EPILEPSY【4】
僕はどきどきしていた。何でだろう。見入っていた。梨羽さんが発狂に堕ちていくのに入りこみ、周りが見えていなかった。
悠紗がそこにいるのさえ忘れていた。
俺の何が分かる
俺の痛みが分かるのか
この虚しさが
分かってねえよな
それ以上俺に説教垂れてみろ
その頭をかちわり
鷲掴みにした脳に
直接わめいてやる
梨羽さんは汗を濁流させ、止まってしまいそうに乱雑な息をしていた。相変わらずマイクにすがり、たぶん、それで歌うのを放り出すのをこらえている。
もうダメなんじゃないか、と思ったら、次は確か“SEPIA”という静調の曲がやってきた。
俺はあの日死んだ
こんな腐った命はいらない
透き通ってた記憶がないよ
そんなもの全部かすれて
俺の色彩は穢れてる
俺にあれさえなかったら
きっとこんなにはなってなかった
俺は身ぐるみはがされ
あの日に心を失くした
そしてそれ以前の俺は
もう単なる美しい夢
次に置かれていたのは、あの“Phantom Limb”で、あとは再びいかにもXENONといった凄まじい曲が連ねられた。
あの二曲で一瞬平常になった梨羽さんは、ただちに狂人へと戻っていく。
俺は狂ってるんだ
かまわないぜ
やってみろよ
神経を切断しろ
思考を遮断するんだ
俺はすべてが狂ってる
ほっとくのが怖かったら
この脳を切り開いて
好きに改造してみろよ
僕は梨羽さんを見つめ、聴いていた。最初はすごいという印象しかなく、狂態もそのまま受け取っていた。
けれど、立て続けに聴かされているうち、意識が麻痺してきた。思考を停止させるがごとく、梨羽さんの歌は脳に突き刺さってくる。するとその狂れたような外面に、内面的な痛みを見つけられるようになる。錯乱が梨羽さんの狂気に同化していく。
時間の感覚も消え、梨羽さんの悲鳴はがらくたと化した頭にがんがんした。
出口なんかあるわけねえだろ
あるとしたらそれは死だ
そんなに救われたかったら
やってやるぜ
この俺が
てめえの脳をぶち壊し
喉を裂く
血を一面に散らし
お前は屠殺された豚同然
血が飛び散って真っ赤に染まる
そのときこそこの息吹に価値があふれ
俺は狂った本能で叫ぶ
気違いと言え
キレてイカれて
俺はてめえらの血に暴れ狂うんだ
梨羽さんを凝視する。梨羽さんの歌声には引き攣った笑いが入り混じる。
暴れ狂う
お前らの血で
もっとよこせ
殺してやる
お前ら全員殺してやる
いつか絶対殺してやる!
梨羽さんは叫喚した。僕は息を飲んだ。旋律に乗っていなかった。殺してやる。明らかに客席にたたきつけた言葉だった。
そして、それが最後の曲だった。コーラスを梨羽さんが歌い終えたとき、空気を揺るぎなくひずませていた音がやっと締めくくられた。悲鳴や拍手があふれた。
梨羽さんは突き放すようにマイクを押しのけると、挨拶もにこりともせずに、こちらにやってきた。慌てて立ちあがった僕も見ずに、階段をおりてすぐそこの、『WC』とかかったドアに入っていった。
とまどいながら、ステージを見た。紫苑さんも無表情にステージを降りる。要さんがため息をつき、代わりに挨拶をした。葉月さんは、投げキッスとスティック投げで歓声を受けていた。
階段から廊下に降りた紫苑さんは、僕の前で立ち止まった。僕は抱えっぱなしだったギターを渡す。さすがに呼吸は荒くなっている紫苑さんは、何も言わずに受け取って、楽屋へと歩いていった。
鼻歌混じりに退却してきた葉月さんが、初めて愛想よく立ち止まる。弾んだ息で「へへ」と照れたみたいな咲いをして、汗びっしょりの前髪をかきあげた。運動したあとのような瑞々しい汗の匂いもする。
「どおでした」
「……すごかった、です」
「そっか。ただの病人とポルノ野郎じゃないんだぞ。悠は」
「かっこよかったっ」
「正直だねえ。行きましょ。あー、ちょっと休んだら明日のこと考えなきゃ」
さっさと行ってしまおうとした葉月さんを、「あの」と反射的に止める。
「梨羽さんが」
「梨羽。ああ、ゲロ吐いてんでしょ」
「え、げろ……」
「いつもそうなんだ。誰か入ってくると吐き出せなくて、あとでもっと悪くなるよ」
「そ、そう、ですか」
そう説明されると、出しゃばれなかった。葉月さんについていこうとしたとき、ベース連れで要さんも降りてくる。長い前髪が落とす雫を頭を振って追いやり、僕と目が合うとにやりとする。
「え、と──お疲れ様、です」
「はいどうも。大丈夫?」
「えっ」
「萌梨にはきつかったろ」
「え、いえ、そんなことは」
「何か飲みたーい」と葉月さんがわめき、僕たちは廊下を歩いていった。
「アンコールとかはしないんですね」とあやふやな知識で発言すると、「めんどくさいもん」と葉月さんは一蹴する。「引き際も肝心」と要さんがつけくわえる。このバンドだったら、そんなものの気がした。
