風切り羽-55

ふたりの帰宅

 十九時過ぎに、夕食について申し出た。聖樹さんには出前を勧められたのを、僕は夕食を作ってもいいのを。沙霧さんは考え、「たまには手抜きもいいだろ」と出前になった。
 こういうときのお決まりで、ピザになった。沙霧さんが電話しているときに、僕は支払いに気づき、言ってみると「俺が金持ってるよ」と沙霧さんは財布をひらつかせた。
「いいんですか」
「俺はな。でも、帰ってきた兄貴がはらったぶんくれるかも」
「はあ。お金、いっぱいあるんですか」
「いっぱいはなくても、こないだバイト代入ったとこだし」
「バイト」
「してるんだ。うちの親は、遊び代くれるほど寛大でもないしな」
 沙霧さんは苦笑いし、ゲームにキリをつけて片づけた。
 ピザは三十分以内にやってきて、僕たちはそれを座卓に並べる。聖樹さんと悠紗がハンバーガーかチキンを持って帰ってくるのを思い出したものの、今の空腹に負けて、僕はチーズが香ばしいピザに手をつけた。
 明日は会社で聖樹さんはいいのかとか、悠紗の体力は持っているのかとか、あんなに練習しないバンドもめずらしいとか、とりとめのない心配性のうわさをした。
 片づけは僕がした。しばらくテーブルに頬杖をついて休んでいた沙霧さんは、コンポに目を向けて、置きっぱなしにしていたXENONのCDを手に取る。
「ちょっと愛想使ったら、すっげえ受けるだろうになあ」
 キッチンにいた僕は、手を洗ってリビングルームに帰る。沙霧さんが手にしているのは『MORGUE』だ。
「ま、んなことしたら、今のファンは失望してくんだろうな」
 沙霧さんはCDを置いて、ゲームを再開した。
 僕はコンポをちゃんと片づけ、沙霧さんのそばに座る。一度、二十時頃にお風呂を沸かしにいったけれど、そのほかはおとなしくしていた。
 そうしていて、玄関で物音がしたのは、二十一時になろうとしていたときだった。
「帰ってきた?」
「ですね」
 騒がしい駆け足が聞こえてきて、すがたを現したのは悠紗だった。沙霧さんと僕を認めて、笑顔になる。「夜にばたばたしないの」と聖樹さんの声もした。「だってさ」とふくれる悠紗に、今日は寝なかったんだ、と僕は思った。
 悠紗はこちらに向き直ると、「ただいまー」とはにかみ咲う。「おかえり」と僕は微笑みかえし、「よお」と沙霧さんは挨拶する。
「うん。あ、ゲーム。待ってよ、僕のじゃないよねっ」
「データいじってない」
「よかった。って、それかあ。それはクリアしてくれてよかったのに」
「どっちだよ」
 沙霧さんが悠紗に横目をしていると、聖樹さんもやってきた。「ただいま」と言われ、沙霧さんと僕は悠紗への反応と同様に返す。
 聖樹さんのあとにあの四人がぞろぞろと来る──気配は、ない。
「梨羽さんたちは」
 悠紗は、沙霧さんの隣にしゃがんで画面に見入っている。「帰ったよ」と聖樹さんが答えた。
「明日、朝早くまた昨日のとこに行くんで、もう寝るって。萌梨くんによろしくって言ってたよ」
「そうですか。軆、壊さないでしょうか」
「早朝のは、何時間もしないんじゃないかな。面倒だったら取りやめると思うし」
 僕はうなずき、聖樹さんが手にするふたつの箱に目をとめた。ハンバーガーかチキン、ではなさそうだ。「これね」と聖樹さんは僕の脇に腰をかがめる。
「ドーナツなんだ。夕ごはん食べちゃっただろうし、重いもの持っていっても迷惑だろうって。これだったらおやつに食べられるし」
「そうなんですか。ごめんなさい。気、遣わせちゃって」
 聖樹さんは首を振り、「帰り道にあったんだ」と咲う。
「で、はい。沙霧にも」
「俺にドーナツ」
「そうだよ」
「食べると思う?」
「あ、いらないんだったら僕が食べる」
「悠。──嫌いだったっけ」
「いや、別に。でも甘そう」
「一応、お礼だよ」
「ふうん」と沙霧さんは箱を見て、「じゃあ遠慮なく」と受け取った。聖樹さんは夕食をどうしたかを尋ねてくる。僕がピザを取ったのを言おうとする前に、「萌梨が作ってくれたよ」と沙霧さんがそれをさえぎった。
