風切り羽-5

ささやかな安息

 そんなことを思っていると、「よし」と聖樹さんは手際よく僕の膝をガーゼでおおっていた。
「そっちは大丈夫?」
 問われて左を覗くと、こちらは平気だった。たぶん、とっさに利き脚で軆を支えたおかげだ。聖樹さんは僕に食事を勧めると、薬箱をしまいにいった。「大丈夫?」と訊いてきた悠紗に僕はこくんとする。悠紗は素直にそれを信じると、「食べよ」とテーブルについた。
 並べられた食事は、コンビニ製のサラダとフライドポテトだった。このあと悠紗も聖樹さんも寝るのだろうし、あんまり重いものは軆に悪い。そこで僕の心は陰った。そう、ふたりとも、じき寝る。拾いはしても、泊めるというのはありえない。ここにいられるのはいっときだ。食事が終われば、僕は再び路頭に迷う。
「これね、こうするとおいしいんだよ」
 悠紗はフライドポテトにケチャップをつける。僕はにこにこする悠紗を見つめる。さしだされた香ばしいポテトをもらい、今は先は考えず、気持ちを落ち着けようと決めた。聖樹さんは、そのために僕を拾ってくれたのだ。ケチャップつきフライドポテトは、おいしかった。
 キッチンで手を洗ってきた聖樹さんが、「できあいでごめんね」と謝ってくる。「おいしいです」と僕が答えると、聖樹さんはほっと微笑んだ。悠紗は香気と湯気を立てるフライドポテトを、爪楊枝に刺してかじっている。悠紗の正面に座った聖樹さんは、もうそれをたしなめなかった。
「おとうさん、明日はお休みなんだよね」
「そうだね。どこか行きたい?」
 悠紗は首を振り、「こないだ買ったゲームしてる」と言った。「そっか」と聖樹さんは複雑そうに笑む。僕は一歩引いて、親子の会話を眺めている。
「もうすぐエピレプシーがあるでしょ。来月、十三日の金曜日があるよ」
「そうだっけ。帰ってくるね」
「楽しみだな。久しぶり。夏にちょっとお休みに来ただけだもん」
「そんなになるかな。何か連絡あったっけ」
「ううん。みんな元気かな。あっ、でね、お掃除に行かなきゃいけないねって言おうとしたの」
「そっか。そうだね。来週頃、行こうか」
「うん」
 黙って酸味のあるプチトマトを噛む第三者の僕には、どういう会話か測りかねた。十三日の金曜日。に、帰ってくる。から、掃除にいく。何だろう。エピレプシー、という言葉も知らない。十三日の金曜日に帰ってくる、というのはどこか不気味だ。
 悠紗は聖樹さんとも対等に話していた。聖樹さんも悠紗を子供あつかいしていない。連続した会話を聞いていると、聖樹さんが親の顔をするのは、悪戯半分のときだけだと現れてくる。親には心を開きにくいものなのに、悠紗が聖樹さんに反抗も屈折もしていないのは、そんなやりとりを見ていると合点がいった。
 ふたりは、僕にも話題を振ってくれた。僕は慌ててうなずいたりしても、うまく波に乗れなかった。舌がもつれたり、語彙が見つからなかったり──僕には会話の経験がほとんどない。持っている話題もない。テレビも漫画も音楽も、いっさい楽しむ余裕がなかった。ふたりともそれを笑ったりせず、さりげなく自分たちの知識を分けたり、とどこおる言葉をつかんでくれたりする。こんな、温かい輪に入れてもらったことなんてなかった。無視か虐待だった。ずきずきしているぶん、ここの心地よさは胸のひりつきに浸透した。
 食事が終わると、悠紗はあくびを始めた。「寝る?」と聖樹さんに訊かれるとにぶくうなずき、歯磨きをうながされて、頼りない足取りで奥の引き戸に行く。陶器の洗面台が覗けた。聖樹さんはテレビの上方にかかる時計を見あげ、「親失格だなあ」と苦笑いする。一時になりそうだった。歯を磨いた悠紗はトイレにも行って、寝室のドアに入る前、「おやすみ」と僕に呼びかける。寝ぼけた口調に咲ってしまいつつ、僕は同じ言葉を返した。悠紗は聖樹さんに抱き上げられ、寝室に入っていった。
 残った僕は、冷めた玄米茶をすすった。荷物が目に入り、ため息がこぼれる。そろそろ現実逃避はおしまいだ。明日が休みとはいえ、聖樹さんも眠る。寝静まって家に他人を放っておくなんて、いよいよ非常識だ。カップを置いた。下がった視線が座卓の影をただよう。
 どうしよう。遠のいていた危機感が迫ってくる。そうだ。僕は修学旅行の最中にホテルを逃げ出してきた。けっこう大それたことをやらかしてしまった。単なる家出より、迷惑も大きい。だけど──。脳裏に部屋での出来事がよぎり、息が苦しくなる。
 仕方なかった。こうせずにはいられなかった。大勢に抑えこまれ、笑われながら、さんざん軆の中を──。あふれかけた涙に唇を噛む。どうやって、あんな陵辱に耐えろというのだろう。いつか僕は、こうして逃げ出していた。逃げたことに後悔はない。
 ただ、連れ戻される確率が高すぎる現実に愕然としている。逃げるのが早すぎたのか。僕にしたらじゅうぶん遅すぎだ。あんなこと、本当は何もないうちに逃げ出すべきなのだ。一回だけでもぼろぼろになるのに、何回されたか分からない。なぜ義務のごとく連れ戻されなければならないのだろう。帰りたくない。でも帰らされる。あんなところにはいたくない。重すぎる侮辱に死にたくない。どうすれば、今日みたいに助かるのを当たり前にできるのだろう──
