風切り羽-26

長い夜【2】

 日づけも真新しい深夜だった。どんな音もすがたを潜め、たまに車が通ったり足音が抜けたりすると、大きく響く。室内も静かで、聖樹さんも悠紗も熟睡していると思っていた。
 僕はリビングでひとり、昨日の夢の揺り返しと闘っていた。葛藤に頭が冴えていくほど、眠っても深みに行けずに、うなされるのではないかと怯えてしまう。
 恐怖が神経を研いで、ますます微睡みに見放されていた。まぶたを閉じると記憶の閃光が走るので、部屋の暗闇に目を開いていないと怖い。
 また眠れないのかなあ、と何十回めかの寝返りを打ったときだ。
 寝室のドアが開いた。
 先日のような騒々しさはなかったものの、どきんと硬直した。悠紗ではなく聖樹さんなのは、刺さったその気配で察知できた。
 足音はふらつき気味でも、崩れ落ちそうではない。壁伝いの身を引きずる音もない。洗面所の引き戸を開ける音も極力冷静で、明かりをつける音がした。
 僕のうなじに蛍光燈が当たる。閉まった引き戸がその光をさえぎり、続いたのは水道の蛇口の捻りでなく、奥の浴室への戸が開くきしみだった。
 その音の往復で、戸が閉まったのが推知できると、僕の軆はほどけていく。
 不用意に起き上がった僕は、混乱していた頭をぐらりと揺らしてしまった。吐き気がせりあげ、とっさにこめかみを指で抑える。さいわい、一度きりの波だった。じっとしていれば、余波も退化していく。
 肺をなだめる呼気をすると、洗面所に顔を向けた。
 引き戸はきちんと閉まり、もれる明かりは薄くてこちらも暗い。浴室に行ったようなので、物音は聞こえなかった。水音もない。
 ひどいとき、と悠紗は形容していた。つまり、軽いときもあるということになる。今日は、このあいだよりマシなのだろうか。
 そわついて、ふとんの上に座り直した。足の甲にふとんにかすかな湿りが触れる。ごちゃごちゃ考えて、汗をかいたらしい。脚の上で手を握り、寝室に目をやった。
 悠紗は起きているだろうか。ひどいときには目が覚める、と言っていた。敏感な悠紗にとっての“ひどいとき”が、どの程度なのかは分からない。屋上での悠紗の聖樹さんを想う涙がよぎり、光を見つめる。
 聖樹さんのそばにいる。
 今、ではないか。
 壊れていないときに踏みこめないのなら、壊れたときに踏みこむしかない。危険だとしても、そもそも人の傷に立ち入ろうとするのが困難な挑戦だ。
 ひとりではない、と教える。聖樹さんは、今、ひとりだ。きっと真空の鬱にいる。こっちが破ってやらないと出られない。
 迷惑ではないか、という躊躇もあった。たとえば僕だったら、沈んでいるところに立ち入られたら、どうだろう。疎んだり、嫌がったり、お節介だと解釈しないだろうか。
 ここに来て何度も黒い溝にはまり、聖樹さんや悠紗にすくいあげられた。それで、どうだったか。追想を巡らすと、わりと落ち着けた、という結論が得られる。不快だったことはない。
 それでも、聖樹さんが僕と同じく救われるのを望むかは分からない。何しろ、聖樹さんは傷に完璧な演技を施している。実の弟も欺いているのだ。そんなに隠したがっている裂け目を指摘されたら、傷ついてしまうかもしれない。
 何も音は聞こえない。こぼれる蛍光燈のみが、普段と違う夜だとしめしている。
 どうしよう。どうしようもないのか。バカをして、ここにいられなくなったらどうする。悠紗まで傷つけてしまう。
 しょせん僕は他人だ。行動していいことなんかないのではないか。かぼそいオレンジの光に目が泳ぐ。肩の力は抜け、背中の張りもなくなった。ぼうっとしそうになった。
 その意識を、外を突っ切っていった車の走音が引っぱたいた。はっと窓を向く。車の走音はすぐさま遠ざかっていく。部屋には静寂が広がった。
 静かだな、と思った。静かだ。何にも聞こえない。
 ふと、悠紗の話が思い返った。聖樹さんは泣いていた。それが落ち着くと、何にも聞こえなくなった。なかなか帰ってこない。悠紗は様子を見にいった。そしたら、聖樹さんは──
 僕は慌てて、手をついて立ち上がった。冗談じゃない。自殺を止めるのは、家族じゃなくたっていい。急に立ち上がったので、立ちくらみがした。頭と軆の安定を取り、胸の空気を入れ替える。
