風切り羽-51

溝を埋める【1】

「兄貴たち、出かけたんだよな」
「あ、はい」
「どこ? 買い物?」
「駅前に。みんなと」
「みんな」
 沙霧さんはリビングルームに入る。僕は水切りの食器を一瞥しながら追いかける。
「梨羽さんとか」
「あー。え、ライヴ」
「いえ、宣伝というか。チラシ配ったり、ポスター貼ったり」
「はあ。そうか、あの人たちってメジャー出てないもんな」
 脱いだジージャンをクッションに放る沙霧さんの口調は、他人事という感じだ。沙霧さんはあの四人と親しくないのだろうか。
「あんたは行かないんだ」
「昨日は行ったんです。今日はここで休んでおこうって」
「そ」と沙霧さんはクッションのそばに座る。僕は座りこむ前に、山になっているふとんをたたんだ。
「あの四人って、どう?」
「えっ。どう、って、おもしろいですよ」
「おもしろい、ねえ。俺、しゃべる機会ないんだよな。興味はあっても近寄りがたいし」
「そう、ですか。要さんと葉月さんは楽しいですよ」
「あ、ああ。まあ、いろいろと」
 いろいろ。要さんと葉月さんに、いろいろあるのか。
 気になっても、沙霧さんが触れてほしくなさそうだったので、黙って毛布をたたんだ。質問を構えたのか沙霧さんも黙っていたけど、僕が受け流したのを察すると少し咲った。
「なあ」
「はい」
「それ、やめてくれない?」
「は?」
「それ。敬語。そんなに、歳、変わらないんだろ。いくつ」
「十四、です」
「受験生」
「二年生です」
「四つ、か。まあいいよ。俺、敬語使われるほど大層でもないし、何かくすぐったいし」
「……はあ」
「萌梨、だよな。名前」
「はい」
「じゃ、俺もそう呼ぶよ。『あんた』じゃえらそうだもんな。いい?」
 それには首肯できた。が、「俺の事は沙霧でいいよ」という意見にはとまどった。
 沙霧。呼び捨て。できない、と狼狽えていると、沙霧さんは噴き出す。
「じゃ、悠と同じは?」
「悠紗、は──」
「くん、だな」
 沙霧、くん。それも言いにくそうだ。沙霧さん、と呼ぶのに慣れてしまった。いや、本人に向かってそう呼びかけたことはないけど。
「きつい?」
「………、年上、ですし」
「俺は気にしないぜ。どうせ、悠よっかガキだしな」
 そうかな、と僕は毛布をまとめた。沙霧さんは大人だと思う。本当に“ガキ”だったら、悠紗は相手にしないだろう。
「萌梨って、敬語が楽? なら文句言わない」
「え、いえ、そういうのでも」
「だよな。悠にはタメ口で呼び捨てだっけ。何で」
「………、呼び捨ては、そう呼べって言われたんです。逢った日に。敬語じゃないのは、何か、……何となく」
「じゃ、悠にぐらい俺に慣れたら敬語やめてよ。敬語話すのが変になったら。俺には簡単に打ち解けられないよな」
 打ち解けるかどうか分からなくても、ただちにやめろというのよりはよかったので、うなずいた。
 片づけたふとんを隅にやると、キッチンを見る。食器を拭く予定だったが、ここでしたら婉曲な拒絶と思われそうだ。後まわしを選び、沙霧さんのそばにそろそろと座った。
 沙霧さんは僕を見つめる。沙霧さんの直視は、聖樹さんとも悠紗とも違う風合いがある。
「萌梨は、あの四人と仲良くなったんだ」
「あ、まあ──要さんと葉月さんは構ってくれます」
「そっか。歌、聴いたことある?」
「CDでなら」
「すごいよな。俺ライヴ行ったことあるけど。ああいうのやってる人と兄貴が友達なの、信じられないや」
「やってる音楽ほど、激しい人たちじゃないですよ」
「まあ、な。でも、梨羽さんとかあれでいきなり暴れ出したりとかしそう」
「しない、と思いますよ」
「そう?」
 梨羽さんの引きこもりは、そういうふうに思われているのか。無理もない解釈ではある。閉じこもった梨羽さんと、マイクの前の梨羽さんを結びつけるには、躁鬱病みたいなものしか思い浮かばない。
「ライヴにはよく行くんですか」
「いや。兄貴が行けないとき、代打の保護者で」
「好きとかじゃないんですね」
「嫌いでもないよ。サイコミミックとか好きだし」
「サイコ──」
「ミミック。知らない?」
 考えてみて、僕はこくんとした。サイコミミック。その言葉からして聞いたことがない。
