再び、1004号室【3】
まもなく、髪をタオルで拭く葉月さんが戻ってくる。閉めなかった引き戸から、水と石鹸の匂いがこぼれてくる。
葉月さんは寝続ける要さんを認め、「げ」と声をもらした。
「何こいつ。寝てない?」
「寝てるよ」
悠紗はポテトチップスをぱりんとやる。
「何で。蹴っておいたのに」
「疲れてるんじゃない」
「えー、飯用意して寝ろよなあ。あ、俺にもちょうだい」
葉月さんは、ぴょんと僕たちのかたわらに腰をかがめる。濡れたくせ毛の髪にシャンプーの匂いがした。
悠紗が葉月さんにポテトチップスのふくろを渡す。葉月さんはそれに手を突っこむと、何枚かをいっぺんに口につめこんだ。
「お腹空いてるところにたくさん食べたら、お腹痛くなるよ」
「聖樹みたいなことを」
「だってその子供だもん」
「はは」
次は葉月さんは一枚で食べた。
「そういや、その聖樹はどうした。家?」
「会社だよ」
「何、行ったの? まじめね。昔っから変わらん奴」
「おとうさんの昔ってどんななの?」
内心どきっとした。その質問の深い裏と、葉月さんがどう答えるかに。悠紗は聖樹さんの傷口に一致する刃物を探しているし、葉月さんは聖樹さんがされてきた傷害を知っている。
「えー。聖樹の昔。そうだなあ。って違う、変わってないと言っただろ」
「あ、そっか。むー、けど分かんない。おとうさんがおとうさんじゃなかったときって、僕にはないもん」
「そりゃそうだな。まあね、かよわかったかな」
「かよわいって」
「守ってやりたいと思わせるというか」
「ふうん。僕も思うよ」
「じゃ、やっぱ何も変わってないな」
葉月さんはからからとして、僕にもポップコーンをねだった。うまくかわした、という所感は出さず、僕もふくろごと渡す。葉月さんは片手に盛ったポップコーンを口に投げこむ。
「坊やってさ、いくつなの」
「えっ、と、十四です」
「十四かあ。もう俺、十年以上前だよ。ひゃー。俺こそ何も変わってねえな。あ、ちょうどバンド始めた歳じゃん」
「そう、なんですか」
「そおなんです。中二だよな」
「はい」
「んじゃ、そうだ。あ、君、学校行ってないんだね」
「……まあ」
「いいねえ。俺、学校にはまらない奴って好きよ」
葉月さんは僕にポップコーンのふくろを返すと、「昼飯何がいい?」と訊いてきた。悠紗は「何でもいいよ」と返す。
「っそ。坊や──何だっけ、モエギ」
「萌梨、です」
「萌梨ちゃんは、何か食べたいのある」
「僕も、何でも」
「そ。コンビニ。あー、行くのだるい。ピザでいっか。こいつは寝てるんで選択権なし、梨羽は食えりゃいい、紫苑もいいよな」
紫苑さんが興味もなさそうにうなずくと、葉月さんは溜まっていただろうダイレクトメールの山をあさった。埋もれたデリバリーピザのチラシを見つけると、無数のかばんを荒らして携帯電話も見つける。
「充電切れてるかな」と電源を入れ、どうやら使えたようで、何種類かのピザやサイドメニューを適当に注文する。あとは、「はいはーい」と生返事で、電話はすぐに切られた。
葉月さんは携帯電話を見つけたバッグを探り、充電器を引っ張りだした。プラグをさしこんだそれに携帯を収めると、荷物のそばに腰をおろす。
「携帯、新しいのにしないんだね」
悠紗は携帯に這いより、別のかばんをあさりだした葉月さんに首をねじる。
「使えりゃいいのよ。どうせプライベートで登録されてんの聖樹だけだし。あとはライヴハウスとかばっか。ああ、俺たちって揃いも揃って友達がいないのねえ」
愉しげな様子に、友人がいないのを哀しむ色はない。
友達。いないのか。葉月さんや要さんには、集まる人もいそうだし、寄ってくる人を拒むふうもないけれど。
