伝える相手
僕は仕切りに置かれた眼鏡に目をとめ、ひとり納得した。あの四人には眼鏡を外すはずだ。
そこで僕は、沙霧さんにはその仕切りを置く包含に、あれ、と行き当たる。
「聖樹さん」
「ん」
「家族も知らないんですか」
聖樹さんは首をかたむけ、「悠?」と訊き返してくる。
「いえ、沙霧さんとか」
「ああ。知らないよ」
「そう、なんですか」
「意外?」
不明瞭にうなずく。沙霧さんぐらいには話していると思った。同じ家に暮らしていて、感づかれないものだろうか。そのへんを問うと、「あんがいね」と返ってくる。
「向こうは、そんな予想は一滴もしてないわけだし」
「話そうとは」
「思わない。受け止めてもらえるかどうか分からないよ。下手な告白で、沙霧に嫌われるほうが嫌なんだ」
「ご両親には」
「言ってない。信じてもらえないと思うんだ。良くも悪くも普通の親だしね。男同士がどうのなんて、身近にはないと思ってる。仮に僕がそういうことされてたって信じても、今度はこのことがどんなに深いか理解できないんじゃないんかな」
「仲が悪かったりは」
「それは、ない。あんまり折り合いは良くないか。僕が奥さんと別れたのも、結局あのことが原因だった問題が理由なんだ。話したら納得いくところも話さずにいるんで、向こうはいらだってる」
「それでも、話さないんですか」
「衝撃与えたって、どうにもならないよ。分かってくれる人にしか話したくない。分かる人に話すのだって勇気がいるのに」
そんなものだろうか。よほど崩壊した家庭でないかぎり、親は子を分かってくれるものではないのか。いや、自分の家が終わっていたので、かえって家庭に理想を見ているのかもしれない。
聖樹さんは、僕の仏頂面にくすりとした。
「萌梨くんにしてみれば、贅沢な言いぶんだよね」
「えっ。いえ、そんなことは」
「本音では、分かってくれるかもと思うときもあるよ。時間が経つにつれ、言いにくくなっていってる」
「………、どうしてですか」
「うん──。ずっと言わなかったし……」
僕が首をかしげると、聖樹さんはテーブルのそばに座るのを勧めた。僕はそうして、聖樹さんもそうする。
「傷つけそうなんだよね。僕を想ってくれてるぶん、何にも言わないってことは、つまり、言ったって頼りないって判断したことになるし。事実そうだし」
「は、あ」
「そう判断したのもしょうがないと思うよ。普通なんだよ。冷えてるんじゃなくて、ほのぼのしてるんでもなくて、家に愛着はあってもそれを表現しない。ほんと、そのへんに転がってる家。そんな家にいきなり、同性に犯されてる、なんて持ちこめなかった」
そんなものなのか、と鼻白みつつも納得する。
家がマシだったら、と僕は思っていた。家の居心地がよかったら登校拒否ができるとか、そうひがんでいたのも、確かによく考えるとむずかしい。押し黙って閉じこもれば家庭に亀裂が入るし、告白しても平和な家庭を困惑させてしまう。
家庭も崩壊しているのがマシだとは断じて思えなくても、家庭が円満だったらどうにかなるというのも短絡的だ。
「でも、悠にはいつか話そうと思ってるよ」
僕はまばたき、「そうなんですか」と言った。
「うん。あの子は全部分かってくれると思うから」
悠紗を想った。分かる、というか、悠紗は大部分を知っている。事実のみ、足りていない。
「あの子には、ちゃんと恋愛してほしいんだ。どういうことがいけないのか、教えておきたい。僕が昔、抵抗できなかったのは、何にも知らなかったせいなんだ。分かってれば断れるし、強要されたら悲鳴を上げられる。子供が何も知らないところにつけこんだことだしね。子供の頃に基礎をしっかりさせておけば、思春期に入って周りに左右されたりもしないよ」
「基礎、ですか」
「僕──というか萌梨くんもね、小さい頃に基礎を壊されたんで、大きくなってそれが何なのか分かっても、抵抗がうまくいかなかったんだと思うよ。何にも成長できてない。元が壊れてて、何かが育っていくわけないでしょう」
そっか、と合点をいかせる。僕は知識は成長しても心は壊れたままで、だから何も知らない子供のように抵抗ができなかったのだ。
幼い頃があって、のちの辱めがあった、としても過言ではない。
「悠紗には、あんなのもこんなふうになっていくのも、絶対に味わわせたくないんだ。なるべく早く話してあげるよ」
「今は話さないんですか」
「………、分かる、かな。行為自体が分かるかどうか。さっさと性の知識つめこんで、無茶に早熟にするのも逆効果だし」
確かに、すべて早いうちに教えるのも考えものか。性とはある程度は大人に教えてもらい、ほとんど自分で摘みとっていくものだ。
「あの子が気にして訊いてきたら、話しても構わないよ。それがなくても、小学校に上がった頃には」
聖樹さんは短く口を止め、苦笑をもらす。
「行かないか、あの子は。どっちにしろ、僕が教えてあげないと」
