風切り羽-47

朝食のひととき

「萌梨くんは?」
「僕は、大丈夫です。みんなが聖樹さんの友達なのも、何か分かりました」
 ガラス戸を閉め、聖樹さんは今度はきちんと微笑んだ。
「梨羽はどうだった?」
「いてくれました。要さんも」
「そっか。よかった」
 聖樹さんはレースカーテンを閉めると、僕を中にうながす。
「悠、呼んでくるよ。萌梨くんは顔でも洗ってて。ドライカレー作っておいたんだけど、食べれそう?」
「はい。もらいます」
「じゃあ、用意しておくね」
 聖樹さんは一笑して寝室に向かう。僕もそのドアを追い越して、洗面所に行った。悠紗の声はすぐに半開きの引き戸に聞こえてきた。
「あれ、萌梨くんは?」
「顔洗ってる。ごはんの用意手伝って」
「はあい」と悠紗の足音は素直に遠ざかった。
 元気だなあと思った。悠紗は、確かに今日も宣伝活動に参加できそうだ。あれが本来の健康な精神力なのだろう。
 手に水を溜めた。水道水はきんとしていて、指先を痛めつけるようになる一歩手前だ。その冷水を顔にかけ、まぶたで守りたくなる重たさが眼球になくなると、水道を止めて顔をタオルで拭いた。
 鏡を見そうになり、疲れが出ていたら怖かったので、やめてタオルを置いてリビングに戻った。
 昼食のドライカレーは、悠紗のぶんはオムライスにしてあった。悠紗は、喜んでケチャップをかけて食べる。聖樹さんと僕は、普通に盛ったドライカレーだ。「悠と同じがよかった?」と訊かれ、「いえ」と僕は苦笑いして、スプーンでドライカレーをすくう。
「今日は、おとうさんも梨羽くんたちについていくんだよね」
「そのつもり。スタジオとかいいのかな。セットリストも聞いてない。宣伝しなくても、お客さん来るだろうにね」
「葉月くんはね、帰ってきたらご挨拶するものなんだって言ってたよ」
「そういうとこ、律儀だよね。悠は今日も行って平気? 無理して、軆壊したら怒るよ」
「平気だよ。昨日、途中で寝ちゃったしなあ。謝んなきゃ」
「みんな気にしてないよ」
「そおかな。萌梨くんも行くでしょ」
「え」と僕は動きを止める。ふくむドライカレーを飲みこんでも口ごもっていると、聖樹さんがこちらを一目して、「萌梨くんは今日はお休みしてるんだって」と代弁してくれた。「えー」と悠紗は心外そうな声をあげる。
「行かないの。あ、行けないの? 昨日疲れちゃった?」
「ううん。その、今日はよくても、続けてやってたら疲れそうで」
「………、今日は萌梨くんと一緒になろうと思ってたのになあ」
 惜しそうな悠紗に、僕は自分の弱い精神に罪悪感を覚えた。うつむくと、「わがまましないの」と聖樹さんが悠紗をたしなめる。
「だって」
「行くかどうかは、萌梨くんが決めることだろ」
「萌梨くんいたほうが楽しいよ」
「だからって、悠が命令することじゃないの。最後のライヴでもないんだし。次にしなさい」
「次っていつ?」
「いつか来るよ。それとも、萌梨くんが軆壊してもいいの?」
 悠紗はふくれたものの、それはすでに演技だったようだ。「次は約束ね」と素直に譲歩してくれた。僕はこくんとして、けれど、ふと胸に黒雲を覚えた。
 次。次のとき、僕はここにいられているだろうか。
 あそこに連れ戻されていなければいい。いや、万一そうなっても、隙をついて逃げてここに帰ってこればいい。僕はもう、無能力者ゆえに虐待に服従しなくてはならないわけではない。
「今年の終わりに、“EPILEPSY”じゃないのやらないかな」と悠紗は言って、「するかもね」と聖樹さんは答えている。今年の終わりくらいだったら何にも起こってないかな、と僕はドライカレーをすくった。
 昼食が終わると、聖樹さんは食器を洗って、悠紗と僕は閑談した。昨日別行動を取ったので、交換しあう話題はたくさんあった。梨羽さんが落ちこんだことに悠紗も心配そうにしたり、葉月さんがハンバーガーを食べながらやっていたという真偽を確かめたり、鉢合わせなかったのを残念がったりする。そうしていると、間もないうちにインターホンが鳴った。
 ぞろぞろとやってきたのは、XENONの四人だ。要さんと葉月さんの髪はやや湿っていた。梨羽さんはコンポの片隅に落ち着き、紫苑さんは奥のガラス戸にもたれる。決まった席であるらしい。
