溝を埋める【3】
「聖樹さんのこと、好きなんですか」
僕の問いに、沙霧さんはあやふやに咲う。
「ずっと、好きだよ。恋愛じゃないかもな。気づいたときは、恋愛なんて分かったもんじゃなかったんで、そう信じこんだ。違うかもしれない。兄貴を押し倒したいとかは考えないしさ。兄貴が苦しむのを見たくないってだけだよ」
僕はまばたきをする。沙霧さんは照れ咲いをして、「美しいだろ」と言った。
「恋愛じゃないよ。俺、恋愛が汚いの知ってるもん」
「聖樹さんがダメでも、男の人がいいんですか」
「らしいな。さっきのめちゃくちゃになったってときに女ともしたんだ。つまんなかった」
「男だったら、楽しいんですか」
「したことないんだって。まあ、いいんだろうな」
僕は視線を床にさげる。男と男で──。
いや、同性愛と僕がされてきたことは別なのだ。同性愛は愛情であって、あんな虐待とはわけがちがう。
頭ではそう思っても、心の整理は追いつかない。男同士で。何で。何がいいのか。あれほど恥辱まみれの行為を僕は知らない。
「あのさ」
仕方なさそうな口振りの沙霧さんに、慌てて顔をあげる。
「気色悪いなら悪いでいいんだぜ」
「えっ、あ、いえ」
「俺は平気だよ。だいたいの奴がそうなの知ってるんで、理解してもらうより自分の中にプライド持っとくことにしてる。要さんと葉月さんが苦手なのもこのせいだよ。あのふたりって、女の話をよく振ってくるだろ。俺としては、後ろめたいみたいな気持ちになるんだ。嘘ついて、偽ってはいるんだし」
「………、気持ち悪くはないです。ないん、です──けど」
沙霧さんは一考し、「萌梨は俺の好みじゃないぜ」と言った。僕はどきっとしつつもうなずき、考えこむ。
気持ち悪い、とひと思いに嘘ですましたほうがいいのか。説明するとなれば、あのことを語らなくてはならなくなる。
男に性的虐待をされてきた。ダメだ。ないがしろにされる。笑われる。
そこで、僕は立ち止まった。笑われる。そうだろうか。笑わないかもしれない。沙霧さんは、男同士が存在するのを知っている。むしろ、異性愛者より分かってくれるのではないか。
理解できないから周りに合わせて嫌悪する、というのはしないはずだ。男同士を一緒くたにもしない。情交と強姦の違いがあるのも分かる。あれが暴力的な虐待だと分かってくれる。少なくとも僕が最も恐れる反応──ふざけあった産物だと決めつけて一笑に付す、ということはしないだろう。男同士を笑いごとにされるのが屈辱なのは、沙霧さんも知っている。
沙霧さんを見た。沙霧さんも僕を見つめていた。
きっとこの人は、僕が抱える問題に幾許かの疑問を残している。さいわい、問題がある、という事実を大きく見て、どんな問題かというのは無視してくれた。
が、すっきりしたほうがいいのには違いない。僕だってすっきりしたい。沙霧さんは聖樹さんの弟で、悠紗の友達だ。この数十分のささやかな会話で、僕自身この人は敵ではないと直観している。
「あの」の呼びかけると、沙霧さんはこちらに身動きした。色素の薄い前髪が額の上を流れる。
「沙霧さんは、僕が家に帰らない理由、気にならないですか」
「は?」
「他人の家に上がりこんで、あっちに帰らない理由です。気にならないですか」
「………、そりゃあ、なるよ。でもいいよ。俺と萌梨は、内情に入りこむまで関わってないだろ」
正論だった。では、黙っておこうか。
いや、僕は常識に囚われて男同士を嫌悪しているとは思われたくない。僕なりに動機があって、必然嫌悪してしまうのだ。
「ほとんどの人が、相手にしないと思うんです。それがどうしたって。たぶん笑う人もいます。沙霧さんは違うかもしれないんです」
沙霧さんは脚を伸ばし、「何で」と訊いてきた。
「男の人を好きになるんですよね」
「うん」
「だから、です」
「………、ホモと関係あんの」
「なくても、あるって思う人が多いです」
沙霧さんは眉をゆがめ、「よく分かんない」と言った。僕はその場に座り直して、息継ぎをした。
大丈夫だ、と頭に言い聞かせると、口を開いた。
「僕が帰らないのは、そこで男に性的なおもちゃにされてたからなんです」