 洗面所に差し足で忍び寄った。寝室のドアがわずかに開いていて、神経をとがらせる。安らかな寝息がしていた。
 悠紗は眠っているのだ。今日は僕と沙霧さんのあいだで気を遣っていたし、疲れているのだろう。寝室のドアを閉めておくと、引き戸の前に立った。
 いいのか、と自問した。これで全部ぶち壊してしまうかもしれない。それでもいいのか。
 僕は、傷口に孤独は良薬ではないと思う。孤独は麻薬だ。楽だが報われない。聖樹さんは孤独じゃない。孤独にはなれない。悠紗がいる。あの子には、聖樹さんが必要だ。聖樹さんには、どんなに苦くても良薬を取る義務がある。悠紗の存在は思い出してもらわないといけない。
 心をくくり、引き戸を開けた。
 満ちる蛍光燈に、思わず暗がりに慣れた虹彩をかばった。まばたきをし、オレンジがかった明かりに浮かぶ光景を認める。聖樹さんのすがたは、一見なかった。明かりのついていないバスルームで、嗚咽がしていた。
 ひとまず、ほっとした。事には至ってないみたいだ。だとしたら僕が出る幕はないのでは、と思ったが、部屋中に満ちるだるい空気に、後退るのは不可能だった。
 毒に犯された痺れだった。僕が内部に溜めこむものと、同質の常闇だ。ゆえに、僕の胸も締めつけた。まるで、自分の苦しみの体内に侵入したようだ。うっかり、僕自身の苦しみに取りこまれそうになる。
 死にそうな匂いがしていた。濃霧にいる錯覚がする。迷子の気持ちになって泣きたくなった。
 関わらないほうがいいんじゃないか、と保身が騒いだ。けれど、ここまで来てそれはずるい。聖樹さんの嗚咽が響いている。聖樹さんのそれこそ、迷子のようだ。行き先も戻り道も知れないその気持ちが、僕にはよく分かった。
 僕もそうだった。向こうでは夜中にひとりでベッドに突っ伏して泣いていた。寂しくてつらくて、誰かにいてほしいくせに、誰かを信じるのが怖かった。いっそすべて捨ててしまいたかった。
 なぜ自殺しないのか不可解だった。生きていて何かあるのか。そう想到したとき、麻痺に支配されて自殺しようとした。
 何であのとき、成功しなかったのだろう。血を見た途端に包丁を取り落とし、頭が入る大きさを測っていて腕が震え、トラックが直前に来たら後退したまま足が硬化する。
 命を守ろうとする本能が憎かった。本能なんか嫌いだ。一番必要だったときには鈍感に眠っていて、いまさら目覚めて、解放を妨害して──
 不意に、はっと我に返った。違う。今は自分に浸っている場合ではない。聖樹さんだ。
 引き戸を閉めて、奥に進んだ。奥は冷えていた。どんな顔をすればいいか、どんな言葉をかければいいか、思いつかなかった。
 ただ、僕もこの痛みが分かる。すごく分かる。僕の聖域もこんなふうにめちゃくちゃだ。曇りガラスに手を当てた。泣き声は浴室に冷たく反響していた。
 ひとりだ、と思った。この人はひとりだ。僕みたいに。誰かいてほしいのに、真っ暗で誰も見えない。ひとりぼっちだ。
 恐る恐る、戸を押した。
 聖樹さんは、びくんとこちらに顔を上げた。目が合った。息が止まりそうになった。
 聖樹さんの瞳が、一瞬、鏡かと思えた。絶望的な深海の色だった。その瞳と見つめあった。深海の色が、僕の瞳に染みる。染みたそれは、僕の中で黴のようなまだらになって吐き気を催させる。
 深海の瞳があふれさせる涙は、蒼い頬を伝って喉やタイルに飛び散っている。その頬の蒼白さは、顔全体を不健康に映した。前髪は濡れて、口元は震え、息は壊れている。
 無意識にドアの縁をつかんだ。そうしないとへたりこみそうだった。
 これは、自分を不覚に鏡で見たときの衝撃だ。そう、鏡だ。僕だ。あれは僕だ。犯されたあとの、うなされたあとの、崖にしゃがんだときの、僕の臨終の顔だ。
 頭はあまりに重くなった。激しい頭痛がした。記憶が後頭部を殴った。おののく腕や膝や冷や汗に耐えられず、手は縁を滑った。その場に、がくんと座りこんでしまう。
 目の高さを同じにして、なおも聖樹さんと僕は見つめあった。頭が痛かった。僕の視界が急速に滲み、頬に雫が流れていく。
 聖樹さんは、わけが分からないような、すべて分かっているような、複雑な顔をした。それすらも滲んだ瞳にひずみ、見えなくなった。目をつぶってうなだれた。