 僕がきょとんと沙霧さんを見ると、沙霧さんは素早い目配せをくれる。おごる、ということらしい。拒否するのも失礼になりそうで、素直に黙っていた。
「そう」と聖樹さんもあっさり沙霧さんを信じた。沙霧さんはしていたゲームのセーブをすまし、「それなら」とコントローラーを置いた。
「俺はそろそろ」
「えー、もう帰っちゃうの」
「また来るよ。どうせすぐ寝ちまうんだろ」
 図星であったようで、悠紗は照れ咲いをした。その悠紗に「今度俺のにコピーするから、データ残しといて」と言うと、沙霧さんはドーナツの箱を持って立ち上がる。
 僕の視線に気づくと、「楽しかったよ」と笑んできた。僕はこっくりとした。「真っ暗になっちゃったね」と聖樹さんは詫びを混じらせて言う。
「平気。今日バイクなんだ」
「え、そんなの乗ってた?」
「こないだからな」
「免許取った?」
「人聞き悪りいなあ。取りましたよ」
 そんなやりとりをしながら、聖樹さんと沙霧くんは玄関のほうに行く。ああいう会話は兄弟っぽい。
 ゲームを片づける悠紗は、あくびをもらしている。「疲れたでしょ」と僕が言うと、悠紗はさすがにうなずいた。
「今日は早く寝なきゃね」
「うん。あ、でもお風呂入んなきゃ」
「沸かしておいたよ」
「ほんと。よかった。すぐ入れる」
「けど、朝も入ってなかった」
「だって、人いっぱいだったんだもん。楽しかったのは楽しかったよ。今日も萌梨くんいたらよかったのに」
「そっか。ごめん」
「ううん。萌梨くんは、おうちで休めた?」
「うん」
「なら、いいや。萌梨くんが元気なくなっちゃうのは、僕もやだもん」
 理解してくれる悠紗に、僕は微笑んだ。聖樹さんが戻ってきて、リビングに入るときにさりげなく眼鏡を取る。
 あくびを噛んでいる悠紗に苦笑すると、聖樹さんは「お風呂は明日にしたら」と言う。しかし、「入る」と悠紗は譲らなくて、聖樹さんは僕に風呂が沸いているかどうかを訊く。僕がうなずくと、聖樹さんは抱き上げた悠紗を浴室に連れていった。
 入浴は手短だった。僕がドーナツの箱を開け、それに入っていたチラシを読んでいると、ふたりは帰ってくる。髪を乾かされた悠紗は、聖樹さんに手伝われて、寝支度を整えると寝室に追われた。
 再度リビングにひとりになった僕は、疲れるよなあと甘い香りのドーナツの箱を閉める。頭や心は大人びていても、何といっても六歳だ。体力はそれ相応しかない。明日は煩わせないようにしようと思っていると、聖樹さんがドアを静かに閉めて帰ってくる。
「もう寝ちゃったんですか」
「うん。あれですごく疲れてるんだよね。あの子は、心配かけないように元気そうにするから」
 悠紗らしいなと思った。聖樹さんは僕のそばに来ると、「それ何?」と手にしているチラシに首をかたむける。「入ってたんです」とドーナツの箱をしめした。
「そっか。あ、その中でチョコレートにココナツがかかってるの、ひとつ残しておいてね。悠が好きなんだ」
 僕はもう一度箱を開け、どれかを確認しておいた。右寄りにふたつあるものだろう。
「食べるのは明日でもいつでもいいよ。今日はピザでお腹いっぱいじゃない?」
「はあ。えっ、あれ、ピザ──」
「キッチンにゴミ箱があるよ」
 ドライヤーを片づける聖樹さんはくすりとした。分かっていたのか。となると、沙霧さんにも気遣いを悟って、あえて騙されたということか。
 聖樹さんは、僕が置いていた洗濯物を片づけたり何したりで部屋を行き来したあと、紅茶を作ってひと休みした。僕のぶんも持ってきてくれたので、テーブルにドーナツを持っていく。「一個もらっていい?」と訊かれて、もちろん僕はうなずく。聖樹さんが選んだのはシナモンドーナツだった。

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