長い夜【3】
「僕は、小さい頃からずっと、男に悪戯されてきました」
僕の言葉に聖樹さんは息を飲んだ。それが嫌悪か的中か、どちらなのかは測りかねた。
「知らない人とか、学校の人とか、いろんな人にされました。数は分からないです。みんな男です。でも同性愛の人じゃなかったと思います。僕は男は好きじゃないですよ。すごく嫌でした。いつか恋愛するなら女の人だと思いますけど、正直それも怖いです。小さい頃からされてきて、もう男とか女とかそういうのじゃなくなってます」
言葉を切り、聖樹さんを盗み見た。聖樹さんは茫然とタイルを見ていた。うなだれて前髪に陰っているその表情に、嫌悪はない。激しいとまどいが泳いでいる。
「修学旅行で逃げてきた、って言いましたよね。あれもそうです。部屋でみんなに、その、女の子の代わりにされて、逃げてきたんです。今までもそんなの何回もありましたよ。けど、何回もあったんで、溜まってたのが爆発しちゃったんです。もう嫌で、我慢できなくなって、逃げてきたんです」
聖樹さんはわずかに顔を上げ、睫毛越しに瞳を覗かせた。不安を何とか隠そうとする、もろく硬い瞳だ。
「何で」
「え」
「何でそんな大切なこと、僕に言うの」
聖樹さんを見つめた。確信が持てた。
「大切って思うんですか」
「大切じゃない、だって──」
「男が男にですよ。気持ち悪くないですか。ふざけただけだって決めつけて、普通、笑いますよ」
聖樹さんは、はっと僕を見た。その瞳は一気に幼く、泣きそうになった。
僕も眼球にこめる力を抜く。聖樹さんはしばし唇を噛んでいたけれど、やがてこもった息を吐いた。
「僕のほうが子供、だね」
その声には、張りつめた拒絶が消えていた。代わりに、たやすく割れてしまいそうな、かよわいものがにじんでいた。
「だから、言ったの?」
僕はばつの悪さに伏目になる。
「いつから?」
「こないだ、です」
「こないだ」
「前に、ここで」
「………、そう」
「はっきり分かってたんじゃないです。もしかしたらって」
「そう……」
聖樹さんは、崩れるようにタイルに脱力した。僕も知らずに入っていた肩の緊張を落とした。すると、背後の螢光燈が聖樹さんにそそぐ。聖樹さんのパジャマは、涙やタイルの水分でびしょびしょになっていた。聖樹さんは深いため息をつく。
「……そうだよ」
聖樹さんの肩や髪は、微妙に震えていた。
「僕も萌梨くんと同じだよ」
手の甲で涙をぬぐう。子供っぽい仕草だ。
「僕も昔、男に女の子の代わりにされてた」
その言葉を誘い出したくせに、とっさにどう反応すべきか分からなかった。
さしのべるには僕の手には包容力がないし、気持ちは分かってもつながる語彙がない。見つめるだけになっていると、聖樹さんは顔を上げて僕の瞳を見つめた。言動で表せなかったものが、直接、疎通した。そのなめらかさに、この理解がいずれにしろ言葉にはしがたいものだと僕は知る。
聖樹さんは苦しげに泣きそうにして、冷たい手で僕の冷たい手を握った。
「僕もね、萌梨くんがそうじゃないかって思ってたんだ」
「えっ」
「逢った日に、酔った人に絡まれてたよね。ぜんぜん逆らえてなかった。普通の男だったら、さっき萌梨くんも言ったみたいにバカじゃないかって言える。強引にされたら、声上げたっていい。あの人が立ち去ったあとも、萌梨くんに残ってるのは恐怖だった」
今度は、僕がまごついた。秘匿させていたものをすくわれる感覚、その粗暴だったり侮蔑的だったりしない丁重さに狼狽える。
「僕もそうだったよ。自分でも、何であんなに硬直しちゃって抵抗できなくなるのか分からなかった。あのときは、自分の昔のこと思い出して、頭が真っ暗になってた」
僕は、あの日の聖樹さんの瞳の色を思い出した。
そうだ。あの日、僕は聖樹さんの瞳を窺い、不穏なものでなく怯える色を見た。
僕もどこかで、聖樹さんに自分を見たのだ。
「だけど、あのときあれがなかったら、萌梨くんをここに上げてなかったよ。怖いから」
