知らない匂い
「訊いても、いいのかな」
「えっ」
「君のこと」
「あ、ああ。はい」
拾ってもらったのだし、黙秘はひどいと思った。聖樹さんなら、答えられるかぎり答えたい。「気に障ったら、答えなくていいよ」と聖樹さんは予防線を張ってくれた。
「十四で家出って、よほどだよね」
「そう、ですか」
「飛び出す程度ならともかく、君はそういう、出ていってもすぐ戻るって軽い感じがない気がする」
「………、まあ」
「家、出たいんだ」
「できれば。無理、ですよね。分かってはいるんです」
「見ない顔だよね。このへんの子?」
「いえ、ぜんぜん」
「遠くから来たんだ」
「遠く、というか──。あの、迷惑って思ったら追い出していいですよ」
「………、うん」
「修学旅行の途中だったんです」
「修学旅行」
「はい。で、家出っていうより、その、泊まってたホテルから逃げてきたんです。ホテルであったこと、いや、ホテルで怖いことがあったんですけど、逃げたのはそれだけじゃないんです。家を出たいのもありましたし、あっちに帰るのも嫌だったんです。みんなともいたくなくて、僕、学校も嫌いなんです。怖いし、嫌なことばっかりで。それが、またホテルであって、出てきちゃって、重なってたのが破裂したんです。もうあんなのされたくないって。家も学校も全部嫌で、怖くて、その、何というか──」
核心はさらしたくない固執が、言葉を惑わせる。告白すればまとまった筋が通っても、やはり勇気が出なかった。聖樹さんも、そんな告白をされれば当惑する。同性に犯されているなんて、突拍子もないし、嫌悪感もあるだろう。口ごもって、視線をお茶の水面に落とす僕に、「いいよ」と聖樹さんはこちらを尊重した。
「無理はしないで。萌梨くんが話したくなければ、話さないほうがいいんだ」
「僕が、話を組み立てられなくて。ごめんなさい」
「気にしないで。内容はいいんだ。とにかく、逃げ出したのは突発的なものではないんだね」
僕はこくんとした。
「とはいっても、厳しいよね」
「です、ね」
「どうしても、耐えられない?」
「………、見つかって、無理やり連れ戻されたら、抵抗できないと思います。自分から帰るのは、絶対嫌です。そのへんで死んだほうがマシです」
聖樹さんはむずかしい顔になる。軆が熱を帯びた。こんなにはっきり自分が何かに苦しんでいると言ったのは初めてだ。やはり、恥ずかしかった。死んだほうがマシ。本音ではあっても、口に出すとどうしてこんなに軽いのだろう。聖樹さんはお茶を喉に流すと、眉間の皺をほどいた。
「こんなこと、君には保護者じみたお説教だと思うけど、冷静に考えたほうがいいよ。死ぬ、とかは僕がどうこう言えた義理じゃなくても、本当に、死んだらおしまいになるだけだし──」
ふと、聖樹さんは言葉をつぐんだ。僕は聖樹さんを盗み見る。聖樹さんはカップを置き、「まあ」と軽く息を吹いた。
「たぶん、君にとったら、全部おしまいになったほうがいいんだよね」
予想外の言葉で僕は驚いた。聖樹さんの瞳にはどこか泳ぐ感じがした。ひとまばたきでそれを振りはらうと、聖樹さんは僕を見る。
「とりあえず、ここでひと晩考えてみたら」
「えっ」
「帰れとは言わないよ。そこに帰らなくても、そのへんで死ななくても、たとえば──遠くに住んでる親戚に連絡してみるとかね。たくさん、方法はあると思うんだ」
「そう、でしょうか」
「うん。まず、よく眠ったほうがいいよ。それもあるんじゃないかな。顔色も悪いし、目の下、真っ黒だよ」
頬の紅潮にうつむいた。そうなのか。僕は自分の顔が嫌いで、鏡を見ない。
「ここ、落ち着けないかな」
かぶりを振った。聖樹さんはほっとした顔になると、「じゃあ、ふとん持ってくるよ」と立ち上がる。
「あ、あの」
「ん」
「迷惑、だったらいいんですよ。僕、怪しいですし。警察とかに連絡しても」
「………、してほしい?」
「して、ほしくなくても。そうされて、当然だとは思います」
聖樹さんは表情を柔らかにして、「しないよ」と言った。
「僕もお節介ではないよね。そうだったら、放っておくよ」
「いえ、それは、ない、です。助かるって思います。あの、ありがとうございます」
「よかった」と聖樹さんは一笑し、悠紗が眠る部屋に入っていった。僕はため息をついて、視線を空に置く。わずかながら、心が楽になっていた。僕の話をきちんと聞いてくれた。肝心をぼかすというひどい話し方でも、まじめに聞いてくれた。直感は当たっていた。聖樹さんは、僕が出逢ってきたどんな人とも違う。逃げ出してよかった、とあの衝動を後悔どころか、感謝してしまう。明日には他人になっているとしても、聖樹さんと悠紗に出逢えたのは、一生僕にいいものをもたらすはずだ。
抱えてきた寝具一式をフローリングに敷く聖樹さんに、僕はほかにもこんな人間にかまったことがあるのか訊いてみた。「まさか」と聖樹さんは即答する。
「自分でも驚いてるよ。僕はかなり人見知りするんだ」
「そう、なんですか」
「悠だって、さっき話した通りだしね。他人をここにあげるなんて、考えてもみなかった」
