風切り羽-64

前夜

 明け方に上がった雨に、十二日の木曜日は昼前に晴天になった。
 窓辺側に座って悠紗のゲームを眺めていた僕は、午前中、レースカーテンの隙間に空を見て、雲が退いていくのを確認していた。南中の頃には不穏な雲はなくなり、「晴れたねえ」と悠紗が言って、そちらを向く。
「んー、分かんないか。また降るかもね」
「そうかな」
「だって冬になるでしょ」
 確かに、季節の変わり目には雨が多い。なぜか雷をともなうのも多い。昨日は雷は鳴っていなかった。ここまで聞こえなかっただけだろうか。
 古城を探検していた悠紗が操る主人公は、屋上にいたボスを倒して街に帰り、イベントの台詞を飛ばしている。「読まないの」と訊いたら、「読んでるよ」と返された。
 主人公たちは悠紗が満足するレベルに成長していたけど、先週末から今週の初め、あの四人と時間をつぶしたのでゲームの進みはにぶくなっている。それも、この三日間にけっこう取り返され、物語はずいぶん進んだ。
 あの四人とは、月曜日以来会っていない。きちんと練習しているのだろうか。明日は十三日の金曜日で、いよいよ“EPILEPSY”が始まる。
 それを言うと、悠紗も笑顔になってうなずいた。
「練習したかな」
「みんなやるときはやるよ。やるときしかやらないけど」
「梨羽さん、大丈夫かな。こないだ毛布に閉じこもってたし」
 コントローラーを操作しつつ、「どうかなあ」と悠紗は唸る。
「大丈夫、じゃない、かなあ。大丈夫なのかな。ライヴの前に梨羽くんが落ちこむのはいつもだもん」
「いつも」
「うん。病気みたいで、それで歌うの。弱くならなきゃ悪魔来ないでしょ」
 悪魔。神様。どちらにせよ、梨羽さんが歌うにあたって、それは事実存在するらしい。聖樹さんも悠紗も、要さんも葉月さんも、まじめに梨羽さんには何か降りてくると言う。
 聖樹さんに似ているのだっけ。何なんだろうなあと思う。
「ほかのみんなは変わらない?」
「うん。要くんと葉月くんは直前になってもあんなんで、煙草吸って余裕なの。見た目かな。中は真剣で、外に出すのはしないんだ。梨羽くんをなぐさめたりもしてる。紫苑くんはギターに触ってるよ。いつも連れてるのじゃなくても」
「いつも連れてるの決まってるんだ」
「決まってるよ。あんまり知られてないけど。作曲のとき使うだけで、出すのもたまに。特別なのかな。ライヴではほかのなの」
「………、背負ってライヴしないよね」
「ここだったら僕かおとうさんが預かって、ほかのとこだったら楽屋に置いとくんだって」
「いいのかな」
「鍵つきのケースにいれるんだって」
「鍵つき」
「要くんが紫苑くんのために買ったの。ハードケースのやつ」
 ハードケース、と言われてもよく分からなかったが、こくりとしておいた。要さんが紫苑さんのために買った。要さんはわりにメンバーに気配りをしている。それを口にしてみると、「『無理やりバンドに入れたから、それくらいする』って言ってたよ」と悠紗は言った。
「あの四人で、リーダーって誰なのかな」
「え、さあ。要くんかなあ。運転するし、上の部屋も要くんが借りてるし」
「要さんが」
「うん。んとね、“めいぎ”っていうのは」
 名義だな、と頭で漢字変換する。
「バンド言い出したの要くんだし、外との連絡仕切ってるし、みんなをまとめてるし」
 まとめるのがリーダーだもんな、と僕は納得する。「要くんは自分がリーダーとか思ってないと思うよ」と悠紗は続け、言い得ている気がして僕は咲った。
「みんなが音楽してるとこ、想像つかないね」
「そう? あ、萌梨くんは見たことないんだもんね。すごいよお。梨羽くんたちが勝手にできるの、裏でぺこぺこしたからじゃなくて、音楽がすごいからだと思うの。みんな音楽大切に思ってなくてもね、だからすごいんだ」
 何となく分かった。たぶん四人には、音楽より、何を表しているかのほうが大切なのだ。そしてやはり、それは音楽しか追求していない音楽より強い。
 残念──四人には誇りなのは、圧倒的な孤独、絶対的な拒否に支配されたそれが、ある種の人間の胸しか打たず、おおかたの人間に顰蹙されることだ。しかし、昨日聴いたアルバムの曲でも梨羽さんは『誰にも理解されたくない』、『唾を吐き捨てて無視してくれ』と歌っていたし、それはそれでいいのだろう。
 昼食のあとも、悠紗はゲームをした。
 僕は攻略本を読んでいて、沙霧さんを思い出した。沙霧さんは、日曜日以降、訪ねてきていない。立ち入った告白をしあったのを思い、僕と合わせる顔が見つからないのかと不安になる。
 けれど、また来ると言っていたし、沙霧さんもヒマではなさそうだ。考えすぎかなと気持ちは留められた。あの四人がいるので、遠慮しているのかもしれない。
 夕方には聖樹さんが帰ってきて、その頃には長そうな小雨が再開していた。夕食を作りつつ、聖樹さんと明日の“EPILEPSY”のうわさをする。聖樹さんも、梨羽さんの精神と薄っぺらい練習量が気がかりだという。「でも、いつも成功するんですよね」と言うと、「そうだね」と咲っていた。
「雨は降ってていいんでしょうか」
