長い夜【4】
「みんな、分かんないんですよ」
「……うん」
「僕も知ってます。ほんとにはありえないって思ってるんで、みんな簡単に笑えるんです。僕も、そういうのですごく恥ずかしかったこと、あります」
顔を上げて、聞いてくれる姿勢を取った聖樹さんに、僕は一度深呼吸した。それで頭を整頓すると、あの写真をばらまかれたときと周囲の対応に愕然とした体験をぽつりぽつりと語った。聖樹さんはじっと聞いていた。僕は話しながら、あの衝撃や屈辱を蘇らせてしまい、つい泣きそうになる。でも、そうなると聖樹さんが手を握ってくれて、暗い渦には巻きこまれずに済んだ。
話し終わるとふたりともしばし黙して、そののち聖樹さんがやるせないため息をついた。
「何か、信じられないよ」
目をこすって、聖樹さんを見た。聖樹さんは苦しげな顰蹙をしている。
「クラスメイトとか先生が言ったのって、すごい皮肉だよね。悪気がないのも分かる。普通の人は、そんな感想がさらっと浮かぶのかな」
聖樹さんは僕に目を向けた。僕は涙を引っこめようとしていた。聖樹さんはそんな僕の頭を軽く撫でてくれる。少し安らいだ。
「僕もね、写真撮られたことあるよ」
「え」
「萌梨くんみたいのではなくて、脅迫でね。中学三年生のとき。同級生の生徒会長に目をつけられて、写真撮られてそれで脅されてたんだ。関係するの嫌がったら、ばらまいてホモだって言い触らしてやるって。向こうは権力もあるし、選挙で選ばれた人で人望もあった。僕が何訴えても、誰も信じないのが分かってたんだね。卒業するまで、ずっとだった」
「誰かに、言わなかったんですか」
「まあ、ね。言ってもばらすって言われてたし。男が好きだなんてうわさがたったら、どうこうされるのが増えそうで怖かった」
その心理は理解できる。けれどそういえば、ばらまかれたり売られたりした写真は、僕は聖樹さんがされたような使用はされなかった。
「高校になった頃に、やっとそういうのはなくなってきた。同性の代わりなんていらなくなってくるからかな。僕の場合は、梨羽たちの友達だって有名になってきたからだと思うけど」
「梨羽さん。あ、中学でしたっけ」
「うん。要と葉月は、憎まれつつ怖がられてたし。あいつはバックがやばいって。今はそんなことされてないよ」
梨羽さんたちか、と思った。うらやましくなった。僕にもそんな友達がいれば、あんなことは、さっさと打ち切られていたのだろうか。
「でも、表面的な話だよ。内面はひとつも改善されてない。高校のあいだは全部埋めてたんだ。卒業して、専門学校通いつつバイトして、その頃には別れた奥さんとも出逢ってたかな。彼女のせい、って言ったら悪くても、そうなんだ。彼女といて、埋めてたのが破裂して襲ってきた。肌を触れ合わせるとかに嫌悪があったんだ。相手が女だって思っても、触られたら硬直して動けなくなる。向こうの快感の波に乗れないし、勝手に終わったり、何にもないままだったり。抱いたあとに戻したりするようにもなって。最初は分からなかった。病気かとも思ったよ。何でだろうって考えて、まさかあのずっとされてきたことかなって思い当たって。子供の頃のままなんだ。動けなくなるのとか、触られる嫌悪感とか、なすがままになるのとか、何にも分かってなかったあの頃と重なってる。そして、そういえば、いらいらしたとき股間をたたきつぶそうとしたり、手をちぎりたくなったり、何にもしてないのにどっとだるくなったりするときがあるのにも気づいた。自分はかなり欠落してるとこがあるって分かった。肉体的なものより、精神的なものをぐちゃぐちゃにされてたんだよね。僕は大人になってそれを使おうとしたとき、初めて壊れてるのに気づいた。そう理解した途端、埋めてたのがどんどん噴きだしてきて、こんなになってた」
息を詰めていた。怖くなっていた。僕にもそんな前途が待ちうけているのだろうか。可能性は高い。今だって恋愛は億劫だし、子供のまま止まった自分の内在も感じている。
やはり逃げられないのか。この重い傷口を引きずって生きていくしかないのか。
聖樹さんは、口調を緩やかにして話を続ける。
「高校のときにしてた温厚な性格と、それ以前の暗い性格が、僕の中には分裂して存在してる。いつもは穏やかにしてても、それはやっぱり僕の正体じゃない。そっちの表面上を続けてたら、暗い本物が暴れるときが来る。抑えられずに、今日とかこないだみたいになる。真っ暗なんだ。自分が怖くなる。何にも分からなくなって、漠然と目の前に死にたいようなだるさが広がる。そこに堕ちるのが一番怖いかな。そしたら、悠紗も忘れるんだよ」
聖樹さんを見る。聖樹さんはタイルに目を落としている。静かな空気を介し、情けない、と感じているのが伝わってきた。
「あの子さえいればと思って、それが僕を支えてるのにね。悠も浮かばないぐらい、空っぽになるときもある。すごくつらいよ。あの子がすごく大事なのに、僕の心は悠を大切にするよりあの頃に怯えるほうにかたむくんだ。悠が大切なのは自覚してるだけ、自分で思うより、あのことに痛手を受けてるって知らされる」
聖樹さんは苦しげに睫毛を下げる。聖樹さんが悠紗を大切に想っているのは、誰だって分かる。その悠紗をなげうつ死にも、消えない傷は振れそうになる。それほど、聖樹さんの心の亀裂の深さを明示するものはない。
