溝を埋める【2】
「前はさ」と沙霧さんはジーンズの生地に触れる。
「こんなに世話焼いてなかったんだぜ。兄貴があの女と会ったあとに、ほっとけなくなったんだ」
僕はどきりと沙霧さんを向く。
あの女。沙霧さんはこちらを見返し、「悠の母親な」とつけたす。
「あの女と兄貴が別れて、もうあんな奴が兄貴につかないようにって。今は悠がついてて、兄貴も自分より悠の視点に重いもの置いてんだけどさ。悠があんなに人を見極めるのがうまいのは、絶対に兄貴のためだよ。兄貴がまた騙されたりしないようにするため」
「何か、悠紗が赤ちゃんのときにダメになっちゃったって」
「兄貴が」
「悠紗です。それでここに越してきたって」
「そうだな。兄貴があの女とダメになった理由は、俺も親も知らないんだ。ひとつ知ってんのは、兄貴と別れたあと、あの女がほかの男とどっか行っちまったこと。それが理由でもなさそうだったぜ。兄貴は平然としてたし。あの女が兄貴の生活を引っかきまわしていったのは事実だよ。よかったことなんか、悠ができたことぐらいだな」
いささか申し訳ない気持ちになった。聖樹さんが奥さんとダメになった理由は、僕は一部なら聞かせてもらっている。聖樹さんは、性生活に支障をきたしたと語っていた。
「俺は、最初から最後まであの女は好きじゃなかったんだ。嫌な女だったぜ。媚が日常になってる女で、何で兄貴があんな女を恋人にしたのか、いまだに分かんねえな」
奥さんの人となりは僕は知らないので、「はあ」とぽかんとした返事しかできない。そんな僕に沙霧さんは少し咲った。
「萌梨のことは兄貴たちが心配なんで疑ってた。あの女は違う。あいつ自体が怪しくて嫌いだった。萌梨は疑っても嫌いではなかったよ」
素直にうなずく。悠紗も言っていた。あのときは信じられなかったものの、屈折を抜きにして接している今では信じられる。
「あの女も、俺と同じだったよ。あっちも俺を嫌ってたんだ。でも俺は弟なんで、取り入ろうとにこにこしてきた。兄貴があいつに取りこまれてくのがやだった。兄貴は、俺があの女を嫌うのにとまどってたよ。『何でも言っていいよ』って言われて、別れてくれって言いたかったけど、兄貴があの女を俺たちに紹介したのは悠ができたあとだった。言えなかったよ。どっちにしろ『私が悪いの』とかってあの女が割りこんできてたか。今は悠のこと好きでも、あのときは何でできたんだって逆怨みもした。兄貴が見てられなかった。学生のくせに家を出てあの女と暮らし出して、十代のうちに子持ちになってさ。悠ができたのは俺が小六のときだよ。で、中学に上がって、バカバカしいみたいな情けないみたいな気持ちがぐちゃぐちゃになって、俺は生活が壊れたことがある」
中学時代、沙霧さんにはいろいろあった。聖樹さんも話していた。理由は知らないと言っていたっけ。その聖樹さんこそが、暴発の理由だったのか。
「俺が要さんとか葉月さんのこと何にも言えないのって、その頃のせいかもな。むちゃくちゃやったよ。煙草も酒も女も当たり前。無免でバイク乗りまわすわ、引ったくりやるわ、くだらねえことでリンチやるわ、当然家なんか帰らなかった。パイプとかまわし打ちもやった。ハマる前に更生したけど」
まわし打ち、のところで世間知らずに僕が首をかたむけると、「覚醒剤だよ」と沙霧さんは説いた。僕はやっとどきりとして、息を詰める。
「親は持て余してたし、兄貴が構ってくれようとするのもはねつけてた。あの女の香水を服に染みつかせてさ。たまんねえよ。あの女と兄貴が別れて、理性も戻ってきた。兄貴にも、あの女が嫌いだったのを話したよ。で、このぐらいに落ち着いたんだ」
僕は、膝の上の手の指先をもてあそばせていた。
何だか、奇妙に感じていた。僕はひとりっこなので言い切れなくても、兄弟の絆とはそんなに強いものだろうか。自分が敵対する人と大切な兄が結ばれたのが癪なのは分かる。けれど、その事実に捨て鉢になり、破滅に突っ走るのはさすがに分からない。