「野外じゃないし。梨羽たちのファンは、雨でくじけるような人たちじゃないよ」
「そうですか」
 夕食を食べて、聖樹さんが食器を洗い終え、悠紗が入浴しようとしていた二十時前だった。突然インターホンが鳴って、みんなでびくりとした。
 僕がいるおかげで、鈴城家では来訪に神経質になっている。インターホンに出た聖樹さんは、すぐに安堵とあきれが半々のため息をついた。
「『練習はやりつくした』だって」
 かくして、部屋には四人がやってくる。要さんと葉月さんは相変わらずでも、続いた梨羽さんと紫苑さんは違った。紫苑さんは梨羽さんのそばにつきそい、その梨羽さんはかなり顔色が悪い。
 真っ青というか真っ白というか、血色が消えている。リュックを抱きしめ、肩は震え、脚もふらつき気味だ。
 紫苑さんは、声をかけたり見つめたりはしなくても、普段のようにつかつかと行ってしまったりもしない。紫苑さんの無関心を知っていると、その弱った梨羽さんがただごとではないのが際立つ。
 鍵をかけてきたのか、最後にやってきた聖樹さんも同じらしかった。梨羽さんの肩に壊れものにそうするように触れると、お決まりの隅に座らせる。紫苑さんは梨羽さんのそばに立っている。「あったかいの飲む?」と聖樹さんに訊かれると、梨羽さんはこくんとした。
 そんな張りつめた状況から少し目をそらせば、要さんと葉月さんは着替えをかかえた悠紗を追いかけ、抱き上げて遊んでいる。要さんの肩にふたつ折りになった悠紗は、「梨羽くん、平気なの?」と頭をもたげる。
「平気だろ。泣いてないし」
「歌いもしてたぞ。いや、初日は三十分ぐらいぐずぐずしてたが」
「そっかあ。みんなはできたの」
「思ったよりなー」
「なー。考えれば、ここに来る直前にもライヴしてたんだし」
「紫苑の低重音で頭ぐらぐら。やっぱあいつのギターはきついわ」
 葉月さんはこめかみを揉むと、こちらを向いた。「久しぶり」と言われ、僕はあやふやにうなずく。悠紗を肩の荷物にした要さんもやってきて、ふたりは床に腰をおろして楽な姿勢に入る。
 ふたりがのんきに言ったほど、梨羽さんは平気でもなさそうだ。おりたまぶたの奥の瞳はくらつき、コンポが設置されるチェストによりかかっている。聖樹さんが紅茶を持ってくると、そろそろと口をつけていた。
 梨羽さんは、不安そうに聖樹さんを見る。聖樹さんは微笑み、「何もないよ」と言った。よく分からないその言葉に梨羽さんはわずかにほっとしたようにして、睫毛を伏せた。
 紫苑さんは梨羽さんを見ていて、立ち上がった聖樹さんに肩を軽くたたかれ、黙って奥のガラス戸に行く。「みんな優しいなあ」と葉月さんは膝に頬杖をつき、要さんもうなずいて悠紗を脚におろす。
「要くんと葉月くんは、梨羽くん心配じゃないの」
「あれぐらい見慣れちまったもん」
「もっとひどくなったら、今度は怖いんだよなー」
「なー。喉剥いて悲鳴あげられた日には、精神科医をマネージャーにしようかと──」
「あのね、要と葉月が気を遣ったほうが、梨羽には効くと思うよ」
 聖樹さんに言われ、要さんと葉月さんはばつが悪そうに顔を合わせた。要さんの長い脚にちょこんとする悠紗は楽しげに咲って、僕も微笑んでしまう。
「見慣れたからって、放っておくことはないだろ」
「だってさ」
「聖樹いるし」
 親か先生にしかられたようなふたりに、聖樹さんは息をつく。そして、「梨羽とずっと一緒にいるのは、僕じゃないよ」と悠紗を着替えごと抱き上げた。
「何ー」
「お風呂入るんでしょ」
「あ、そっか」
「みんなと話してからにする?」
「んー、待っててくれる?」
 悠紗に言われたふたりはうなずき、それに乗って聖樹さんにも素直に謝った。「僕じゃなくて梨羽に言ってあげて」と聖樹さんは微笑み、悠紗をバスルームに連れていく。
 引き戸が閉まると、要さんと葉月さんは息をついた。
「俺、聖樹にしかられるのはダメだわ」
「俺も。ほかの奴だったら言い返せるのに」
「てめえに何が分かるってな。あー、あいつは分かってるもんな。言える立場なんだ」
「あれでも父親だし。父親って怖いもんだぜ。なあ」
 と、こちらに振られても、僕は首をかたむける。「萌梨は聖樹に怒られたことない?」と問われ、一考してうなずく。
「そっかあ。ま、そうだな。萌梨は人の気持ちが分かるし」
「あいつにはしかられないほうがいいよ。何かさ、怖いんだよね。しかるべきときにしか怒らないんで、ムカつくより罪悪感をかきたてる」
「あんまり本気では怒ってなかったですよ」
「それが怖いんじゃん。自分の感情怒鳴ってくるだけだったら、こっちも言い返せる。聖樹のあれだと、こいつ客観的に言ってんだわと思っちまうわけですよ。なあ」
「はい。ここじゃなかったら放ってないんだぜ。ここだったら、俺より聖樹のが──」
 要さんは口ごもり、「言い訳か」と反省する。つい笑ってしまうと、軽く小突かれた。とりあえず聖樹さんが正しかった、ということでこの件は落ち着けると、取り直してライヴの具合を尋ねる。
「いけるんじゃない」と要さんは即答し、葉月さんも同調した。

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