「いいんですか、学校行かなくて」
「しょうがないんじゃない。悠が行きたければ行っていいし、嫌だったら行かなくていい。悠が決めることだよ」
「義務教育、って言いますよ」
「義務教育だから、出席も単位も関係なく資格をもらえるんだ」
イジメられた、とかでもなく、そうできるものなのだろうか。不登校だの何だのも、飲酒喫煙と並んで、僕には別世界の行動だ。
いや──違うか。これでも僕は、登校拒否をしている。おまけに家出して、先月知り合ったばかりの人の家に居候している。
ふと自分の行動を振り返ると、そうとうすごい。あんなに内向的だったのに、衝動とは怖い。実感が薄いのは、あちらにいるよりここにいるほうがしっくり来るせいだ。
義務教育も、僕は悠紗より自分を案じなくてはならない。いったいどうなるのか。ここに匿われていては、中卒の資格もうやむやになる。ならば、いつ頃ここを出て、そのあとどうしていくのか。
まさか聖樹さんに一生面倒を見てもらうなんて、とんでもない。いずれは自活する。けれど、僕に働く体力なんかあるのか。たぶんない。だったら死ぬしかないくせに、きっと神経を削って働くのだ。
そうに違いない。僕は大人になったら、何らかの方法で、死ぬ気で生活をまかなっている。死ぬという両断の手段に出るほど、僕の心は情熱的ではない。
悠紗は将来、音楽に進みたい。そういう目的があれば、学校を外れるのもいいだろう。
僕は何にもない。欠けている。告発の気迫もない。軌道に乗っておくのがマシな手段だ。普通をやっているのはすごくつらくても、これがぎりぎり最低限の浪費でもある。
「萌梨くん」と呼ばれて顔を上げた。上げて、自分がうつむいていたのに気づいた。聖樹さんは心配そうだ。
「気に障ること言っちゃった?」
「あ、いえ」
座り直して一考し、「学校どうなってるでしょうね」と遠からずの話題に振る。
「学校」
「逃げてきましたし。今も捜してるでしょうか」
「そう、だね。どのぐらい経ったかな」
聖樹さんは時計のそばにかかったカレンダーに目をやる。
「先月の半ばですよね」
「で、十一月に入って一週間、か。あきらめてるかな」
「そうでしょうか」
「学校ってそんなに生徒想いでもないよ。もう他の県に逃げたとか言って、不可抗力だって投げ出すんじゃない?」
それはありそうに思えた。学校がそんなものだとは、わりかた知っている。
「だけど──ごめんね、萌梨くんのおとうさんは僕も怖い」
「………、来るでしょうか」
「来るかは分からなくても、捜してはいるんじゃないかな。学校と同じで、ここにいないって判断してほかに目を向けてくれたらいいんだけど。ありそうかな」
僕はおかあさんがいなくなった当時のおとうさんを回想する。
おとうさんは心当たりをくまなくあたり、どれもこれもに玉砕した。そこであの人は思いもよらないところに行くのでなく、家で酔いつぶれた。
だが、その選択には僕に幻想を求められる安堵も手伝っていた。今回はそれもない。僕への執着とおかあさんへの愛情が強く、かつ尽きていなければ、おとうさんは全国を駆けずりまわる。
「もしかしたら、別のところにも行くかもしれないです」
「そっか。いつ頃そうなるかだね」
「おかあさんのときは納得するまで、会社も行かずに二週間帰ってきませんでしたよ」
「二週間。ここの地理は知らないし──知らないよね」
「です、ね」
「なら、三週間ぐらい──広いもんな。あの歓楽街もあるし。一ヶ月は見積もってたほうが安全か」
「一ヶ月、ですか」
「滅入りそう?」
首をかしげる僕に、聖樹さんは微笑んで座卓についていた前膊を離す。
「僕は、そろそろいいんじゃないかと思うよ。寒くなってきたし、厚着するのも不自然じゃない。僕の上着でも着ていったら分からないよ」
「そうですか」
「うん。僕が付き添ってもいい──というか、付き添わなきゃね。迷子になったら水の泡だし。悠もいたら、空似ですむよ。見知らぬ家族でおしまい」
確かに、と咲った。「もし誰かに話しかけられても、僕がしらばくれるよ」という聖樹さんに僕はうなずいた。
何とかなるかもな、と思った。ここを出て自活の道に行ったとしても、聖樹さんや悠紗を失うわけではない。会いに来れる。これまでがこれまでだったので、どうも僕は孤独に固執してしまう。しかし、もうそうではないのだ。僕はひとりじゃなくなった。
そうして聖樹さんと話をしたあと、寝支度に取りかかった。就寝間際、「明日会社だったな」と聖樹さんは弱ったふうに咲った。
僕はリビングに敷いたふとんにもぐりこむ。このふとんも、僕の匂いになじんできている。
何だかいろいろあった今夜は、入り組んだ思索より睡魔が勝ってくれて、早いうちに熟睡にさらわれていった。
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