風切り羽-41

少しだけ前向きに

 僕と悠紗は、陽もかたむいた十八時頃に腰を上げた。聖樹さんが帰宅してくる前には帰っておきたかったのだ。
 梨羽さんと紫苑さんは言うまでもなく、葉月さんもゲームに熱中していて、見送りは要さんひとりだった。
 玄関で靴を履いていると、明日はヒマかと尋ねられた。僕は悠紗に任せ、「ヒマだよ」と悠紗は答えた。
「聖樹も」
「え。おとうさん、は分かんない。仕事がなくても、おうちの仕事したりするし」
「っそ。まあ、いいや。明日フライヤーばらまいたりしにいくと思うんで、もし来るなら手伝わされる覚悟で来いよ」
「手伝うよ」
「良い子の返事だ。萌梨は」
「えっ。えと、外に出るんですか」
「この部屋にばらまいたってな」
 もっともだった。僕は踟躇し、どのへんに行くのかを問う。要さんは楽しそうな目になった。
「何かあんの?」
「……ちょっと」
 要さんは興味がありそうにしたものの、詮索はしなかった。
「歓楽街のほう。あっちのが俺たちは受けがいいんだ。駅前とかにも行く予定でも、明日は行かないな」
 歓楽街。とりあえず、駅前はダメだ。あのホテルや、行動を取ったところの付近に行くのは怖い。逃げた末に戻ってくる、と踏んだ人がいるかもしれない。そのときには行けないが、明日は歓楽街だ。
 大丈夫だろうか。聖樹さんも、そろそろ出歩いてもいいと言っていた。
 でも、と恐怖感に躊躇っても、悠長に悩んでいる状況でもないのを考え、聖樹さんに相談してみると答えた。そうして悠紗と僕は、「ばいばい」「お邪魔しました」とそれぞれ残し、XENONの部屋をあとにした。
 廊下はしんと肌寒く、当たり前だが、酒のにおいもしなかった。この時間だと、非常燈でなく普通の電燈が灯っている。あの部屋でも、落ちた陽射しに急いでクローゼットから引っ張り出したカーテンを取りつけ、明かりをつけていた。
 エレベーターホールの小窓の向こうも暗い。エレベーターを待つあいだに、「手伝い行けないの?」と悠紗が僕を仰いでくる。
「ん、うん。分かんない」
「外行くの、怖い?」
「………、向こうでの人が、まだ捜してるかもしれないし」
 悠紗は僕を見つめ、「そっか」とつぶやいた。白く小さい手が、僕の服の裾を握る。僕は悠紗の頭を撫で、「危なくなさそうだったら行くよ」と言った。悠紗はこくんとした。
 僕たちが部屋に帰って、三十分もせずに、聖樹さんは週末恒例の大量の買い物ぶくろと帰宅した。
 悠紗は紫苑さんに教わった音楽の復習をして、僕は広げられた紙の音符や楽譜を眺めている。「おかえりなさい」と言った僕たちを、「ただいま」のあとに「何してるの?」と聖樹さんはかがんで覗きこむ。そして、眼鏡を外しながら咲いをもらした。
「要たちのところにいた?」
「えっ」
「何で知ってるの」
「お酒のにおいがしてる」
 悠紗と僕は顔を合わせ、服を鼻にあてた。確かに酒気が染みついていた。一日あの部屋にいて、しかも窓は閉めきられていて、午後には要さんと葉月さんはまたもや酒を飲んでいた。染みつくはずだ。
「悠、飲まなかっただろうね」
「飲まないよ」
 ふくれる悠紗に、聖樹さんは咲う。その会話の様子で察するに、悠紗は酒を飲んでどうかした過去があるらしい。
 僕には飲酒の経験はない。おとうさんのせいで、酒にいい印象がない。あの部屋で平気だったのは、雰囲気が家のように暗くはなかったからだろう。
 聖樹さんは悠紗の頭に手を置くと、「着替えてきてくれるとありがたいな」と言った。悠紗は従順にうなずきかけ、「お風呂に入ってもいいよ」と提案する。
「ひとりで入らせられないだろ」
「平気だよ」
「平気じゃないの。こないだもすべりそうになったのに。あ、萌梨くん、先に入る?」
「え、いいんですか」
