風切り羽-59

いつか大人になっても【2】

 梨羽さんが隔離教室に処分されたのは、加害ではなかった。とすると、それ以前に誰かを傷つけ、それを悔やんでいるのか。正直、あんな梨羽さんに誰かを傷つけられる神経の太さがあるとも思えないけれど。
「そういう、クスリをしないのは、XENONの中で梨羽さんだけなんですか」
「えらいこと訊くなあ。ご冗談を。みんなしないよ。俺はスピードより売春婦取るの。要はポルノ。紫苑は新しいギター。ちなみに、梨羽はCDと電池」
「電池」
「ポータブルに入れとく奴。あいつたまに電池百本とか買いこむのよ。店頭にあるもんごっそりかっさらうとかさ。金ははらうよ。ヤクにかまってるヒマなど」
「はあ」
 心持ち睫毛を下げた。葉月さんの手の中の空き缶は、原形を削られていっている。「あの」と僕は上目になる。
「ん」
「売春、婦」
「うん」
「恋人は」
「いない」
「みんな、ですか」
「いないよ。女って鬱陶しいじゃん。そばにいろだの何だのって。やるのは好きだよ。感情こめるのは嫌いなんだ。要もやるけど、どっちかっつうと愛よりポルノ。紫苑はギターフェチだろ、梨羽はあの通りだし。ふたりとも、俺と要が押しつけた女で童貞じゃないよ。梨羽は終わったあとゲロ吐いてたか。おねえさん怒ってたなあ」
 葉月さんはげらげらとする。
 僕は複雑になった。吐いた。女の人を抱いて。僕の脳裏には必然聖樹さんがよぎり、どうしても梨羽さんを懐疑したくなる。
 耳を澄ますと、毛布越しにしゃかしゃかと聴こえていた。梨羽さんは激しい音の音楽しか聴かない。
「梨羽さんって、洋楽しか聴かないんですね」
「うん」
「何でですか」
「何て言ってるか分かんないから」
「分かったらダメなんですか」
「みたいね。あと、やっぱ向こうのが音ゆがんでるじゃん。梨羽は優しいピアノソロとかいらないんだ。外の音が聞こえてくる。紫苑みたいな爆音ギターで、何にも聴こえなくなって閉じこもってたいんだよ」
 葉月さんはぺしゃんこになった缶をゴミぶくろに投げこんだ。分別はいいのかを問うと、「やるだけ無駄」と返ってくる。そんなことはないと思っても、葉月さんが細かいゴミの分別に精を出すのも怖くて黙っておいた。
「暑い」と葉月さんがストーブを元の位置にやり、悠紗がようやくつまっていたトラップを越えたとき、要さんが戻ってきた。
 要さんはキッチンに行くと、冷蔵庫を開けてビールの缶を取り出す。葉月さんが声を上げた。
「何でだよっ」
「君が寝たあと入れといたんだろ」
「俺のも入れとけよなっ」
「頼まれなかったし」
「ビールは冷やすもんって決まってるだろうがっ」
 いっとき喧嘩が続いて、僕と悠紗は顔を合わせて苦笑してしまう。つまるところには、「風呂上がりに冷えたビールなんて親父だ」という葉月さんの負け惜しみで喧嘩は終局した。
 要さんは寝ていたあたりに腰をおろし、コンビニのふくろをあさる。
「あ、俺のサンドイッチがない」
「たまごの」
「そう」
「梨羽が食ってたよ」
「何っ」
「あー、梨羽を責めてはいけません。寝坊大王の君が悪いのです」
「ちっ。朝からこんなん食えねえよ」
 要さんは、葉月さんが食べていたのと同じ弁当を引っ張り出す。
「今、昼だよ」
「俺には朝なんだよ」
 要さんはラップを破り、ふたはゴミぶくろに直行させた。そしてフライを胃に収めていきながら、葉月さんと軽快な会話を投げ合う。
 僕は悠紗のゲームを眺めた。「むずかしい?」と訊くと、「ちょっと」と悠紗は咲う。悠紗は物語をたどって敵を倒していくのは効率よくできても、仕掛けを越えていくとかタイミングが必要なものは不得手であるようだ。
