風切り羽-45

路地裏で

 要さんは梨羽さんの肩を覆って、腕で頭をかばうと、路地裏に入って、静かなところに連れていく。寒くて湿っぽいそこは、通りが人混みの熱気で暖められていたのを思い出させた。ついジャケットの中に身を縮める。
 梨羽さんはうずくまった。泣いているのかは分からなくも、肩は小刻みに震えている。
 梨羽さんをあやす要さんは、「聖樹がいればなあ」とつぶやいた。梨羽さんのそばにしゃがむ僕は、要さんに目を向ける。要さんは梨羽さんの背中をさすりつつ、暗々とした中で僕を見返した。
「梨羽をあやすのはさ、聖樹が一番うまいんだ」
「そう、なんですか」
「昼間の話、憶えてる? 梨羽の神」
「はい」
「聖樹は、あの悪いほうが梨羽を攻撃するのをやわらげられるんだ」
「何で、ですか」
「聖樹が神に似てるからだよ。錯覚できるんだ」
 さあ、という答えを予期していた僕は、まごついた。
 神に似ている。そういえば、そんな話はおとといもしていた。聖樹さんは梨羽さんの神様に近いと。
「萌梨は知ってんだろ」
「えっ」
「聖樹がガキの頃されてたこと」
「え、な、何で」
「あいつ、萌梨には眼鏡かけてねえし。かけてなくて知らないのは、いつか話すって腹決めてる悠くらいだぜ」
「………、ま、あ」
「だからなんだ」
「え」
「聖樹がそういうことされてたんで、梨羽にはあいつになぐさめられるのが効く」
 何で、とは訊けなかった。その前に梨羽さんが身動きし、鼻をすすった。要さんは梨羽さんの背中をとんとんとして、「無理すんなよ」と言った。
「お前がやだったら、落ち合う時間までこうしててもいいんだ。葉月も紫苑も、分かってんの知ってるだろ。車に帰ってもいいぜ」
 梨羽さんは答えなかったものの、ほっとしたのか肩の力は抜いた。僕は聖樹さんの上着を貸そうかとも思ったけれど、僕にも譲れない恐怖があったし、そもそも張りつめた空気が所作もはばんでいた。
 聖樹さんがそういうことをされていたから、梨羽さんには聖樹さんが神様に近い。よく──ちっとも分からなかった。だったら、僕も梨羽さんの神様に近いのか。それはなさそうだ。聖樹さんには、僕に語っていない何かがあるのだろうか。
 僕はあの冷たい夜を思った。沙霧さんとの仲がなめらかになったり、XENONと知り合ったり、いろいろあって遠く感じられても、あれはたった数日前だ。聖樹さんに何か偽ったり、隠し通したりする様子はあったろうか。
 いや、なかった。そうであれば、僕も家での悲惨な凌辱は口にはしなかった。あれは、僕の最悪の切り札だ。
 聖樹さんの瞳がよみがえる。濡れた幼い瞳は、幼いのに深い傷をとうに持っていた。嘘をつらぬけない無垢に、その裂けめは痛ましく際立っていた。
 聖樹さんが僕を欺いたのはありえない。ならば、何が梨羽さんに聖樹さんを神様に近い存在にたらしめているのだろう。
 分かんないなあ、とじめついた暗い地面を見つめた。本当に、単にあのことなのか。だとしたら、なぜあのことが神様になるのか。あんなのは、神様なんて名誉ではない。
 僕は生まれて十四年で、あれ以上の屈辱は知らない。極限であるその屈辱を十年近く受けてきた。なぜ、あんなのが神様なのだろう。絶対違う。まるで天国でつかまった悪魔のあつかいだった。
 天使は上っ面を剥ぎ、無意味に僕を罰した。抑えつけて、犯して、笑って。終われば天使に戻り、常識に紛れこんだ。天使は僕が何かに駆けこめないのを知っていた。
“男が男に性虐待を行うわけがない”
“あったとしても戯れの産物だ”
“だからどうした”
 そんな、無知ゆえに美しい常識によって。穢されたなんて思いたくなくても、やっぱり、直後はみじめだった。あんなのは神様じゃない。むしろ、神様なんかいないという決定打にだって──
 突然、服をつかまれた。びくっとした。白い手が僕──聖樹さんのジャケットをつかんでいた。
 梨羽さんだった。梨羽さんは帽子のつばの下で僕を見ていた。
 要さんも面食らっている。僕も梨羽さんを見たけれど、瞳がぶつかると梨羽さんはうなだれた。