「構わないよ。悠もいいよね」
 悠紗は首肯し、聖樹さんは腰を正してバスルームを見やる。
「お風呂溜めたほうがいいか。少し待ってて」
「夕ごはんは」
「作れるよ。あの四人の相手、疲れたんじゃない?」
 そう言った聖樹さんは、着替えの前にバスルームを見にいった。疲れ、はしていても、悪い感じのものではなかったのだけど。
 悠紗は服のにおいを嗅いで、「お酒」とつぶやいている。
「悠紗って、お酒飲んだことあるの?」
「え、どうして」
「聖樹さんの言い方、そんなだったし」
 悠紗はおもはゆそうに咲い、以前あのふたりに勧められるままワインを飲み、翌日二日酔いで寝こんだのを語る。
「あとで要くんと葉月くん、おとうさんに怒られてたよ」
「怒る」
「怖かったってふたりとも言ってた」
 咲ってしまう。普段おっとりしているぶん、聖樹さんは怒ると怖そうだ。悠紗のためだったら無気力を押しやって怒ったりできるんだな、とこんなところで聖樹さんの悠紗への深い愛情を窺い知る。
 バスタブにお湯が溜まるまで、夕食の手伝いをしていた。お湯が張られてその温度も良くなると、手伝いを抜けてお湯に入る。バスタブに浸かるのに遠慮はあっても、風邪をひいて迷惑をかけるのも忍びなく、甘えさせてもらっている。
 温まると軆を洗い、髪を洗った。ボディソープは共同でも、スポンジは例の一万円で聖樹さんに買ってきてもらった。衣服や箸も同様だ。歯ブラシなど、旅行用があるものはそちらを使用し、いちいち持ち運んだりせず所要の場所に配置している。
 肉体に限れば、僕の状態は屈辱の最中より良くなってきていた。抑えつけられた痣もなくなり、肌を駆けまわる手の幻覚に鳥肌が立つのも薄れ、鈍痛が停滞する下腹部、崩れそうな腰も長く体感していない。頭痛や耳鳴りは心的な要因もあって変わっていなくても、それでも、脳の氾濫で苦痛が生身に鮮やかになるのは減った。
 性器についても、正視はともかく、一瞥した程度なら平静を保てる。たとえ怒張せず陰毛に縮まっているとしても、僕はそれに引っかきまわしたものを見て、嫌悪と憎悪が入り混じった不快にいらついていた。そして、性器を切り取るか叩き潰すかしないと収まらない気持ちになっていた。それもほとんどない。
 手段がないのもあるが、自傷にも走らなくなった。外的に危険をはらむ行動には、僕の傷は結びつかなくなっていた。
 マシになったんだよなあ、と弱い水圧のシャワーを浴びる。微々たる改善であっても、何にも変わりない、まして悪化していくよりいい。
 わずかでも、傷にさいなまれるのが減った。喜びをさしおき、痛切な安堵が強い。そんなのは──そんなのすら、向こうではありえなかった。あちらでの僕は、傷を増加させ、深化させていくばかりだった。ここにいて僕は、生きているのが楽になる時間を持てるようになっている。
 泡が落ちてさっぱりすると、バスルームを出てタオルで肌をはたいた。このタオルも買ってきてもらったものだ。何枚も買えるものではないので、使用後はベランダに干す。髪を拭いて服装を整え、リビングに戻ると、おでんの匂いが満ちていた。僕はテーブルとやや離れたところで髪を乾かし、そのあいだに聖樹さんと悠紗によって夕食が準備されていく。
 ドライヤーをしまった僕が座ると、揃って夕食になる。こうして食卓を囲ませてもらうのにも、内心燻っていた遠慮がなくなってきている。
「おとうさん、明日はどうしてるの」
 取り分けた大根をひと口大に切り分け、悠紗は聖樹さんに訊く。厚揚げを皿に取っていた聖樹さんは、その質問に手を止める。
「明日」
「いそがしい?」
「いそがしい、のはいそがしくても、家にはいるよ。どうして」
「明日ね、要くんたちが何か配りにいくんだって。僕、手伝うの。おとうさんも行けるかなあって」