 画面の中の主人公は、微妙な配置の飛び石で落ちると体力を消耗する池を越えていく。「次の洞窟抜けたら、ボスが出るよ」と葉月さんが予告して、悠紗はキャラたちの体力や所持するアイテムを確かめたりする。
「そういや、俺たちってスタジオいつすんの? 一回ぐらいやっとくんだろ」
「明日と明後日、いつものとこ取ってなかったか」
「あら、そうだっけ。何時から」
「忘れた」
「えー、どうする?」
「どっか書いてただろ。十四時か十五時から六時間ぐらい取ってた」
「六時間、あー、低重音に頭いっちゃう。リハはいつ? 前日?」
「当日じゃなかったか。それもどっかに書いてる」
「明日から終わるまでいそがしくなるな。あーあ。あ、じゃあ萌梨たちともご無沙汰になっちゃう」
 葉月さんは僕たちを向き、僕もテレビから葉月さんたちのほうを向いた。
 悠紗は洞窟に留まって敵を倒しまくり、体力を回復している。
「ごめんな」
「いえ」
「ま、ライヴの日に会いましょう」
「一緒に連れてってやるよ。どうせ初日は、聖樹は仕事で来れねえんだろ」
 いつか聖樹さんがそう話していた記憶があったので、うなずく。
「どのぐらいに出かけるんですか」
「えー、十九時に入場で二十時に始まるだろ。六時間ぐらい前には入ってて──十四時。だからここ出るのは、余裕もって十三時。つうことは起きるのは無難に十一時」
「あーっ、嫌だあ。練習のあとでそんな早起きできないっ」
「しろ」
「あ、要が言えた義理じゃないと思うなー、俺」
「っせえな」
「当日に練習はしないんですね」
「普通するんじゃない? でも、俺たち寝てるしさ」
 それは要するに、ライヴの成功より睡眠が大事ということか。大胆というか、無鉄砲というか──まあ、それでやってきた四人だ。
「セトリどうだっけ。いつもの一曲目と、受け狙いで十三曲なのしか憶えてない」
「憶えろよ。書いてただろ。えーとなあ──」
 要さんは弁当を置き、散乱する服や生活用品に埋もれていたノートを取った。めくったそれには、音符で彩られた五線がある。
 要さんははさまっていた紙を広げた。表にはハンバーガーの写真やファーストフードの店名が印刷されている。白紙である裏面に書きこみがあった。
 覗きこんだ葉月さんは、一曲ずつにこれはいいとかそれはやばいとか、自分の技術を照らし合わせて見解する。
 僕も覗いて、「詩を書くのって、梨羽さんなんですよね」と訊いた。「まあな」と答えてくれたのは要さんだ。
「オリジナルやりはじめたときには俺たちも手え入れてたけど、今は梨羽ひとりでやる。紫苑が曲作って、それに重ねて。何で?」
「あ、アルバムのタイトル、ぜんぶ英語ですし」
「ああ。違うのもあるよ。ファーストの『EIRONEIA』とか。あれギリシャ語」
「ギリシャ語」
「英語で“皮肉”って意味のアイロニーの語源。エイロネイアだと、装われた無知って意味だったかな」
 装われた無知。なるほど、と思った。やっとジャケットと意味が通じた。
「二枚目のはどういう意味なんですか」
「精神病院。三枚目は死体置場。“死体置場”って曲入ってるだろ。全部、梨羽の知識な」
 精神病院。死体置場。精神病院が未聴の銃自殺のもので、死体置場は昨日聴いた山積みの死体のものだ。悠紗が教えてくれた通り、確かにジャケットはタイトルに沿っている。
 要さんがだしまきたまごを口に放ったとき、「よっしゃ」と例の紙を凝視していた葉月さんが声をあげた。要さんと僕、悠紗もゲームを止めて振り向く。
「何だよ」
「暗記した」
「一気にやるか。そらで言ってみ。カンニングはなし」
「えー」
「『えー』じゃない。暗記したんだろ」