「ほんとにいいんですか」と僕がしつこく遠慮すると、聖樹さんはくすりとする。
「悠紗の直感は、僕も信じてるんだ。僕自身、萌梨くんに怯えなきゃいけないとは感じない。不思議だね」
シーツの皺を伸ばす聖樹さんの手は、ほっそりとしていた。「僕も」とつぶやくと、聖樹さんは顔をあげる。
「僕も、聖樹さんと悠紗、怖くないです。そんな人、初めてです」
聖樹さんは短く臆し、はにかんだように咲った。僕も自然に咲い返せた。
聖樹さんがふとんを敷き終わると、僕は洗顔と歯磨きをさせてもらった。タオルや携帯用歯ブラシは、荷物にあった。聖樹さんも寝る支度を整え、「おやすみなさい」と言い交わしたのは、二時過ぎだった。
聖樹さんは寝室に行き、僕は暗いリビングにひとりになった。ふとんは知らない匂いがした。客用か、もしかすると、母親のものか。暗闇に視覚が慣れると、浮かぶ白い天井や、閉ざされたカーテンに目がふらついた。静かだ。聴こえる虫の声が静寂をひそやかに引き立てている。こういうのは苦手だ。ひとり暗く静かなところにいると、神経がとがって残像に気分が悪くなる。
聖樹さんが洗面所に行っているとき、僕は上半身の服を着替えた。汗をかいていたし、軆に精液が残っているかもと思った。脱いだ服で手早く軆を拭けたものの、聖樹さんや悠紗が、臭いに気づかなかったのならいいけれど。
精液の臭いは一番嫌いだ。鼻をつく臭いは、何より記憶をえぐりひらく。その悪臭が立ちこめた部屋、顔面にぶちまけられた衝撃、軆の中への放出が、どろどろと頭に垂れ流れる。自分の精液も怖くて、自慰もしない。そもそも、自分の性器を見ると頭がくらくらする。これを触った指、かかった吐息、這いまわった舌、そういうものがよみがえってぞっとして、ときどき自分の性器を切り落としたくなる。切り取ってしまえば、忌まわしい感触がよみがえらなくなる気がする。実際傷つけたこともある。とはいえ、僕はいまだに性器を持っている。僕の性器は、さらされて犯されて、理不尽な侵害に精神的に死んでいる。
幼い頃に無理に押し開かれ、僕の性は遅れている。正確には、止まっている。僕は精通がまだだ。夢精もしない。女の人の軆を直視するのも怖い。何で勃起すればいいのか分からない。肌を触れ合わせるのも、口づけられるのも、肉体的なものすべてが怖くて、嫌悪感がある。いずれ自分が女の子にのしかかり、絡みあうようになるのかと思うと、物凄い拒絶感が湧く。はっきり言って、僕はセックスしたくない。しなくていいのなら、死ぬまで童貞でいたい。
夢中になるということにかけて、僕は終わっている。いつもだるい。できればしたくない。ベッドで休むのもだるい。そうしたら記憶がずきずきする。といって、気分転換に何かするのもきつい。それをする、ということで、また気力が必要になる。何もできない。誰かに寄り添うのは、怖い。ひとりでぐったりするのも、怖い。
いずれ育てるべきものを、眠らせておくうちに叩き起こされた僕は、いざ目覚めさせるときには、とうにそれを殺されていた。成長していくのが当たり前の中で、僕はそれができず、どんどん“普通”とひずみができている。
性的なものが大きいけれど、そればかりではない。僕は僕でいることがすごく疲れる。嫌ではなくても、疲れる。なぜ自分が日常を送っているのか、不可解になったりする。朝起きて、登校して、授業を受けて、帰ってきて、おかあさんの代わりに家事をして、寝る。たったそれだけなのに、それをこなせている精神力も信じられなくなるくらい、深く暗く、虚しくなるときがある。僕の命は、生きることと仲が悪い。過去にも未来にも、絶望が垂れこめ、はさまれた息苦しい現在に、僕は常に喘いでいる。
今は始まりに過ぎない。高校生、社会人となれば、ひずみはさらに大きくなり、僕の精神力は、普通を演じるためのみにそそがれるようになるのだろう。命がけの愛想咲いで働き、上辺の友達とめまいを抑えて遊び、嫌悪を殺して誰かと子供を作る。将来に暗いものしか見れなかった。どんなことも悪い方向にしか取れない。前途を案じると、漠然としない、おぞましくはっきりした認識で、自分には死がゆいいつの救いではないかと考える。どんなにあがいたって、僕は僕だ。せめて辱めつづけられる“朝香萌梨”を逃げ出したければ、何もかもをおしまいに葬り、この世を逃避するしかない。
細いため息がもれた。暗い天井を見つめた。まあいいか、と思った。今は死ななくてもいい。死ぬとしたら向こうに連れ戻されてだ。ここだったら死ななくてもいい。死んでも構わなくても、ここは死の欲望をあおらない。
聖樹さん。悠紗。ここなら、どっちでもいい。
力を抜いた。頭が綿のまくらに、軆が柔らかいふとんに沈む。眠たかった。聖樹さんに言われた通り、まずはよく眠ろう。冷静になるのは悪くない。そう思って目を閉じると、僕は知らない匂いに小さく身を丸めた。
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