「っかし、今日、梨羽切れてたなあ。客、殺さなくていいじゃん」
「明日明後日、もっとひどくなるぜ」
「ひゃー。って、俺もきついなー。あと二日もこれ。ドラムって体力いるわ」
「『スティックまわしがしたいから』と言って、ドラムを選んだのはお前だぜ」
「浅はかだった。実に浅はかだった」
葉月さんは芝居がかって独白し、楽屋のドアを開けた。僕は部屋に入る前、人がうろつく廊下を振り返った。梨羽さんが出てきそうな気配はなかった。「萌梨くん」と悠紗に呼ばれて僕も部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。
紫苑さんはライヴ前と同じ椅子に腰かけ、ライヴで使ったギターの手入れをしていた。要さんと葉月さんは、上半身の服を脱いでしまうと荷物をあさる。取り出されたのはアイスボックスで、テーブルには飲み物が列せられた。
帰りの運転があるのだろう、要さんはビールでなくお茶を手にして、鏡の前に腰をおろして脚を投げ出した。仰いだ天井に疲労の息を吐く。葉月さんはビールを取ってテーブルに飛び乗り、「体重また落ちたかな」とつぶやいた。
悠紗と僕は椅子に座り、みんなの体力が回復するまで干渉はひかえた。時刻は二十二時になろうとしている。弦の具合を見る紫苑さんに、「張りかえなきゃ、明日切れるんじゃねえの」と要さんは笑う。紫苑さんは要さんをちらりとして、何も言わずにギターをケースにしまった。
ドアが前触れなく開いた。梨羽さんだった。目を大きく開いて、口元を手の甲でこすっていた。上下する肩に息は弾み、髪やこめかみに汗が伝っている。唇を噛んでドアを閉めた梨羽さんは、鏡の前に並ぶ椅子の一番左端に腰かけて、台に突っ伏した。
すぐ隣で脚を放る要さん、テーブルで脚をぶらつかせる葉月さんは、飲み物に口をつけて梨羽さんを観察する。紫苑さんはただ見つめた。梨羽さんの軆は、何かこらえるように顫動している。
僕は悠紗と顔を合わせる。悠紗は空目をした。めずらしいことではないようだ。
けれど僕は、狂暴な声を発していた反面、マイクスタンドにすがってやっと立っていた梨羽さんを思い出して切なくなった。ステージに上がる直前、梨羽さんは階段で子供のようにすくんでいた。つらかったんだろうなと思う。梨羽さんは観客のために悪魔の受け身となって、引っかきまわされるまま歌ったのだ。
殺してやる。あれは演出ではなく、本気だったのだろう。
不意に室内の空気が弱く震え、はっとした。梨羽さんが嗚咽をもらしていた。
缶を台に置いた要さんが、頭に被るタオルを肩に落として梨羽さんの隣に移動した。「梨羽」と呼びかけ、その上で梨羽さんの肩に触れる。梨羽さんはうめき、軆を引きつけさせた。
「あの子が来たのか」
梨羽さんは唸り、うなずいた。
「怒ってた?」
梨羽さんはかぶりを振る。
「泣いてたか」
やや沈黙し、今度はうなずいた。要さんは息をつき、「お前が気にすることじゃないんだ」と言う。梨羽さんは激しく首を横に振った。
「聖樹も言ってただろ。しょうがないんだ」
梨羽さんは首を振るのをやめない。
「お前だってガキだったんだからさ」
少し、どきっとした。話は見えなくても、子供だったから──その理由の傷は、僕にはおびただしく存在する。梨羽さんはかぶりを振るのをやめない。すすり泣きが空気をもどかしく張りつめさせている。
葉月さんがひらりとテーブルを降り、梨羽さんの背後に行く。
「梨羽」
葉月さんは梨羽さんの背中に触れた。「聞こえてる?」という確認に梨羽さんがどう反応したかは、葉月さんが影になって分からなかった。
「それで悪いのって梨羽じゃないよ。あいつが悪かったんだ。あの子だってそのぐらい分かるんじゃないの。そいつのむごさは、梨羽よりあの子のが分かってるだろ」
梨羽さんは何も言わなかった。弱々しい嗚咽も止まらなかった。葉月さんは梨羽さんの背中を綏撫し、要さんは諭す口調で梨羽さんの内界をなぐさめる。紫苑さんも、遠巻きであれ、梨羽さんの震えを瞳に取りこんでいた。
何というのだろう。この四人は仲がいいのかは分からなくても、いざというときの信頼関係はすごく強い。
悠紗が服を引っ張ってきて、そちらを向いた。悠紗は僕に置きっぱなしのクロスワードの本をしめした。自分たちはこちらをやって、四人だけにしておこうということらしい。
もっともだった。僕はぶしつけに眺めるのはやめて、筆記用具を取ると、悠紗と共に梨羽さんたちをそっとしておいた。
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