EPILEPSY【1】
梨羽さんに神なのか悪魔なのかが来るという、十三日の金曜日がやってきた。
そういう場所とまったく無縁の上、依然外出に恐怖感のある僕は、不安がないと言えば嘘だった。
聖樹さんは出勤していて、本当に初日は来ないようだ。
迎えが来るまでの午前中、悠紗はリュックに荷物をつめたりしていた。携帯ゲームなどもつめこんでいて、そういうのをするヒマがあるのかを問う。悠紗は首をかたむけ、「僕たちはヒマだよ」と言った。
「本番まで、ずっと部屋にいるもん。萌梨くんも何か持っていったのがいいよ」
と言われても、この部屋で僕のものなんて、生活用品のみだ。余興品どころか、自分の金銭もない。
持っていくもので手元にあるのは、聖樹さんが貸してくれた正体を曖昧にする上着だ。昨日の夜、恐怖が拭えないのを語っていたので、聖樹さんが再び朝に貸してくれたのだ。
一応部屋を見まわし、何にもないのを確認する。ついため息をついた僕に、「攻略本も持ってくね」と悠紗はリュックに攻略本を入れる。「重くない?」と遠慮すると、「平気だよ」と悠紗は返答し、僕は決まり悪く咲った。
昼食を早めに済ましていた十三時、荷物を車に押しこみおえた四人が迎えに来た。数週間ぶりに、鈴城家は無人となる。聖樹さんに預かった合鍵を、悠紗はリュックの底に丁重に沈めた。
六人して狭い廊下をぞろぞろ歩いて、面倒だという理由で階段で一階に降りる。
雨は夜中に上がり、今日は朝から晴れていた。宣伝活動についていったのは一週間前で、僕は久しぶりの太陽の光と冷たい外気に畏縮しそうになる。
悠紗が僕のズボンをつかんでいた。悠紗としては、朝、「萌梨くんのことよろしくね」と聖樹さんに言われたので、使命感があるのだろう。僕は悠紗の頭に軽く手を置いた。
ライヴ当日といえど、要さんと葉月さんの調子は変わらない。要さんは煙草を吸ってエンジンをふかし、葉月さんは車の天井にポルノのピンナップを貼りつける。僕には理解できなくても、それで無闇な高潮がやわらぐのだそうだ。
そんなふたりに反し、梨羽さんは深刻そうだ。紫苑さんにつきそわれ、頬や額を蒼白にさせている。目はめまいを見ているように泳ぎ、紫苑さんに腕を取られて支えられたりもする。音楽の音もれも普段より激しかった。
梨羽さんは幾度か僕を瞥視し、そのすがるような目に僕は狼狽した。荷物を片づけて人が乗る余白をこしらえた要さんは、それを認めると、「梨羽の隣に座ってくれるか」と僕に頼んできた。
「え、な、何でですか」
「萌梨がいるのが一番効く」
「僕、聖樹さんじゃないですよ」
「梨羽もそれがいいだろ」
聞こえたのか、梨羽さんは要さんの言葉に思いのほかうなずいた。当惑して梨羽さんを見上げたけれど、見返されたりはしなかった。
僕の脚にまといつく悠紗は、「悠ちゃんはこっち」と抱き上げた葉月さんと共に助手席に乗りこんだ。要さんは僕の肩をとんとして、煙草をくわえなおすと運転席に行く。紫苑さんに引っ張られて梨羽さんは後ろに乗り、僕はまごつきながら続いた。
車内は、楽器や機材や何やらがケースやバッグやダンボールに収まって雑然としていた。僕がドアを閉めて梨羽さんの隣に腰をおろすと、車は動き出す。
そばにいると、梨羽さんの震えや怯えた息遣いが伝わってきた。頬の白さも病的で、焦点を合わせられないあまり、目をつぶっている。リュックを握る手には血管の走りが浮かび、戻したいようなうめきがもれていて心配になる。
本当にステージに立てるのだろうか。支えられていないと座りこんでまいそうに、今の梨羽さんはもろい。
悪い神様を呼びこまなくてはならない。歌いたくない。でも歌わなきゃいけない。そんな強迫観念が渦巻いているのだと思う。本当は、ライヴなんか投げ出したいに決まっている。梨羽さんは、歌って自分の孤独を内観するのが怖いのだ。
