再び、1004号室【1】
翌日、僕は寝坊して遅めの朝食を取った。聖樹さんも眠たそうで、出勤時に努めて表情を切り替えていた。
悠紗は元気で、僕が目玉焼きを食べる隣で音楽の勉強をしている。半熟の黄身をつぶす僕は夕べを思い返し、あのXENONに会ったんだよなあと夢見混じりに考えていた。
平日の朝と昼の炊事は、僕の仕事になっている。朝食を食べ終わると、たらいに浸された三人ぶんの食器を洗う。
こんな微々たる手伝いでも、聖樹さんに貢献できているという。「朝の五分と夜のそれは違うしね」という言葉は、僕も向こうでの家事の仕切る生活で経験していた。
食器を泡立て、フライパンに取りかかろうとしたとき、悠紗が勉強道具を片づけ出した。早いな、と思っていると、悠紗はノートを抱えてこちらにやってくる。
「なあに」と訊くと、「みんなのとこ行こう」と即答された。
「みんな」
「要くんたちのとこ」
「あ、ああ──起きてるかな」
眠気に乗った僕の質問に、悠紗はひそみをした。僕の間の抜け方に──ではなく、寝ているかもしれないようだ。確かに、あの四人は、あまり規則正しい生活はしていない気がした。
「いつもはどうだったの?」
「いつも」
「みんなが帰ってきたとき、遊びにいったりしなかった?」
「あ、そっか。起きてるかな。あのね、要くんたちが帰ってきたら、保育園じゃなくて要くんたちといたんだ。おとうさんが会社行く時間になったら、要くんか葉月くんが起きててくれるの」
「そうなの」
「うん。で、僕を預かったらまた寝ちゃう。いつもみんな、お昼まで寝てるんだよ。僕ほっとかれるんで、ひとりでゲームしてたもん。あ、ソフトとカード持っていかなきゃ」
「じゃ、起きててくれてるんじゃない」
「いつもの時間過ぎちゃったもんなあ。寝ちゃってるかも」
「一回行ってみて、寝てるみたいだったら、昼頃に出直そうか」
「うん」
「じゃあ待ってね。これ洗うよ」
「僕も用意する」
悠紗はリビングをばたばたして、僕もフライパンを手早く洗った。泡立った食器を水洗いして、水切りに並べる。
僕がタオルで手を拭く頃には、悠紗は支度を整えていた。いろいろつめこんでいたリュックを背負っている。
僕は戸締まりを確認すると、悠紗について部屋を出た。
十階に向かうエレベーターでも、悠紗ははずんでいた。普段離れている友達に会えて、やっぱり嬉しいみたいだ。
にしても、悠紗は友達は大人の人ばかりだ。いつだか聖樹さんが言っていた通り、僕が一番歳が近い。沙霧さんは未成年でも、十八歳なんて僕にしても大人だ。父親であり、友達である聖樹さんは二十五歳になる。XENONの四人は──
そういえば、聞いていない。成人してるのは明らかだ。梨羽さんは高校生にも見えるけども。
だが確か、梨羽さんは聖樹さんのひとつ下だ。二十四歳。ほかの三人の年齢は知らない。みんな二十代のなかばで、三十には届いていないだろう。中学時代に出逢ったというし、同級生だろうか。
「悠紗」
「んー」
「あの四人って、みんな同い年なの」
「えー、違うよお。んとね、葉月くんがおとうさんと一緒で、梨羽くんと紫苑くんはその一個下。要くんはおとうさんたちの一個上。要くんが一番上なの」
何となく、意外だった。紫苑さんは梨羽さんは同い年で、最年少なのか。要さんと葉月さんは同い年という感も外れで、要さんひとりが一番上なのだ。聖樹さんと葉月さんが同い年というのも、何となく不思議だ。
「着いたよ」という悠紗を追い、一週間ぶりにあの部屋に向かった。1004号室は、変わらず名前が入っていない。