 手は離さなかった。聖樹さんの服だからか、僕を悪い追想に追いやらないためか、どちらなのかは分からずとも、それで僕がもう自己憐憫に落ちこまなかったのは確かだった。
 僕に、聖樹さんのジャケットに触れていて、梨羽さんの震えは次第に収まっていった。暗闇に慣れた瞳で、要さんが優しくほっとしたのが見取れる。
 梨羽さんは手を放し、その手で顔をくしゃくしゃにこすった。要さんは梨羽さんの背中をぽんとして、「行くか」とうながす。梨羽さんはかすかにうなずいた。腰を上げた要さんは梨羽さんを立たせ、僕も立ち上がる。
 梨羽さんの背中を押しながら、要さんは初めて僕に柔らかい笑みをした。口先より感謝がこもっていた。
 そのあとは、さっきの繰り返しだった。待ち合わせの二十三時を計り、二十二時頃まで持久戦の宣伝は続いた。要さんはさりげなく僕を守り、梨羽さんもそばについていてくれる。二十三時をわずかにまわった時刻に、僕たちは車に帰った。
 悠紗たちはまだだった。「疲れた」と要さんは運転席に引っくり返り、梨羽さんは隅っこに小さくなる。僕もシートに沈んだ。
 疲れた頭にかすめたのは、背後に怯えるのを忘れていたのと、路上駐車で車を持っていかれなかったことだった。
 梨羽さんは、再び小さく震えている。車内は静かで、ヘッドホンが音楽をもらしていないのに気づいた。
 あとは帰るだけだ。僕は上着を脱ぎ、梨羽さんにそろそろとかぶせた。
 梨羽さんはびくんと硬くなった。僕は慌てて、「聖樹さんのなんです」と口ごもりながら言う。梨羽さんは徐々に硬直をとき、上着の中に閉じこもった。
 そのとき、助手席のドアが開く。
「トランク開けて」
 葉月さんだった。要さんが操作ひとつでトランクをあけると、葉月さんの前のドアを開けっぱなしにしたまま、今度は僕の右手の後部座席のドアを横に引く。
「ごめん、ちょっと預かってて」
 おろされたのは、眠りこんだ悠紗だった。
 そうだよなあ、と思う。半日この街を歩いていて、夜更けに睡魔を逃げ切れるわけもない。
 そっと悠紗を抱き上げて膝に乗せた。幼い軆と子供の高めの熱が伝わる。疲労を含んで熟睡する悠紗は、弛緩していた。人形みたいに肢体を伸ばし、ぐったりと体重をかけてくる。
 僕は悠紗の艶々した黒髪に頬を当てた。悠紗の腹部は、寝息に合わせて上下している。
 トランクをごそごそやった葉月さんと紫苑さんは、間もなく車内に帰ってきた。葉月さんは助手席に、紫苑さんは僕の右に来る。
 葉月さんは悠紗を抱くのを変わろうかと申し出たけれど、無理な体勢で悠紗を起こすのも可哀想で、「平気です」と答えた。「っそ」と葉月さんはシートにもたれる。
「そっち、ノルマ終わった」
「何とかな。お前は」
「まあやりましたわ」
「……疲れた」
「明日もあるよ」
「………、誰も来なくてもいいかも」
 葉月さんは笑い、「インディーズ失格」という。
「梨羽は──あーあ、またあんなになっちまって。お前休ませた?」
「休ませたって」
 要さんがエンジンを入れ、車全体が振動しだす。
「今日、人多かったもんな。梨羽にしちゃよくやった。おにいさんが褒めてやろう。って聞こえてないか」
「お前ひとり変わんねえな」
「アホ。むちゃくちゃ疲れてるよ。これは性格じゃ」
 要さんは笑い、車を発進させた。僕も微笑んでしまっていた。要さんと葉月さんの会話は聴覚にこころよい。
 ギターを抱く紫苑さんは、シートに背中を預けて流れる景色を見、梨羽さんは聖樹さんのジャケットの中で静止している。何を考えているのか分からないふたりにはさまれ、ずりおちそうになった悠紗を抱きしめ直した。
 眠気に潤びる脳は、脈絡なく考えた。今日はすぐ眠れそうだとか、夢を見るヒマもなさそうだとか、そんなのは初めてだとか。
 僕は呼吸にだって疲れていたのに、今になってこの一日の動力が信じられない。要さんと梨羽さんがいて、ひとりではなかったせいだろうか。
 聖樹さんはどうしてるかな、とも思う。悪い状態にはまらなかったのを祈りたい。そんな思考で眠りこみたいのをこらえ、要さんと葉月さんの軽快な会話に耳をかたむけていた。

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