「流行ってるんですか」と訊くと、「そこそこ」と返された。バンドだろうか。最近はアイドルグループやタレントの集まりでもCDを出したりしているみたいなので、ぱっと聞いて正統のバンドとは決めつけられない。訊いてみると、「普通のまじめなバンド」と返された。
「ロックはロックでも、梨羽さんたちよりは聴きやすいかな」
「はあ」
「萌梨はいないの? そういう、好きなの」
「あ、はい。梨羽さんたちが初めてです」
「興味なかったんだ?」
「です、ね」
 どちらかといえば、興味を持つ余裕がなかったのだけど、別に沙霧さんに告白することでもない。半眼になった沙霧さんは、「兄貴もそうだよなあ」とつぶやいた。
「えっ」
「兄貴。兄貴も、あの四人の音楽以外には何にも興味しめさないんだよな。映画とか本とか。萌梨はそういうのは」
「……分からないです」
「兄貴もなんだよな。あの四人だって、音楽っつうより友達としてつきあってんだし。一緒に暮らしてた頃の兄貴の生活って、どっか機械的だったよ」
 僕にはその答えが分かってしまい、口をつぐむ。僕も向こうでは、普通をする、という機械的な生活を送っていた。
 沙霧さんは立て膝に頬杖をつくと、「萌梨はここにずっといるんだよな」と言った。
「ずっと、って」
「ここに来たときから、今まで。ここ、離れてないだろ」
「まあ、はい」
「そのあいだに、誰か来たりした? 兄貴の会社の友達とか。恋人でも」
「いえ」
「遅くなったりは」
「仕事でたまに」
「携帯いじってるとかは」
「ないです」
 沙霧さんはため息をついて、仏頂面になる。
 そういえばそうだな、と僕も思った。あの四人のほか、聖樹さんに親しい人の影はない。もちろん僕はその理由は分かるけれど、沙霧さんは聖樹さんのことを知らない。不可解さに心配になるのも分かった。
「うちの親はさ、兄貴があの四人とつきあうのにいい顔してないんだ」
「そう、なんですか」
「うん。あの四人──特に要さんと葉月さんは札つきだろ。ただワルってんじゃなくて」
「です、ね」
「うちの親は普通だし、いろいろ心配なんだよな。兄貴が何かされたり、感化されたりするんじゃないかって。そういう奴とつきあって恥ずかしくないのか、とかもあるし」
「沙霧さんは、聖樹さんがあのふたりとつきあっててもいいんですよね」
 沙霧さんは噴き出した。面食らった僕に謝り、「『沙霧さん』かあ」とつぶやく。
「似合わねえな、俺には。ま、いいや。うん、俺は構わない。知ったときはヒイても、兄貴に友達ができたっていうのにほっとしたのが大きかった。兄貴自身が友達って認めたのを信じられたよ。でも、萌梨は怪しかった。ごめんな」
「いえ、僕も自分で思ってました」
「はは。兄貴がさ、何も説明しないのに、親には預かってるの黙っててくれとか言うんで。余計勘繰っちまった」
「あ、親──」
「言ってない。正直、言おうかとも思ったよ。兄貴の言うこと破るのも嫌だったんだ」
 安堵の息をつく。その落とし穴には、初めて気づいた。聖樹さんの親に僕の存在が知られるのは、どう考えてもまずい。
「萌梨は、何かあって家には帰りたくないんだよな」
 ふとまじめな口調になった沙霧さんに、僕は目を向ける。
「ぜんぜん他人の兄貴にすがりつくのがマシなぐらい。悪く思ってるよ。俺、萌梨を悪いとこに押し返すみたいなこと言っちまって」
「平気です。その、知らなかったんですし。常識では、他人の家に逃げこんだりしないですよ。僕のほうが変なのはほんとです」
 それでも沙霧さんは、心苦しそうに咲う。
 敵意や不快といった壁のない沙霧さんは、ようやく僕の心を綻ばせる。聖樹さんや悠紗、あの四人に対するのと通じるものも流れる。怖がらなくても、この人は僕を踏み躙った人たちとは違う。
「俺も、自分で神経質なの分かってんだよな。兄貴のこと、ほっとけないんだ。頼りなげだろ。ちゃんと父親できてんのかとかも思うし」
「おとうさんは、できてると思います」
「うん。悠には兄貴がいればいいんだ」
 沙霧さんは立て膝を伸ばした。レースカーテンに漉された緩い光が、褪せたジーンズにかぶさった。
 兄貴がいればいい。どこか冷めた言い方だ。

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