聖樹さんの指は小刻みに震えている。その震えをこわごわ包んでみる。聖樹さんのすべすべの手は、今は鳥肌でざらざらだ。
「別に、分かったからそばで同情してもらおうとしたんじゃないよ。僕も確信はなかったし。考えすぎだったとしても、元の場所がつらいとは言ってくれた。あんなことでもほかのことでも、つらいところにいたくない気持ちは分かる。うらやましくもあったんだ。それを尊重してあげたくもあった」
「うらやま、しい」
「僕はずっと溜めこんでた。萌梨くんみたいに動けなかったんだ」
言ったあと、聖樹さんは自嘲の嗤いをもらした。
「動けてない、か。まだここにいるしね」
まじろいだ。だが、そうだ。そこの中学校を卒業したと聖樹さんは語っていた。実家も近いと。そこに暮らす沙霧さんもここにやってくる。
「街歩いてたら、昔、僕で遊んだ人とすれちがったりするんだ」
「えっ」
「どうなると思う? 平然と咲って話しかけくるんだ。信じられないよ。僕にしたこと、さっぱり忘れてるんだろうね」
聖樹さんの含み笑いを、僕は痛々しく知覚する。
「そうだよね。忘れなきゃね。いざ女の子にそうするのが怖かった頃、男を代わりにしてたなんて」
目を落とす。恐らく、僕もそうなるのだろう。僕を犯した人たちは、僕を犯したことなんか忘れる。男を女の子の代わりにしたことなど、成長して女の子を抱けるようになったらあっさり忘れる。
黙然とした。僕も聖樹さんも、心の整理を行なっていた。ふたりとも少し落ち着いてきた頃、聖樹さんが沈黙を裂いた。
「萌梨くんは、いつからされてたの」
顔を上げ、「四歳です」とぽつりと答えた。聖樹さんに不意打ちの驚きが走る。
「四歳」
「はい」
「って、今の悠より下だよね」
「そう、ですね」
聖樹さんは憂鬱そうなため息を吐いて、「ひどいね」と言った。
「何にも分からなかったでしょう」
うなずいた。わずかながら、気持ちが楽になった。何にも分からないのは、やはり避けがたいことなのだ。
「僕は小学校に上がったあとだよ。それでもよく分からなかったもんな。二年生のときかな。担任の先生だった」
次は僕が驚いた。先生。その経験は僕にはない。先生といえば、常識かぶれの無神経な部外者だ。
「居残りしてたんだ。ほかには誰もいなくて、僕は時間が遅くなるほど焦って混乱して、分かる問題も分かんなくなってた。僕の背中に覆いかぶさるみたいにして、勉強教えてたんだ。首にいきなり舐めるみたいなキスされたの、今でも憶えてるよ」
聖樹さんの手を包み直した。聖樹さんはかすかに笑む。つらそうだ。
「ズボン下ろされて触られて、ジャージ越しに向こうのも触らせられた。その感触も覚えてるよ。手の中に残ってるみたいで、今も手を切り落としたくなる。あっちは僕に触られたら終わって、残ってた問題は免除になった。で、自分を片づけながら──」
「誰にも言うな、って優しく言うんですよね」
聖樹さんは僕と顔を合わせ、力なくながらおかしそうにうなずいた。
「あれ、なぜかきつく言わないんだよね。進級してクラス替えになるまで、その先生には目をつけられてたよ。向こうのを口に入れるまでだったけど、すごく嫌で、学校行くのも怖かったな」
「僕は、嫌とか怖いっていうのも、最初は分かんなかったです」
「よっつ、だもんね」
「小さい頃は知らない人が多くて、公園のトイレとか路地裏とかでした。僕、友達いなかったですし、ひとりでいて声もかけやすかったんでしょうね。僕もされることがどういうことか分かんなくて、断る理由が見つけられなかったんです。殴るとかはしないんです。性的なこと以外は優しいんです。それで、怖がることなのかと嫌がることなのか曖昧になってました。あとで大変なことになる、とかは考えもしなかったです」
そう言って反芻し、変かなあ、と思った。聖樹さんだって、嫌だとは感知した。僕にはそれもなかった。あの無抵抗は、もしかすると僕の本能に欠陥があっただけなのか。
僕は聖樹さんに、「変でしょうか」と訊いてみる。聖樹さんは首をかたむけた。
「変、って」