「……は?」
「性的虐待、ってありますよね。あれです。僕はあれを男にされてたんです。知らない人とか同級生とか、何人っていう人数にされたりもしてました」
沙霧さんは目をみはった。僕は唇を噛んでうつむいた。
詳しく語るつもりはなかった。概要でいい。それが苦しみなのは分かっても、どれほどの苦痛かは沙霧さんには分からない。分からない人に、長々と語るのは無益だ。
そっと沙霧さんを盗み見た。沙霧さんは茫然としていて──嫌悪も笑殺も、そんな色はなかった。
「小さい頃からされてて、我慢できなくなって逃げてきたんです。家もよくなかったんですよ。おかあさんはいなくて、おとうさんは出ていったおかあさんにすがりついて現実見てなくて。逃げ出してこの近くでまた酔ったおじさんに変なことされそうになって、そこを聖樹さんが助けてくれたんです。それでここに来て、落ち着くまでいてもいいって言ってくれて。見つかって帰りたくもないですし、甘えさせてもらってるんです」
沙霧さんは僕を見つめ、段々に視線を落とした。沙霧さんを窺う。沙霧さんはまぶたをなかばおろし、頭を整理しているふうだった。
いっとき、黙然とした。そののち、「兄貴は知ってんの?」と問うてくる。僕はやや躊躇い、うなずいた。
「あの、沙霧さんに言わなかったのは──」
「萌梨を気づかったんだよな。分かるよ。で、兄貴は笑わなかったんだ」
「僕が変なことされそうになったのを、実際に見たんですし」
「そっか」
納得した様子の沙霧さんに、僕は秘かにほっとする。同じことをされていたから理解できた、なんて感づかれたら最悪だ。自分のことをさらすのは僕の勝手でも、乗じて聖樹さんのことを漏出させるのはいけない。
「ごめん」と沙霧さんはつぶやいた。僕ははっとして、瞬時にその意味を測りかねる。
「そんな、ひどいことされてるとは思わなかった。せいぜい、親子喧嘩とか。ごめん」
「………、言ってないのに分かるほうが怖いです」
僕の言葉に沙霧さんは深刻そうな表情をほどいて咲ってくれる。もちろん、僕が怯える笑いではない。
「男に、か。ホモ、っつうか男同士を嫌がるのもしょうがないよな。女でも、レイプされたら男が嫌になったりするんだし」
そのつぶやきに僕は安心する。この嫌悪が大衆的なものではないことも分かってくれたのだ。それを分かってほしくて告白したのだし、僕としてはじゅうぶんだった。沙霧さんは僕を正視してくる。
「俺のこと、怖い?」
「えっ。あ──」
つまった僕は、少し首をかたむけた。「怖くはないです」ととりあえず言い、二の句は咀嚼する。しばし沈黙し、待っていてくれた沙霧さんにゆっくりと続けた。
「何で男同士がいいかは、やっぱり分かんないです」
「そっ、か。まあ、そうだな」
「別に、男同士に限らないんです。女の人と寝たりするのも嫌です。怖いのは男でも、この怖さを女の人だから感じないってことはないです」
「……うん。って、あんま分かんないか。のほほんとはしてられないよな。それは分かるよ」
「それを分かってくれたら、いいです。分かんない人もいるんです」
沙霧さんは僕を見つめ、うなずくと、正面のベランダのほうに目をやった。一瞬、やりきれないような感情が伝わってきた。
窓辺に落ちる光は弱くなり、面積も減っている。時刻は十五時になっていた。
「萌梨」
「はい」
「ひとつ憶えててくれよな。ちゃんとしたゲイは、好きな相手にだってそんなことはやらないんだぜ」
僕は沙霧さんを見つめた。素直に首肯すると、沙霧さんは笑んだ。それは真実だと思う。混濁する心は感情に走って嫌悪しても、やはりあれと同性愛は明らかに別物だ。
「話してくれてありがとな。口にするのもつらかっただろうけど、俺は話してもらってよかったよ。萌梨がここにいたほうがいいのは、よく分かった」
こくんとした。それこそ本望だった。沙霧さんも微笑み、僕たちのあいだの溝は埋まり、亀裂の危険もなくなっていた。
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