言葉は使わず、見つめて紫苑さんは梨羽さんを落ち着かせている。梨羽さんは紫苑さんをしきりに見た。紫苑さんは瞳をやわらげたりせずとも、静かに梨羽さんを見返している。梨羽さんは眉を寄せ、泣きそうな目をまぶたに隠した。紫苑さんは、黙って梨羽さんの震えを受け入れている。
梨羽さんのことは紫苑さんに任せ、要さんと葉月さんはリハーサルやセッティングといった話をしている。それも大切なことだろうし、梨羽さんを紫苑さんにかかりっきりにするのも仕方ない。この四人は、そういうぎりぎりでライヴをこなしてきたのだろう。
梨羽さんは僕を見つめもした。どうしたらいいのか分からず、揺れている瞳をそろそろと見返す。梨羽さんは唇を噛み、何か言いたそうにしても、何も言わない。聖樹さんだったら言うのかなと思い、ため息をつきたくなる。
聖樹さんがいれば、梨羽さんもこんなに切羽つまらずにすんだのではないか。梨羽さんに今必要なのは、僕ではなく聖樹さんだ。何で仕事行っちゃったのかな、と思う。梨羽さんには、聖樹さんでなくてはならないところがあるのに。
聖樹さんがああいうことをされていたから──だっけ。それは、僕もされていたけど、重点として、僕は聖樹さんのように梨羽さんを知らない。すがられても、何をどうしたらいいのか分からなかった。
目的地が近づくにつれ、梨羽さんの状態は悪化した。息が壊れかけ、脂汗が浮き、軆が重たいのか紫苑さんにもたれぎみになる。睫毛は震え、泣きたいのをこらえている様子だ。紫苑さんは、ギターに触るように丁寧に梨羽さんをあつかう。梨羽さんはだんだん内に閉じこもって、ついには激しく外界を拒絶しはじめた。
その頃には、宣伝でうろついた通りに入っていた。車は路地に入った駐車場に停められる。今回は路上駐車はしないそうだ。ライヴハウスの私有駐車場なので、割引があるという。
みんな車を降り、道端に煙草を踏みつぶした要さんは、梨羽さんの状態に厄介そうにする。ピンナップに向かい、「愛しのピーチ」とささやいて降りた葉月さんは、肩をすくめる。その葉月さんに地面におろされた悠紗は、心配そうだ。
路地に面した駐車場のせいか、人影は見当たらなかった。
要さんは紫苑さんに荷物を下ろすのを命じると、紫苑さんから梨羽さんを受け取った。紫苑さんは葉月さんを手伝い、僕と悠紗は一歩引く。要さんは梨羽さんを車と距離を取ったところに連れていき、腕組みをした。
「ヘッドホンを外しなさい」
優しかった。梨羽さんは動かなかった。要さんは瞳の光を変えた。
「聞こえてんだろ。外せ」
こちらもびくりとする冷たい口調だった。梨羽さんは要さんに上目遣いをし、恐る恐るヘッドホンを外した。
悠紗が、突っ立つ僕の腰にしがみついてくる。要さんは軽く息をつくと、口調の鋭敏さや容赦ない瞳を削いだ。
「今なら、こじつけてライヴやめられるぜ」
梨羽さんは肩を揺らした。悠紗はしばたいて、そわそわと葉月さんのほうを振り向いたりしている。
「メンバーのひとりが、急病でぶっ倒れましたとでも何とでも言ってな。迷惑かかっても、俺たちはそんな非常識な融通きかせられるようにやってきたんだ。お前が取り憑かれすぎないように」
蒼ざめた手がリュックを抱きしめた。ヘッドホンが音をもらしている。
「いいか、やばいと思うなら周りなんか気にするな。お前は普通の歌手じゃない。やめてもいいんだ。そうするか」
梨羽さんは苦しげにうつむいた。
「お前が決めろ。お前が王様なんだ。お前が嫌だったら、俺たちは逆らわない。従って守ってやるよ」
梨羽さんは反応しない。自分がどうしたいのかつかめないようだ。
沈黙にいたたまれず、荷物を運び出している紫苑さんと葉月さんを見る。葉月さんはピンナップを外し、「楽屋に貼っとこ」と言った。そして、それを紫苑さんの目の前にひらつかせ、仏頂面をされて笑っている。
葉月さんは、ライヴが決行になろうと中止になろうと、気にしないみたいだ。紫苑さんは、梨羽さんが無事でいられるほうを望んでいると思う。要さんもだ。
「梨羽」という要さんの穏やかな声に、僕はふたりに向き直る。
【第六十七章へ】