「昼飯あてにして来ました」と葉月さんにはっきり言われ、聖樹さんはため息をつきながら、二度目の昼食作りに取りかかった。テーブルのそばに座る悠紗と僕のそばに、要さんと葉月さんは腰を下ろす。
「髪濡れてるね」
 悠紗に言われ、「シャワー浴びたのさっきだもんな」と葉月さんは自分の髪に触れる。要さんはこめかみを揉み、「眠い」とぶつぶつしている。
「君の寝起きの悪さは、何年経っても変わらんな」
「るせえな」
「居眠り運転で、俺たち殺すなよ」
「だったら、自分で免許取れよ」
「今度な」
「ふん」
 たぶん、葉月さんに免許を取る気はないのだろう。要さんもそれを承知している。
「あのね、今日萌梨くんおうちでお休みしてるんだって」
「えっ。何で」
「昨日疲れたもんなー。適切だ」
 うなずく要さんに、「待てよ」と葉月さんが割りこむ。
「今日は、俺が引き取る予定だったのに」
「誰が決めた」
「俺に決まってんじゃん」
「萌梨の都合もあるだろ」
「俺にだってあるもん。ずるいよ、お前ばっか昨日一日じゅう」
「てめえはホモか」と要さんは頬骨をかすっている前髪をかきあげている。
「俺は蓮っ葉な美人との一発が大好きさ」
「はすっぱって何ー。いっぱつってー」
「蓮っ葉はただの死語。一発はいずれ、デリケートな聖樹にはとうていできない性教育で教えよう」
 焜炉に立つ聖樹さんが、息をついているのが見える。
「で、何。萌梨行かないの?」
 葉月さんは不服そうにして、僕はまた罪悪感を覚える。臆面しつつも、きちんと言っておいた。
「あとで疲れて、取り返しがつかなくなっても厄介ですし」
「繊細だねえ。それなんだよ。君って新鮮なの。俺、中坊の頃はとうにすれてたんで、そういう初々しいのはどうも──」
「汚して巻き添えにしたくなるなら、萌梨、来なくていいぜ」
「……はあ」
「葉月くん、あんまりわがまましたらおとうさんが怒るよ」
「え、聖樹」
「僕も怒られちゃった」
「そりゃ怖いな。ならば萌梨様、次の機会には是非」
 それにはうなずいた。「決まり」と葉月さんは誇らしげにして、要さんは肩をすくめる。
 新鮮、というのは本音だろう。この四人の周りに、僕みたいなおどおどした人間はいなかったと思う。といって、みんなこの性格をおもちゃにしたりはしない。だから、僕はこの人たちといられる。
 聖樹さんが作った食事は、トーストやスクランブルエッグだった。要さんと葉月さんだけでなく、聖樹さんは梨羽さんと紫苑さんにも皿を持っていく。ふたりはちゃんと受け取って、食べ始めた。
 聖樹さんは、梨羽さんの隣に座った。梨羽さんは不安を混じらせて眉を寄せ、聖樹さんを見る。「今日は僕も行くよ」と聖樹さんが言うと、聞こえたのか梨羽さんはこくんとした。
「来るんだ?」と言った葉月さんに、「邪魔なら遠慮するよ」と聖樹さんは言い返す。悠紗や僕へとは違う、友達への口調だ。
「冗談。んなのしたら、梨羽が怖いよ」
「よかった。そのために、一気に用事済ましたし」
「あー、来るんだったら梨羽と行動取ってくれよ。昨日異様に人が多くてさ、そいつ帰ってきてもがたがた震えてたぜ」
 要さんの言葉に、聖樹さんの眉や瞳は憂色する。
「そうなんだ。連れてくの?」
「ひとりにしとくのもな」
「そっか。うん、梨羽が僕といて落ち着いてくれるなら」
 聖樹さんは梨羽さんをいたわって見つめた。梨羽さんはその視線に気づいていないように、もそもそとトーストの面積を減らしている。
「今日もあのあたりに行くの?」
「いや、駅前」
「もうあそこは、フライヤーべたべたやって制覇したもんなー」
「今日は早めに切り上げるよ。明け方にまた昨日のあたりに行って、終わったパーティを攻める。俺たちだけでな」
 駅前かあ、と思った。だとしたら、どちらにしろ行けない。僕はまだあの夜を、わざわざ掘り起こすほど客観的に正視できない。
 隣に悠紗の気配がないのに気づいた。見まわすと、悠紗は紫苑さんの隣で、音楽のノートを広げていた。コーヒーをすする紫苑さんは、それを暗くすげない瞳で眺めている。
 けれど、悠紗が質問したりすれば、指でしめしたり、何かぼそりと言ったりはする。悠紗の音楽の先生は、基本的に紫苑さんであるようだ。

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