 ずきずきする。押し戻そうとしてもできない。この凄まじい空気は僕の記憶を呼び覚ますのに都合がよすぎる。光景や体感が頭や心を突き破って、大気に融解しようとする。その乱暴なひしめきに胸元が痙攣する。
 こめかみがぐらぐらする。いろんなものがぐるぐるする。
 笑い声がする。精液が飛び散る。破る音。異様な感触が重なる。陶酔の窃笑。発熱。めまい。息苦しい苦み。無数の性器。抑えこまれて。屈辱が空まわる。無気力になる。怒張。かきまわされる。放出。あの臭い。激痛。圧迫。疼痛。麻痺。さんざんもてあそばれる。
 何で。どうして。
 堤がはちきれる。断片の心象が生身の情感になる。放流する。
 何で。何でみんなそうなの。ひとりぐらい分からないの。本当に分かってないの。何で笑ってるの。どうして笑えるの。自分がされたらって考えないの。それで笑えるの。痛いよ。助けて。こんなのもう嫌だ。苦しい。つらい。もうしにたい──
「萌梨くん……」
 びくっと戦慄した。喉元が粟立った。引きずってくる音が近づいてくる。僕は動けない。「いや」とうわごとのような喘ぎ声がもれる。
「萌梨くん」
「いや。もうやめて。痛いよ。何で。やめて。だ、誰にも言わないから。もういいでしょ。やめ──」
 無理やり、顔を上げさせられた。僕の呼吸は引き攣って震えた。
 けれど、剥いた目が捕らえたのは、恐れていた目ではなかった。同級生でも、知らない人でも、おとうさんでもない。僕と同じ、痛みの色の目だった。深い、飲みこみそうな悲愴をたたえた瞳だ。それが、それと同じ色をした僕の瞳を映していた。
 濡れた手が僕の涙をぬぐう。まさぐる手ではない。優しかった。
「萌梨、くん」
 物柔らかな声だ。でも顫動で怯えている。
「………、何」
「え……」
「どうして、来たの」
「あ、………」
「来ないほうが、よかったのに」
「………、」
「僕、………、ごめんね。その、関わらないほうがいいよ」
 頬にあった手が引かれ、ひんやりした空気が涙を痛めた。まぶたをゆっくり上下させる。
 聖樹さんだった。泣いていた。あの穏やかな表情はぼろぼろに破れて、子供になって泣いている。
 僕はようやく脳の白濁を押しやり、ここに来た目的を思い出す。
「戻って」
 聖樹さんは浴槽の縁に力なく手をつき、無茶に立ち上がろうとした。その壊れそうな腰や気絶しそうな額に僕は焦った。
「聖樹、さん」
「僕も戻るから、」
「あ、あの、やめてください」
「え」
「倒れちゃったら、その、」
 聖樹さんは僕を見る。おろおろと見返す。聖樹さんは眉を寄せて首を垂れ、タイルにべたりと座った。僕は乾いていた唇を舐め、消え入りそうに謝った。聖樹さんは僕を瞥視する。
「どうして」
 厭わしがったり、怒っている口調ではなかった。気だるそうではあった。
「僕、迷惑なの分かってるんです」
「迷惑、ではないよ」
「けど」
「ただ、僕にすがりつかれたら、萌梨くんに面倒がかかる」
 聖樹さんが心を閉ざしているのが分かった。僕はうなだれた。やはり、でしゃばってしまったのか。
 後悔に逃げるか、投機に出るか。悩んだ。
 そのあいだに、聖樹さんも僕も泣きやんでいった。重なる嗚咽が邪魔していた浴室の冷えびえした静寂が帰ってくる。足の指が体温を蒸発させ、固まってきていた。それを手のひらでつかんで暖めたいのをこらえ、涙が染みて色が濃くなったマットを見ていた。
 空間のこわばりで、聖樹さんのかたくなさが、そうさせる傷口が、痛切に伝わってくる。僕はひかえめなひと息で、胸のざわめきを鎮めた。
「聖樹さん」
 聖樹さんは、顔は上げずに僕に上目を使った。
「一個、聞いてください」
「……うん」
「もし、的外れだったら忘れてください。僕、その──」
 息を吸う。これしかないと思った。
 公平になるのだ。探るばかりでは怪しい。働きかけるのなら、まずはこちらが晒さなくてはならない。僕だって、せめてそうされないと、これ以上は傷つくまいと喉を閉塞させる。
 僕は、吸った息をゆっくり吐き出した。

第二十七章へ

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