「え、もう行くの」
「うん。──言ってたよね」
 こくんとする。カレンダーを向いた聖樹さんは、「そっか」と漏らした。
「来週なんだよね」
 来週。びっくりして、僕もカレンダーを確かめた。今日は十一月の第一金曜日で、来週の第二金曜日が十三日だ。
 改めて、あの四人を思い返す。ライヴ一週間前のバンドとは、あんなものなのか。大丈夫なのかなと部外者の僕が心配してしまう。
「明日、いそがしいの?」
「家事があるし、あの四人の洗濯物も頼まれるだろうし。干すとこ足りるかな」
「荷物はいっぱいだったよ」
「ずっと帰ってこなかったもんね」と聖樹さんは咲い、器用に厚揚げを箸で半分に分かつ。
「みんな部屋にいた?」
「いたよ。萌梨くんは、要くんと葉月くんと仲良くなれたんだよね」
「そうなんだ」と笑む聖樹さんに、たまごをかじっていた僕は照れ咲いする。
「でね、練習はしないのって訊いたら、前にしかしないんだって」
 聖樹さんは仕方なさそうな息をつく。毎度あの四人が、ああしてやるべきことを怠け、ほぼぶっつけ本番をしているのが窺える。
「それでね、そういうことするから──んと、あれ、何だっけ」
 悠紗はこちらを向く。僕は考え、「顰蹙」と言ってみた。「そう」と悠紗は聖樹さんに向き直る。
「それされるんだって。笑ってたよ。葉月くん」
「まあ、こっちを心配させるだけさせておいて、結局いつも成功するのがあの四人か」
「梨羽くんの調子もあるんだってよ」
「そうか。梨羽ね。持つかな。ここに帰ってくる直前にもライヴやってたんだっけ。今日どうだった?」
「隅っこにいたよ。──ね」
 うなずいた僕に、聖樹さんは愁眉をする。
「疲れてるんだよね。昨日も落ちこんでたし。梨羽は歌ってるだけじゃないもんね」
「悪魔が見えるんでしょ。おとうさん、ついててあげなきゃ」
「土日はそうするよ。金曜日はさすがに」
「行けないの」
「仕事のあとで、あの空気はつらいよ」
「ふうん」と悠紗はいささか不服そうだが、僕には、聖樹さんの気持ちが分かった。普通をこなしてきたあとは、とても疲れるのだ。
「今度のライヴのあと、休み取るつもりだといいね」
「おとうさんが言ったらするよ」
 聖樹さんは咲って、厚揚げを口に運ぶ。皿を空っぽにした悠紗は、次は手羽先をすくう。
「萌梨くんも、エピレプシー行くんだよね」
「うん」
 今日の雑談の最中、僕も一応チケットをもらっていた。
「でも、僕たちチケットいらないけどね」
「え、何で」
「みんなと行くでしょ」
「………、みんな」
「あのね」と聖樹さんが注釈を入れてくれる。
「僕と悠は、いつもあの四人と裏口から入るんだ。付人とかいう名目で。今度のところは、事情も分かってくれてるんで、名目もいらないよ。見るのもホールじゃなくて袖でなんだ。客席で観たいなら、って一応チケットくれるんだけど」
 なるほど、と合点をいかせる。
「ほんとのマネージャーさんみたいな人は」
「いないよ。したいことを自分たちで見つけて、やりたいことなら自分たちでやりとおすって」
「梨羽くんと紫苑くんが嫌がるしね」
「うん。あのふたりに警戒されると、けっこうきついんだよ。梨羽は怯えてそばによられただけで拒否しめすし、紫苑は始終睨みつけてくる。葉月が言うには威嚇」
「……威嚇」
 僕はあんがい、あのふたりに許されていたのだろうか。紫苑さんは僕に無関心だったが、敵意もなかった。梨羽さんも怯えてはいなかった。昼食のピザを取りにきたとき、みずから僕の背後の至近距離にも来ていた。あの対応は、ふたりにしたら、かなりの許容であったのか。

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