遅く起きる朝
翌日は、昼前まで寝坊した。何度か物音に熟睡を微睡みに引き戻されつつ、脳と軆は、疲れを癒そうとなかなか睡魔を追いはらわない。
手足を鈍く動かして、埋まる重い頭をのっそりと出すと、室内はひかえめに陰っていた。カーテンが引かれ、もれる光の粒子がその影に踊っている。弱い光は刺激が少なく、寝起きの眸子にはよかった。
何か食べ物の匂いと、キッチンのほうで音もしている。話し声はしなかった。起きてそこで料理しているのが、聖樹さんなのは知っている。悠紗は眠っているのだろう。
昨日は僕も、あの四人だって疲れていた。僕はまくらに顔を伏せ、睡魔をこしだすのに集中する。
いつもの疲れとは違うのは、変わらない。僕は疲れたら、それに取り憑かれて落ちこみ、全部が嫌になって死にたくなっていた。今はそれがない。
疲労が内的ではなく外的だからだろう。半日歩きまわれば、誰だって疲れる。これは“普通”の疲れだ。
どうして、その疲れに細い神経が耐えられたかというと、要さんと梨羽さんがいてくれたからだろう。あのふたりがいて、心は凪いでいた。ひとりだったら、軆が心に及んで滅入っていたとしても、ふたりのおかげで心まで疲れていない。たぶん、それがいつもと違うのだろう。
今日もついていくのは、辞退したほうがよさそうだ。僕の精神はそう甘くない。調子に乗っていれば、しょせん僕には普通の人とのひずみがあるから、最初は“差”でも、いずれ“距離”となる。
少しずつ、したほうがいい。昨日あんなにやって、こんなにいい状態を保っているだけでも進歩だ。
ふやけた思考が澄んでくると、ゆっくりと起き上がった。だるい頭をもたげ、時計を見上げる。十一時前だった。
昨日帰ってきたとき、一時をまわってしまっていた。飛ばして帰るつもりが、大通りで渋滞に引っかかったのだ。聖樹さんは起きて待っていてくれたけど、さほど会話した記憶はない。着替えや寝支度をしたら、めずらしくすぐ眠ってしまった。
十時間近く寝た計算になる。死にたくはなっていないとはいえ、軆はそうとう疲れていたようだ。やはり今日は、ここで休んでいるほうが賢い。
「おはよう」と呼びかけられて振り向く。聖樹さんがテーブルの近くにいた。「おはようございます」と鈍いろれつで僕は返し、聖樹さんはくすりとする。
「起きて大丈夫?」
「え、あ──はあ。いっぱい寝ました」
「そう。横になってるのが楽だったらそうしてて。疲れてるんだし」
「あ、いえ。平気です」
ふとんを降り、寝ぼけてもつれそうになった脚を止めて、立ち上がった。聖樹さんはふとんを片づける僕の後ろを通り、「開けていい?」とカーテンに手をかける。
僕がうなずくと、部屋には光が満ちた。僕を気にして閉めててくれたんだろうなと申し訳なくなる。
「今日晴れてるし、ふとん干さない?」
「あ、そう、ですね」
たたみかけたふとんを抱える。ベランダには洗濯物があふれていた。眠い頭で洗濯する物音を聞き、昨日一日じゃしきれなかったんだなと思ったのを思い出す。
聖樹さんはガラス戸を開けて、敷きぶとんを受け取ると、ベランダに出た。かけぶとんと毛布を抱く僕は、入口に立って陽光に目を細める。
「今日も、この天気じゃ行くかな」
聖樹さんは、手すりに敷きぶとんをふたつ折りにしている。
「あの四人」
「そう、でしょうね。昨日も行くって言ってました」
「そっか」
「今日は、聖樹さんも行くんですよね」
「うん。四人との時間も取りたかったし、悠も行く気だし」
「え、悠紗──」
「起きてるよ。さっきお風呂も入ってた。萌梨くんの邪魔したくないって、あっちのベッドでごろごろしてるんだ」