葉月さんの物の探し方は乱暴で、目当てではないものはあっちこっちに放り投げる。雑誌や生活用品、ドラムのスティックといった音楽関係のものもすげなく投げる。ライヴのチラシや、走り書きがいっぱいのメモもあった。
スティックは悠紗が拾い、リズムを取ったりまわしたりで遊びだす。
「あった」と葉月さんが手にしたのは、お金だった。財布ではなく、剥き出しの何枚かの一万円札だ。
「足りるよなー。あんま贅沢できなかったっけ。金取っとかないと」
「練習とかしなくていいの」
「なあ。うち、そういうのろくにやらないんで、顰蹙買うんだよな」
「ひんしゅくってー」
「練習しなくても、才能でこなせるとか思いあがってんじゃねえのか、このアマ以下集団! と唾を吐かれることだな」
「ふうん」
違う気がする、と思っても口を挟まず、ポップコーンを食べる。
「でも、違うんです。俺だって練習したいんです。うちがほぼ一夜漬け状態なのは、ヴォーカルが悪いんだよ。練習と本番のテンションの区別がつけられず、練習やりすぎると本番に灰と化してるあいつが」
「梨羽くん抜きでやったら」
「梨羽がいなきゃ、紫苑ギター弾かないもん。奴は自分か梨羽のためにしか弾かない、偏屈者なのさ」
「えー、じゃあ葉月くんと要くんでさ」
「俺と要は、メロディがないといけない絵本に走っちゃうの。ふ、こうやって見ると、俺たちってマジでアマ以下だな」
「笑うしかない」と葉月さんが大笑したとき、突然要さんががばっと起きあがった。寝ていると思っていた僕は、至近距離もあって心臓をすくませる。
「お、要。はよー」
ほがらかな葉月さんを、要さんはかぶるタオルをはいで、怨めしげに睨んだ。
「てめえ、俺が寝てるの分かっててやってるだろ。散らかすとか笑うとか」
「あーら、そういうの自意識過剰って言いますのよ」
要さんは、長い脚を利用して葉月さんに蹴りを入れた。僕は臆したものの、悠紗はにこにこしている。おなじみのことらしい。
「お前ね、まず暴力で訴えるのやめろよ」
「俺はこういう男なんだよ」
「中学時代からなー」
「うっせえ、てめえこそその悪賢さは変わってねえだろ」
「建設的と言ってくださいます?」
「何だよ、ぶち壊したくせに」
「俺なんかにひれ伏した向こうがバカだったのさ」
高らかに笑って悪びれない葉月さんに、要さんは息をついて、軆にまといつくタオルを向こうにやった。
あくびを噛み殺し、長い前髪をかきあげている。部屋に視界をぐるりとさせ、「あれ」ともらす。
「紫苑は」
「え、そこいるじゃん」
葉月さんがしめしたクローゼットの前に、紫苑さんはい──なかった。うろたえてみんなで四顧すると、うずくまる梨羽さんのそばにギターがあり、葉月さんが開けっぱなしにしていたはずのバスルームへの引き戸も閉まっている。
「気配なかったよなー。怖ー」
「いつもだけどな」
喧嘩の名残もなく、葉月さんと要さんは共感しあう。このふたりは、加わるより眺めているほうがおもしろい。
僕は梨羽さんのそばにあるギターを振り返り、お風呂には持っていかないんだな、と思った。当たり前か。濡れたら壊れるのは、僕が音楽に無知でも分かる。
紫苑さんは、梨羽さんのためにしかギターを弾かない。そして、どうしようもなければ、その梨羽さんにギターを預ける。初めて、要さんと葉月さんのあいだ以外の、XENONの中のつながりが垣間見えた。
要さんはかぶっていたタオルを片づけると、葉月さんがお金探しに投げたものを集めた。その行動に葉月さんははにかみ咲って、「これは俺のくせでもあるんだよ」と言う。「知ってる」と要さんはにやりとして、集めたものを葉月さんに放りよこす。受け止めた葉月さんも笑い、僕と顔を合わせた悠紗もにっこりとする。
どんなに乱暴に罵りあっても、それはこのふたりなりの親しさなのだ。何かやっぱり絆がある人たちなんだよな、と思った。
【第三十八章へ】