長い夜【1】
聖樹さんの心の亀裂を認める、とはいっても露骨に始動すべきことではなかった。
下手に割って入ることじゃないし、聖樹さんなりにこの生活に調和がある。塞がれた自己が破滅したとき、保つ線が切れてああなるのだ。たとえ厚意だろうと、その調和を壊されたら、聖樹さんは驚愕や羞恥でぐちゃぐちゃになってしまうだろう。
そうなれば、この部屋の凪いだ空気も気まずくなる。僕がまずできることは、時機を待つことだった。
が、昨日の夜には、切り出しそうになってしまった。夕べ聖樹さんが帰ってきて、悠紗は普段と変わらずに聖樹さんに生意気に甘えていた。数時間前、聖樹さんが心配でたまらないのを吐露した名残もなかった。
すごいなあ、と感嘆したくなる反面、いじらしくもあった。本当は悠紗は、僕ではなく聖樹さんにああして泣きたいのだろう。なのに、そうして無邪気に騙されている。
率直に言えば、聖樹さんと悠紗は演技しあっている。しかし、そこにあるのは、壁でなくもっと大切なものだ。
悠紗が眠ったあと、聖樹さんと話をした。このときに悠紗の涙を想い、何で言ってあげないんですか、と口に出しそうになった。何とかこらえた。言いそうになったのを、「何?」とうながした聖樹さんのとても穏やかな瞳が抑えた。
どんなに悠紗を想っているとしても、聖樹さんの平穏を乱すのもいけない。悠紗も、そんな方法は望んでいない。そう思い、感情に走るのは留められた。
悪いのは、そのあとに始まった。思慮に頭が昂ぶっていたのか、その夜、僕はひと晩じゅう悪い夢にうなされた。翌朝には、僕の精神は危険なものになっていた。
こういう体質なのだ。僕の安穏は細道で、わずかでもそこを外れたら不快や絶望が襲ってくる。今日のこれは、人の傷に構うヒマがあるのか、という心の警告だ。至極その通りで、落ちこんでしまった。
その上、午前中のうちに、学校をサボってきた沙霧さんが訪ねてきた。僕は、鮮烈な悪夢を脳裏から削り落とす前だった。息苦しさに忘却を妨げられ、自分の底に沈殿しそうになった。
昼食は沙霧さんが買ってきた弁当だった。僕のぶんはなかった。「まだいるとは思わなかったんだ」とあっさり言われた。ため息をつき、自分のぶんだけ調理する気力もなく、食器棚の菓子パンをもらった。悠紗が気を遣って分けてくれたおかずも食べた。
長い午後になりそうだなあ、とガラスにもたれていた。
心配そうに悠紗がトイレに立ったとき、最悪が起こった。ぼうっと向こうの曇り空を眺めていると、「あのさ」と沙霧さんが声をかけてきた。
慌ててそちらを向く。沙霧さんの端正な顔には、僕への懐疑がつまっていた。
「あんたってさ、何?」
「え、………」
「いつまでここにいるんだよ」
僕は閉口してうつむいた。そんなのは、僕にも分からない。
「兄貴と悠が、あんたを気にしてないのは分かってるよ。あんた、何様でそれに乗っかってるわけ。心理的とかじゃなくて、実質的に迷惑だろ」
「………、でも、」
「でも」
「聖樹さんが、気にしないでって」
僕の震える声に、沙霧さんは大息する。
「兄貴は人がよすぎるんだよ。だいたいさ、あんた誰なんだよ。このへんの奴? 家、帰ってんのか」
反応できなかった。怖くて泣きそうだった。いつまでここにいるのか。何様のつもりだ。迷惑だ。家があるくせに。沙霧さんの言うことが正しいのがつらかった。
沙霧さんがたたみかけようとしたとき、水洗の音がして悠紗が帰ってきた。沙霧さんは口をつぐんだが、悠紗は場の空気ですべて悟った。悠紗は沙霧さんに文句を言って、僕のところに来ると「大丈夫?」とそばにしゃがむ。小さくうなずいても、寄せた眉は解けずにいてしまう。
悠紗は僕の手に手を置いた。悠紗の肌の白さがきわやかになる。
「昨日の、約束だよ」
悠紗に顔を上げた。悠紗は僕を真剣に見つめていた。ふっと心が楽になって、もう一度うなずけた。今度はちょっと咲えた。悠紗も微笑むと、一度僕の手を握って沙霧さんの隣に帰った。
「沙霧くんさ、萌梨くんイジメるのやめてよね」
悠紗は、コントローラーを取ってふくれる。
「だって、あいつ怪しいじゃん」
「僕たちのことは心配しないで見てみなよ」
沙霧さんは僕を一瞥し、納得いかない顔をする。
「あいつの親、どうしてんの?」
「いないの」
「家出人じゃないだろうな」
「萌梨くんはここがおうちなの」
沙霧さんは息をつき、床に転がった。攻略本をめくったり、ゲームを始めた悠紗に口出ししたり、僕の存在を黙殺する手段に出た。僕は視線を床に停滞させ、鈍い時間の流れに溺れた。
沙霧さんは、聖樹さんと入れ違いに帰っていった。沙霧さんの存在感で不安に駆られていた僕は、夕食の手伝いをしながら、ここにいてもいいのかという疑問を聖樹さんにこぼしてしまった。沙霧さんとすれちがっていた聖樹さんは、僕の不安を解せたのか失笑した。
「構わないよ。いてください」
「はあ」
「ほんとに、助かってるよ。悠も保育園にやりたくなかったし、僕も話相手が欲しかったし。家事も手伝ってもらって、休ませてもらえてるしね。萌梨くんが迷惑なんてことはひとつもないよ」
「そう、ですか」
聖樹さんは煮魚にアルミホイルの落し蓋をすると、冷蔵庫を開けた。味噌と豆腐を取り出して、「沙霧に何か言われたの?」と訊いてくる。味噌汁に入れる大根を千切りにする僕は、包丁を動かす手を止める。
「言われた、というか」
「睨まれた」
「いえ、何か、『いつまでいるんだ』とか」
聖樹さんは苦笑し、「過保護なんだよね」と言った。
「何様、とかも言われました」
「萌梨様、でいいんじゃない」
聖樹さんを見上げた。聖樹さんは咲って、味噌汁に使う小鍋に水を入れた。僕は上手に返せず、素直に黙って大根を切った。本当に、聖樹さんも悠紗も、こちらの気を軽くするのがうまい。
水を沸騰させるあいだ、聖樹さんはむずかしそうに考えこんでいた。引っかかっても、短かったので問いかけるヒマはなかった。
僕は切った大根を小鍋のお湯に入れ、包丁とまな板をすすぐ。聖樹さんは味噌をお湯に溶かし、包丁で豆腐を一口大にすると小鍋に静かに落とす。
聖樹さんのむずかしい表情は消え、いつも通りになっていた。
夕食や悠紗が就寝した閑談でも、聖樹さんに変わりはなかった。眠るときも平穏だった。だから、夜が更けて悪夢に臆して僕が眠れずにいたとき、聖樹さんが物音を殺して洗面所にいったのは、ひどく唐突に感じられた。
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