「そうなんですか。ごめんなさい」
「ううん。これ干したら、呼んであげなきゃ。萌梨くんはどうする? 行く?」
「僕、は──休んでます。二日連続は軆が持ちそうになくて」
「そう。まあ、無理は禁物だね。悠はごねるかな」
聖樹さんは咲って、留め具に手を伸ばす。
陽光に溶けそうな、聖樹さんの薄い色素の髪を見つめた。夕べは疲れて訊く余裕はなかった。聖樹さんこそ、昨日ひとりで大丈夫だったのだろうか。
敷きぶとんを留めると、聖樹さんはこちらを向き、僕はかけぶとんを渡す。
「萌梨くんも、あとでシャワー浴びたらいいよ。お風呂も沸いてるし」
「あ、はあ」
「あの四人も、行くんだったらそろそろ起きてるね。また昼ごはん作らされるのかな。誰か恋人でも作ればいいのに」
「あ、いないんですか」
「いない、と思う。あ、ここじゃなくて、ほかのところにいるのかな。そんな話しなくて」
「しないんですか」
「うん。僕が奥さんとダメになったの、気にしてくれてるみたい」
恋人、と神妙になって毛布を抱え直す。
XENONの四人をひとりずつ思い返す。梨羽さん、は恋愛をする念頭もなさそうだ。紫苑さんは恋愛に興味がない感じに見える。要さんは女の人と関係するのは好きそうでも、そこに真摯なものを交えそうにない。葉月さんは、軆だけであれ恋愛であれ、軽く済ましそうだ。
結局、XENONの四人には、恋愛に結びつく要素がなかった。
「梨羽さんって、恋愛の歌は歌うんでしょうか」
「え、いや──聴いたことない。どうして」
「歌手の人って、よく恋愛を歌ってますよね」
「ああ。梨羽の歌詞は、自分についてか、社会を罵るかだよ。最近は自分についてが多い。梨羽って自分が狂ってるのかみじめなのかにいつも悩んでて、それについてよく歌う。そういうタイプの歌詞は、梨羽が歌いはじめた頃からいくつも書かれてるよ」
「狂ってる、か、みじめ」
「梨羽は狂ってるのを望んでる。歌聴けば分かるかな」
僕は二回聴いたきりのXENONのアルバム、『EIRONEIA』の梨羽さんの悲痛な歌声を思い返す。そういう歌詞もあった。
あの暴力的な悲鳴と、昨日路地裏で震えていた梨羽さんは、どうしてもつながらない。そんな話になれば、ほかの三人にも音楽をやっている雰囲気は微塵もない。ギターと片時も離れない紫苑さんすら、音楽の匂いはしない。やっぱり変なバンドだ。
すらりとした手が、手際よくふとんを留める。僕がさしだした毛布を「ありがと」と受け取ると、聖樹さんは奥に行く。
「梨羽は、歌って気持ちよくなりたいんじゃないんだよね。紫苑が作った曲でイメージして、ぐちゃぐちゃの心の景色を映す。だから、歌うのが嫌いなのかな。自分で自分に情けなさを見せつけることだし」
「昨日、要さんも梨羽さんには歌は自虐って言ってました」
「仲間だね。うまく言う」
聖樹さんは微笑すると、毛布の皺に手を伸ばす。
聖樹さんが梨羽さんの神様に近いという話を思い出した。でも、僕が踏みこむ問題ではないのかもしれない。それは聖樹さんの傷ではなく、聖樹さんと梨羽さんのあいだの問題だ。他者が詮索するのは失礼になる。
無礼を避けて好奇心を抑えたとき、聖樹さんがこちらに戻ってくる。僕はひとつ気になっていることは訊いておいた。
「聖樹さん」
「うん」
「昨日、大丈夫でしたか」
聖樹さんは僕を見つめると、緩く微笑んだ。「そんなヒマなかったよ」と僕の肩に手を置き、部屋に後退させる。僕はその儚げな様子に懸念したくなったけど、聖樹さんがそう言うのなら信じるしかない。
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