 要さんに紙を取り上げられ、葉月さんはしぶしぶ暗唱した。四曲目の後、「小学生の暗記テスト前みたい」とひとりごちていた。続いて五曲目、六曲目、悠紗と僕も聞き入った。
 葉月さんは十三曲全部言えた。が、入れ替わっていたところがあったらしく、「不合格」と要さんに烙印を押された。葉月さんは舌打ちして再度暗記に没頭し、悠紗はくすくすとしながらゲームに向き直る。
 要さんと僕は顔を合わせた。
「要さんは憶えたんですか」
「俺は一気に憶えたりしない」
「はあ。英語のタイトルとか、こんがらかったりしませんか」
「する。しばらく読めない新曲とかある。ほら、俺たち英語の授業ほとんど受けてないだろ」
 確かに、と妙に納得する。悠紗がボスに突撃した頃、眉間に皺を寄せていた葉月さんが要さんにみずから紙をさしだした。受け取った要さんに対し、葉月さんは一回目よりなめらかに曲目を並べた。結果、それは合格をもらい、葉月さんは安堵より勝利の笑みを浮かべた。
「完璧じゃ。しかしこれさ、二日目と三日目も同じなの」
「基本的には。何曲か入れ替えてもいいぜ」
「三日目はきつい曲詰めたほうがいいんじゃない。緩い曲だと、逆に気持ち入って失神するぞ」
「あー。どのへんがいいと思う?」
「ラストのほう。いっそ燃えカスにさせたほうが。聖樹いるし」
「んじゃ、これとかかな」
 めずらしく要さんと葉月さんの顔がまじめになって、僕は邪魔せずに悠紗のゲームを眺めた。
 竜のようなボスはしぶといらしく、依然消滅していない。敵の体力には若干余裕があっても、主人公の体力はぎりぎりだ。
 数値が十を切ったとき、「もうダメ」と悠紗はあえて主人公を竜の下敷きにした。そうやって投げ打てるのがゲームの残酷なところだなあ、と思っていると、“げーむおーばー”と出て、画面が切り替わる。
“まだやる”と“もうやめ”の選択肢の前に、悠紗はコントローラーを置いた。「しないの」と葉月さんにコントローラーを手出しされそうになると、「するよ」と言いながら悠紗は立ち上がる。
「要くん、トイレ貸して」
「はは、行ってこい」
「俺が倒してもいいよ」
「ダメだよ。萌梨くん、見張っててね」
 悠紗はトイレに走り、もしかするとさっきの『もうダメ』はトイレに行きたかったのかもなと思い直す。テレビの中では、考えごとをするように主人公がぐるぐると歩いている。
 それを見ていると、「萌梨」と要さんに呼ばれて僕は振り返った。
「はい」
「萌梨って、俺たちのバンド名の意味、知ってる?」
「えっ。あ、聖樹さんに聞きました」
「何て言ってた?」
「誰とも化合したりしない、梨羽さんのことって」
「そっかあ」と要さんは床に弁当箱を置いた。葉月さんは要さんにやや空目遣いをしている。僕は首をかしげる。
「何か、ありますか」
「うん。つっても、それは梨羽に限ったことじゃないんだよな。俺たちにも、他人には理解不能の化合できない部分がある。聖樹にも」
「聖樹、さん」
「俺たちがそう名乗りはじめたのって、聖樹にバンド名は何なのかって訊かれてからなんだ。そのとき、俺たちはもう聖樹がされてたことを知ってた。バンド名には、音楽やってないだけで、聖樹が精神的には俺たちの仲間のひとりっていうのもこめてる。加害にしろ被害にしろ、分かちあえない傷があるって。おおやけにしてるのは、梨羽への揶揄いだけだけど」
「………、そう、なんですか」
 脳裏に、“XENON”の意味を教えてくれたときの聖樹さんがよぎる。歯切れの悪い印象があった。あのときは聖樹さんの傷を確認していなかったし、それを黙っていたせいだったのだ。
「で、萌梨もそうなんだろ」
「え」
「萌梨も聖樹と同じなんだよな」