「普通は、何にも知らなくても、嫌だってことぐらい分かるものですか」
「ああ」と聖樹さんは微笑んだ。
「されたことがない人は、そう思うかもしれないね。実際には分からないよ。性の知識って、小学校の五、六年生で固まってくるものじゃない。四歳じゃ無理もないよ。分かるほうが怖い」
「聖樹さんは、分かったんですよね。二年生、っていうと──」
「八歳にはなってなかった。漠然としたものしか分からなかったよ。どこが嫌で、何で怖いのかとかは分からなかったし。断れなかったのは、僕もおんなじ。まさか将来、自分がこんなことになるとも思わなかった。ほんとに子供って何にも知らないものなんだよね。大したことじゃない、ってあの頃は思ってた」
数秒だんまりをして、「僕もです」と言った。聖樹さんはこちらを見つめ、寂しそうに微笑する。
内罰的な心理はよく分かる。みじめになんてならなくていいのに、ときどき、無知だった子供の頃がすごく情けなくなる。外罰的になるには気力が追いつかず、無罰的になるには傷つきすぎているせいだ。
なぜあのとき、抗わなかったのか。現在では分かっているだけに、きょとんとしていた自分が憐れだ。
「小学校に上がったら上級生の人の家にも連れていかれました」
「それは僕もあったな。『遊ぼう』って誘われてたんで、あの頃は遊びのひとつかと思ってたよ。のんきにあの遊びは僕は嫌いだなあって。向こうにしたら、本当に遊びだったんだろうけど」
聖樹さんの口調が陰り、その鳥肌が減ってきている手を包み直す。聖樹さんは複雑そうに咲うと、タイルの上を身動きした。
「修学旅行、もそうだったんだよね」
「あ、はい」
「僕も、修学旅行っていい想い出ないよ」
「そうなんですか」
「うん。先生に呼び出されたついでに何かされたり、同級生にされたり。一番ひどかったのは、中学の修学旅行かな。萌梨くんの歳のときだね。夜にね、先生の目を盗んで女の子が男子の部屋に遊びにきたんだ。その女の子たちが──知ってるかな、ボーイズラブっていうの」
「知って、ます」
声がぎこちなくなる。それは記憶の回路を揺るがすものだった。そういうものを小細工にされたことがある。それを僕に読ませ、同級生たちはにやにやと言ったものだ。
『お前も、こうやって素直に悦んでみろよ』
あれ以来、僕はその類の本や漫画が死ぬほど嫌いだ。
「それを持ってきたんだよね。で、何かみんなで笑い転げながら読んでた。僕は隅で外れてたよ。そしたら、男子の何人かが僕を真ん中のふとんに連れていって──分かる?」
聖樹さんは、笑いながら泣きそうだ。もちろん分かった。信じられなくても、聖樹さんの麻痺した笑いは事実だと物語っている。
「死にそうだったよ。女の子たちの前でだよ。でも、そのおかげで、僕を犯した彼は守られたんだ。僕としたのはお遊びだってみんなに思わせた。かえって人気者だよ」
聖樹さんのやりきれない屈辱を、強く感受できた。きっと、写真をばらまかれたときのあの痛みに通ずるに違いない。
僕は知っている。この傷において、現実にはありえないという常識が笑殺という刃物になる。
「その本も手伝って、僕がどんなに恥ずかしかったかは誰も考えてくれなかった。まして、本と同じで悦んでたなんて解釈された。泣かなかったのは、ショックすぎたせいだったのに」
ああいう類のものは、根底に普通の良識を潜ませ、普通の人では見過ごせる刃物を突き出している。描かれる情景は、時に無神経だ。制圧的な強引さ、やんわりとした脅し、それに対する主人公の反応はこちらを辱める。書く人も読む人も、男同士なんて現実にはありえないと思っているから、あんなむごい描写をかわいいとか言えるのだ。
聖樹さんはまさにそれに踏みにじられた。猛烈な汚辱を無知な常識で余興にされた。ひどい、と思った。どんなにつらかったか、ちょっと僕にも測りかねる。
聖樹さんは口をつぐんでうつむいてしまっている。記憶が広がっているのだろう。
聖樹さんの手を握った。僕を見た聖樹さんの瞳は、壊れそうに揺れていた。
【第二十八章へ】