悠紗はドアフォンに背伸びをしようとして、僕が代わりに押した。悠紗は照れ咲いする。
返ってきたのはインターホンの応答でなく、無視でもなく、突然開いたドアだった。
「お前さあ、こんな時間に遅刻じゃないのか」
眠気がつまってしゃがれたその声は、要さんの声だった。ドアが大きく開いて、寝ぐせもついたまま半分は眠る要さんが現れる。
服装は昨日と変わっていなかった。悠紗と僕を見ると、訝りつつもしっかりあくびをする。
「聖樹ちゃんは」
「仕事に行ったよ」
「かー。よくやるよなあ。遅刻だったら見直してやったものを。で──あれ、お前ガキの巣はどうした」
「行くの辞めたの。萌梨くんがおうちにいてくれるもん」
「六つにして外道に走るか。っと、ぽちも学校行ってないのか」
「……萌梨、です」
「萌梨ちゃんも」
「………、行ってないです」
「ほお。見かけによらんもんだなあ。いや、けっこうなことです。お入りなさい」
悠紗と僕は部屋に招かれる。「鍵締めて」と言われ、僕が鍵をかけた。悠紗が先に靴を脱ぎ、部屋に上がる。
「みんな寝てるの」
「つうか、死んでる。俺も死ぬぞ」
「はは、ごめんね。起きて待っててくれたんだよね」
「聖樹の世話になるばっかなのもな。午後には遊んでやるよ」
「うん」
僕も靴を脱いで、三人で廊下を抜けた。すると、一気に空気は酒に満ちる。あのあと、また飲んだのが推断できた。
リビングはまぶしかった。ガラス戸にカーテンがかかっていなくて、強い朝陽が広がっている。
そんな中、特にいびきなどはかかずに眠っているのは、葉月さんと紫苑さんだ。要さんが包まっていたらしいバスタオルもくしゃくしゃになっている。
荷物もごちゃごちゃしていて、空き缶も雑誌も転がりっぱなしだ。
梨羽さんがいなかった。あの抱きしめていたリュックもない。首をかたむける僕に、「ヴォーカルはクローゼット」と要さんが説いた。
見ると、確かに詰まっていた掃除道具が乱暴にかきだされている。
「あいつは、人に寝顔さらすのが死ぬほど嫌いなんだよ」
「……はあ」
梨羽さんらしい。しかし、常に行動を共にしているようであるメンバーに、隠し通せるものなのか。
そんな僕の心を透かし読んだのか、要さんはにやにやしてくる。
「でも俺、見たことあるよ。すっげえかわいい。普段があれだろ。愛らしくすらあって、思わず襲いたくなる」
「………、襲う、ですか」
要さんはげらげらとして、その哄笑をあくびで飲みこんだ。葉月さんのそばにしゃがむ悠紗は、まばたきをしてくる。
「襲わないって。俺は女よりも右手を選ぶときもある男だしな。ホモでもないのに男など」
「………、梨羽さん、かわいいですよ」
「君、男が好きなの」
「好きじゃないですっ」
「じゃあ、分かるだろ。あいつにだってあるもんはあるんだよ。襲えるか」
断言する要さんに、僕は不思議な気持ちになった。
あるものはある。襲えるか。
普通はそうだ。しかし、僕の周囲にいた男は違った。
「世の中には、分からん奴もいるけどねえ」
「えっ」
「性別とかより、やりたいって気持ちに走る奴。男っつうのは、突っこんでかきまわしたいのが本能だしさ。それが抑えられなくて、手あたり次第ぶちこむアホもいるんだよ」
葉月さん、紫苑さんの様子を見た悠紗は、テレビの前に落ち着く。そこはゲーム関連のもので散らかっていた。掃除の際には片づいていたハードやコントローラー、ディスクも投げ出されている。
例の雑多な本の山も荒らされ、DVDとそのケースも転がっている。アダルトものだ。
「そういうアホはともかくとして、餌になった奴はたまんねえよな」