 ぎょっと目を開いた。ついで心臓が捻じれそうにすくんだ。
 僕もそう。聖樹さんと同じ。
 何で。どうして。僕はこの四人には何も話していない。
「聖樹がチクったんではないよ。梨羽もとっくに分かってるけど、黙ってる。聖樹と接してきた俺たちには、ばればれなんだよな。あの聖樹が何でもない他人のガキを抱えて、おまけに心許すわけない。中坊と顔合わせて、自分の中学時代を連想したりもしないぜ。それに、萌梨はあの頃の聖樹とよく重なりもするんだ」
 要さん、隣の葉月さんの瞳に、揶揄っている色はない。が、こんなに急に指摘されたらどうすればいいのか分からない。
「突然だよな。気に障ったらごめん。でも、悠に聞かれるのはまずいんだ」
「悠、紗」
「悠には聖樹が自分で話すし。悠が知らなくていい守られる時期にいるのは、萌梨はよく分かるだろ」
 こくんとした。それは、その通りだ。悠紗はまだ知らなくていい。自分で自分を守りきれない、大人に加護されていていい子供だ。
 突然話題を振られたのは分かったものの、何でいちいち言ってくるのか。その猜疑にまごついていると、葉月さんが口を開く。
「こいつが言いたいのはさ、俺たちには分かってない奴に対する演技はしなくてもいいってことだよ」
 葉月さんを向く。葉月さんは要さんほど柔らかい目はしていなくても、代わりに真剣だ。
「疲れるんだろ。だったら、しなくていいよ。落ちこみたきゃ落ちこんでいいんだ。そうなっても、俺たちが引き上げてやるってこと」
 からから、とトイレットペーパーを巻く音がかすかにした。視線をそちらにやる道すがら、紫苑さんがこちらを一瞥しているのに気がついた。梨羽さんは動いていない。
「聖樹に言ったことがあるんだ」と要さんは言った。
「守ってもらえなかったときのぶんが取り返せるまで、今から俺たちが守ってやるって。取り返せなくたっていいんだぜ。取り返せないぐらいのものを、聖樹も萌梨も理不尽にぶん捕られたんだろ。だったら、もがれたとこを守ってもらう権利はある。これから萌梨は大人になってくけど、大人になるから、昔くじいたこともひとりで背負わなきゃいけないってことはないんだ」
 要さんを見つめた。瞳が濡れそうになった。
 そうだ。それだ。だから僕は、未来が憂鬱なのだ。大人になるにつれ、傷ついて欠落している事実さえ、削っていかなくてもならないようで。ついには否定して押しこめ、ある日、突如破裂しそうで──
 水洗の音がして、ドアが開いた。手も洗ってきた悠紗は、その敏感さで空気の変化を感知してしまった。首をかたむけ、「どうかしたの」と歩み寄ってくる。「萌梨を突っついてたのよ」と葉月さんが言い、悠紗は眉を寄せる。
「大丈夫?」と悠紗に覗きこまれ、僕は笑みも作ってうなずけた。その笑みに“突っつき”が害ではなかったと判断したのか、悠紗も微笑んでテレビの前に座る。「おにいさんがアドバイスしてやろう」と葉月さんは悠紗の隣に行く。
 悠紗が再びボスに挑戦してしばらくしたあと、「知らないふりしてんのがよかった?」と要さんが不安を滲ませて訊いてきた。僕は要さんを仰ぎ、静かに首を横に振った。
 もちろん知ってほしくないような人もいる。けれど、この四人はそんな人ではない。分かっていてもらったほうが気が楽だし、何より心強い。
 僕の反応に要さんは微笑むと、不意に葉月さんの襟首をつかんだ。「何だよ」と顰め面になる葉月さんに、「セトリ言ってみ」と要さんは言う。蒼ざめた葉月さんに、僕はつい笑ってしまった。

第六十章へ

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