「二年か三年も前、そういうふうになって、自殺しようとしてたとこを悠に見つかったこともある」
内心、どきんとした。悠紗が屋上でしてくれた話がかすめる。
「頭の中が真っ暗になって、それを逃げ出したいっていうのしかなくなってた。死んだら終わると思ったら、じゃあ死のうって簡単に思った。そこの洗面所で手首切って水に浸して、血が煙みたいに出ていくのを見てた。あの子はいつから見てたのかな。突然、『おとうさん』って舌足らずに呼ばれて、それで心臓が止まりそうになった。悠は三歳だった。手首を切るっていうのが何につながるかなんて分かってない頃でね、きょとんとしてたな。ほんとに、情けなかったよ。今度はその情けなさで死にたくなるくらい。何であのことで、悠の存在まで奪われなきゃいけないのか分からない。悠がいれば、って思ってるはずなのに、そうじゃなくなるときがあるのがすごく怖い」
聖樹さんの震えそうな手を握った。聖樹さんは僕を見て、手を握り返す。聖樹さんの鳥肌はだいぶ去っている。
聖樹さんは緩く微笑んだ。
「ごめんね。こんな話は、萌梨くんは滅入っちゃうね」
「えっ」
「僕みたいになったらって、憂鬱になるよね」
口ごもってうつむいた。図星ではあった。
「僕は何にも行動せずになった結果だよ。萌梨くんは違う。そうやって逃げられた」
「されたのは、変わらないですよ」
「うん。でもね、こういうのってされたことばっかりでもないと思うんだ。自分で踏み出したか、順応してたかで、自信も変わってくる。僕は結局、順応してたんだ。耐えられないっていう自分の気持ちを尊重できなかった。今でも、すぐに自信喪失に流されそうになる。主観的に生きられない。いつも客観的になって物事をやってる。よく穏便で冷静だって言われるけど、それはそのせいだよ。萌梨くんは自分の苦しみに従えたんだ。大切なことだよ」
そうなのかなあ、とうまく納得できない。僕の場合、逃げられたのは八方塞りだったためではないだろうか。聖樹さんが受けてきたことより、自分のほうがひどかったなんて、そんなことは思わないけれど。
たとえば家庭だ。聖樹さんは、沙霧さんもいたし、家庭に問題はなかったと思う。僕は家庭でも虐待されていた。学校は地獄、家庭は悪夢、僕には逃げ出すほかなかった。
そこで、ふと気づいた。考えれば、僕は家庭の話をしていない。僕の傷口を決定的にした、あの家庭での惨状を。
話すかどうか迷った。僕自身思い出すのはつらいし、あれほど語って報われないものはない。いや、こんな話は報われないどころか、害だ。聖樹さんに、僕がここにいる危懼を働かせてしまう恐れもある。
けれど、そうだったらますます言っておかなくてはならないのではないだろうか。危ないから黙っているなんて、ずるい。僕はここに匿ってもらっているのだし、匿う危険を承知してもらっておかなくてはならない。
聖樹さんは視線を空中に流している。「あの」と呼びかけるとこちらを向いた。その瞳は穏和な色を取り戻してきている。
僕は深呼吸した。
「聖樹さんは、その、おうちは普通だったんですよね」
「えっ」
「家、です」
聖樹さんは面食らったようだが、一考し、怪訝を混ぜながらもうなずいた。
「沙霧もいたしね。学校に較べれば、ずっとよくはあった」
「そう、ですか」
「どうして」
「………、僕は、違ったんです」
聖樹さんは僕を見つめ、僕が何かを吐き出そうとしているのを気取る。聖樹さんの瞳に顔を上げた。
「あの、ごめんなさい。僕のほうが不幸だったとかじゃないんです」
「うん」
「聞きたくなかったら」
「萌梨くんが話したほうがいいと思うなら聞くよ」
躊躇ったのち、聖樹さんのほうにちょっと寄った。話すのなら、なるべく声を潜めたかった。
「ひとつ、お願いがあるんです」
「うん」
「聞いて、怖くなって、僕を追い出したくなったら、素直に言ってください。僕、出ていきます」
「………、」
「思う、と思うんです。もちろん、それでも僕を置いてくれるならここにいたいです。でも悠紗だっていますし、何事もないほうがいいと思うなら、言ってほしいんです」
聖樹さんは吐息をつき、言葉を選ぶ。僕が息を止めていると、とりあえずはっきり「ならないよ」と言った。
「ここにいて助かるんだったら、できるだけ助かっておいたほうがいい。受けるだけつらくなるんだ。一回も二回も一緒ってことはないんだよ。受けてるあいだはそう思うかもしれなくても、あとでそうじゃないのが分かってくる」
「聖樹さんたちに、迷惑がかかるかもしれないんです」
「そのときはそのときだよ。僕が『いい』って言ったんだ。どうかなっても、悪いのは僕だよ。きちんと覚悟してる。迷惑っていうのも、本当にないんだ。それがどんなにつらいかも、あとで及ぼしてくるものも、僕は経験してる。迷惑なんて、思えないよ」
聖樹さんの瞳は真剣で、嘘の影はなかった。そっか、と思った。聖樹さんの理解を、そのへんの大衆と同じにするのが間違っている。たとえみんなが迷惑と思うようなことも、聖樹さんはみずからが持つ傷を照らしあわせ、視野を広げることができるのだ。
一度睫毛を落とすと、心を決めて息を吐き、僕は聖樹さんを見直した。
【第二十九章へ】