要さんを盗み見る。要さん、というかこの四人は、聖樹さんの苦痛を知っているのだっけ。それを重ねると、要さんの言葉には輿論の繰り返しではない実感の厚みが出て、重く響いた。
ディスクをセットする悠紗を眺め、要さんは何度目かのあくびをした。「んじゃ、俺寝るんで、勝手にな」と剥き出しの床に横たわると、驚異的な爆睡に入ってしまう。寝つきの悪い僕にしたら、見事でもあった。
要さんも大酒をあおったわりに、静かに眠る。僕のおとうさんは、酔うといびきがひどかったものだ。強かったら眠るのにも影響出ないのかな、と憶測しつつ、悠紗の隣に座る。
悠紗は僕に上目をしてきて、「ごめんね」と言った。慮外の言葉にきょとんとした僕に、悠紗ははにかんで咲う。
「おうちにいるのと同じでしょ」
「あ、ううん。構わないよ」
「そっか。良かった」
悠紗は接続コードを抜き換え、ゲームの電源を入れる。テレビもつけると、画面にはハードのマークが映る。悠紗が持っているものと同じだ。音量を下げる悠紗に、「みんな静かだね」と僕は何心なく言う。
「うん。あ、たまに梨羽くんが歯軋りするよ」
「歯軋り」
「小さい、分かんないくらいのね。きりきりって。嫌な夢見るとするみたい」
クローゼットをかえりみる。しっかり閉まっているので、誰かが外から閉めてあげたのだろう。
歯軋り。嫌な夢。梨羽さんってどうなんだろ、と思う。聖樹さんの心もうまくすくいとるし、無表情で閉鎖的でもある。それにあの詩、あの歌、奇妙な発言たち。もしかして、つらい体験を幼い頃に背負っているのか。
短絡的でも、もろもろの様子にそう思ってしまう。
「ときどき泣き出しちゃったりもするよ」
「えっ」
悠紗はゲームを始めている。見憶えのないものなので、この部屋のものだろう。
「梨羽くんってよく泣くの」
「泣く」
「ぜんぜん笑いも何にもしないか、泣くかなの。部屋に行って、もっと閉じこもっちゃったりする」
「部屋」
悠紗が指さしたのは、鈴城家同様、密集した設計のドアのひとつだ。一番手前のそのドアは、部屋という言い方で察するに、鈴城家で言うと寝室につながっているのだろう。
「そこまで行ったら、みんなついていって梨羽くんをあやすの」
あやす。昨夜、要さんが梨羽さんのそばにいったときがよみがえる。要さんは梨羽さんに、「梨羽ちゃん」となだめるように話しかけていた。
あれは揶揄いではなく、引きこもりに亀裂を入れる気遣いだったのか。要さんを一瞥する。ふざけているのか優しいのか、分からない人だ。
悠紗はコントローラーをいじるのに熱中し、手持ち無沙汰になった僕は、部屋を改めて見まわした。紫苑さんは相変わらずそばにギターケースを置いて、葉月さんはうつぶせになって雑誌に顔をうずめている。
ちなみに、ポルノ雑誌だ。読みながら──観ながら眠ってしまったのだろう。
まばゆさに細目になって、よく眠れるなあ、と感心する。このバンドがどういった活動をしているかは判然としなくても、ライヴ中心と言っていたし、いろんなところに出没するらしい。どこかに拠点を置くより労力も大きいし、その上、昨日の聖樹さんとの会話を見ると、いろいろな予約や宣伝も自分たちでやっているようだ。疲れるよなあ、と僕が息をつきたくなる。
悠紗のやるゲームを眺める。このジャンルも悠紗は鮮やかにこなしていく。RPGほど細かくなくても、これにも話の筋があった。「悠紗って話があるのがうまいね」と言うと、悠紗もこくんとした。
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