「萌梨くん」
 突然降りかかった声に、びくっと顔をあげた。心配に曇った、ガラス越しの優しい目と目が合う。
「あ……、」
「どうしたの」
 何秒かかけて、それが聖樹さんだと悟った。悟ったら、震えがちなため息があふれた。「大丈夫?」と聖樹さんは僕のかたわらに腰をかがめ、僕は謝る。聖樹さんは僕の謝罪は制し、一考すると、「君が何に苦しんでるか分からないけど」と言葉を選ぶ。
「今はここにいるんだ。何か来ても、僕が玄関で追い返すよ」
 聖樹さんを見つめた。「えらそうかな」と聖樹さんは微笑み、僕は緩くかぶりを振って、睫毛を不明瞭に下げる。聖樹さんは僕の頭に手を置くと、空になった食器を片づけにいった。今はここにいる。聖樹さんの言葉は確かで、僕は肩の力を抜けた。
 キッチンにいる聖樹さんの背中が覗ける。脚を崩し、コンポを漠然と眺めた。水音がしている。スウェットの裾を握った。
 聖樹さん。悠紗。いい人だ。胡散臭い僕に親切にしてくれる。迷惑をかけるのは忍びない。いくらここが心地よくても、ここは僕の居場所ではない。苦しくても僕の居場所はあそこだ。あの街、あの教室、あの家が僕の帰る場所だ。どんなにそこが耐えがたい地獄でも、僕が子供で、無能力だからだ。法律、学校、血縁、そういうものには勝てない。勝てないかぎり、聖樹さんにも悠紗にも、僕がここにいるのは迷惑になる。
 帰るべきだ。少なくともこの部屋は立ち去るべきだ。かばんを抱え、「ありがとうございました」と頭を下げ、良ければあの一万円でも渡し、後腐れなく出ていく。聖樹さんと悠紗の記憶には、ひと晩限りの変な客、で留まり、数日後には忘れられる。それが筋だ。僕はここの人間ではない。ここにいたら害になる。出ていかなくてはならない。そして行き倒れて死ぬか、あの場所で心を壊すかだ。僕にはそのふたつだ。ここにいるなんて選択は、非望だ。
 かばんに手を伸ばそうとしたとき、聖樹さんがリビングに戻ってきた。僕の前に湯気の立つカップを置き、自分もカップを置いて、腰をおろす。帰ります、と言おうとしても、「いらなかったかな」という聖樹さんに何にも言えなくなる。甘えた卑怯で首を横に振り、手も引っこめてしまう。
 考えごとで喉も渇いていたし、ひとまずその熱いお茶をもらった。聖樹さんが、こちらを見つめてくる。僕がとまどった顔をすると、聖樹さんは自分を嗤うような笑みをして、眼鏡を外してテーブルに置いた。「いいんですか」と訊くと、「伊達なんだ」と答えられる。見ると、眼鏡のレンズは向こうをゆがませていない。聖樹さんは、僕のと同じ香りを立てるカップに品よく口をつけた。
「びっくりしたな」
「え」
「悠が一面識もない君に懐いたの」
「はあ。え、そういう子じゃないんですか」
「うん。あの子は自分の波長に合わない人──物でも場所でも、すごく拒否するんだ。特に、集団行動は苦手っていうかできない。保育園に行きはじめてずいぶん経っても、毎朝泣きわめくぐらいで」
 悠紗を思い返した。そんなふうには見えない。たくさん友達を持っていそうだ。
「あの子が何か悪いわけではないんだ。僕が言ったら親バカかな、あの子は人の気持ちに鋭くて」
 それには僕も首肯する。
「相手の気持ちを害さないように気を遣うんだ。相手が気持ちを隠して顔で咲ってても、あの子は目じゃなくて心で人を見る。で、見た目と中身が一致しないことに混乱して、だんだん疲れてきて、最後には人を信用する努力を捨てちゃってね。今のあの子は、直感で何でも決める。直感が働けば信用するんだ。無神経になれない代わりに、残酷なところはあるよ」
 カップを手のひらで包み、「見えないですね」と正直に告白した。「僕もだよ」と聖樹さんは咲う。
「あの子に心を開いてもらった人間は、残酷な面にははっとする」
「僕、開いてもらえたんでしょうか」
「開いてなかったら、あの子じゃなくても君より眠気を取ってるよ」
 僕は咲ってしまう。
「僕もびっくりしました。子供がいるとは思わなくて」
「ああ。よく言われる」
「おいくつなんですか」
「今年で二十五かな」
 二十五。思ったより高い年齢だが、若いのは若い。
「じゃ、悠紗は」
「こないだ六歳に」
「六歳、と二十五──」
「十九のときの子だね」
 僕は息を飲みこむ。十九。十代。
「早い、ですね」
「うん」
 母親はどうなのか、気にはなった。離婚。別居。死別。あるいは、単なる旅行。臆測は巡っても、質問はしなかった。さっき知り合った僕が立ち入る領域ではない。ただ、よく見ると聖樹さんは結婚指輪をしていない。
「萌梨くんは何歳になるの」
「あ、十四です」
「中学二年生」
「はい」
 聖樹さんはお茶をすすり、言葉をいさよわせた。眼鏡がなくなり、表情が窺いやすくなっている。「何ですか」と切っかけを作ると、聖樹さんは言いよどんで、カップを置いた。

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