている。あのときは、どうだってよくなるのだ。すべてを投げ出し、自分自身を逃げ出したくなる。あの暗闇の中では、命なんて瑣末なものだ。
「萌梨くん」
「ん」
「萌梨くんは、いるよね」
これには、はっきりうなずけた。悠紗は深呼吸し、引き攣った息遣いを胸腔に抑えこんだ。
「萌梨くんだったら、おとうさんを止められると思うんだ」
「えっ」
「僕は死にたい気持ちなんか分かんないよ。萌梨くんは分かるでしょ。おとうさんも、萌梨くんなら大丈夫だよ。だって、眼鏡外したもん」
悠紗の背中をさする。悠紗は嗚咽が収まるまで僕にしがみついていた。
「萌梨くん」
「うん」
「おとうさんのそばにいてあげて」
「………、」
「おとうさんに、ひとりじゃないって教えてあげて」
息を静めると、うなずいた。できるかは分からない。聖樹さんが望むかも分からない。けれど、孤独をやわらげることは、けして悪いことではない。
軆を離すと、悠紗はようやく咲った。僕も咲い返し、悠紗の頬の涙を指ではらってやる。「僕たちの内緒ね」と悠紗は照れ咲いした。僕はくすりとして、悠紗の頭に軽く手を置いた。
【第二十五章へ】