兄弟間に、そうした身をかけた執着が存在するのだろうか。普通だったら、結局折れて祝福するか、せめて頑として譲らないかだろう。不可解なのは、沙霧さんが自分に対してヤケになったところだ。まるで、恋人を取られたみたいに。
はたと沙霧さんを見た。恋人。いや、まさか。でも──そういえば、僕が聖樹さんに構われたとき、沙霧さんはこちらをじっと見つめてきていた。あのときは意味がよくつかめなかったが、今思うと──。
当惑する僕の視線に、「何?」と沙霧さんは不思議そうにする。
「あ、鬱陶しかった? ごめん。こんなん、誰にも言うに言えなくて」
「いえ、………、あの」
「ん」
「訊いて、いいですか」
「うん」
「気に障ったら謝ります。沙霧さんと聖樹さんは、兄弟、ですよね」
突拍子のない僕の質問に、沙霧さんはきょとんとした。ついで、「当たり前じゃん」と怪訝そうにする。僕は吸気した。
「聖樹さんには、沙霧さんは弟さんだと思うんです。沙霧さん、は、その……、………」
どう言葉にすればいいのか声を消え入らせ、ついにはうつむいた。口をつぐむと、頬が熱くなった。飛躍しすぎだろうか。外れていたら、顰蹙ものだ。
沙霧さんは僕を見つめてきている。どうしよう。勘違いだったと謝ろうか。せっかく埋まってきた溝を掘り起こすのもバカだ。
取り消そう。口を開こうとした。
そのときだった。沙霧さんがため息まじりに咲った。
「普通、無意識に拒否して思い浮かばないもんだけどな」
僕は狼狽し、沙霧さんに上目をする。沙霧さんは肩をすくめた。
「俺がグレた理由、兄貴のことともう一個あるんだ」
「もう、一個」
「そう。女に興味が持てなかったからだよ」
まじろいだ。沙霧さんは観念した声で、「しかも」と続けた。
「女じゃなかったら何だって思って、兄貴が浮かんだんだ」
沙霧さんと僕は見つめあった。女の人に興味がない。聖樹さんは男だ。それは要するに──。
僕の動揺が視線の流れを止めた。沙霧さんは息をつく。
「気持ち悪い?」
「い、いえ、その、びっくりして」
「いいよ、分かってる」
「ほんとです」
沙霧さんはこちらを眺めた。こわごわとであれ、僕はきちんと瞳を開けた。僕をつかむと、沙霧さんは口許をやわらげる。
「誰も知らないよ。兄貴のことは、ブラコンって程度にしか取られてない」
「……はあ」
「何で分かったの。そっちの気、あんの?」
「な、ないです」
「ふうん。俺は分かりにくいほうだって、自分でも思ってるけどな」
「聖樹さんの話がなかったら、僕も思わなかったです」
「そう」と沙霧さんは無造作に立て膝に頬杖をついた。
僕は沙霧さんを見つめた。つまりこの人は、ゲイというものなのか。
同性愛者。男同士。記憶がきしんだ。僕は身じろいでそわついた。
そうだ。僕は幼い頃から、男と関わってきた。もてあそばれ、犯されてきた。ほとんどが異性愛者だった。が、行為は同性愛者と同じだった。陰茎を口や手で触れさせあい、肛門に挿入する。実際自分がされてきただけに、想像は生々しかった。そして、その鮮やかさに吐き気がする。
沙霧さんが、僕を辱めないのは分かっている。でも、それとは別でも、あれが体質なのだと思うと、傷口が嫌悪を涌かせるのは否めなかった。
沙霧さんは僕を観察し、「気色悪がってない?」と訊いてきた。僕はかぶりを振った。とはいえ、泣きそうだった。
同性。男。陰茎。僕はひたすら強要されてきた。陰茎をしゃぶり、男にまさぐられ、同性に犯されてきた。知らない人に、同級生に、父親にさえ──
「俺はさ、まだ男とはしたことないんだ」
「え」
「機会ないし。兄貴をすっぱりいかせてないし」
沙霧さんは細目になって、ため息をつく。第三者の僕に、沙霧さんの想いに確固たる予断がつくのがやりきれなかった。
聖樹さんは、沙霧さんに応えられない。血のつながりや生理的嫌悪でなく、あの経験が真っ先に来る。聖樹さんは、二度と男にそんな手つきで触られたくないに決まっている。
【第五十三章へ】