最終日
最終日の梨羽さんが、一番凄まじかった。
ライヴ前にも話していた通り、今日は緩やかな曲は一曲もなかった。今にも砕けてしまいそうに、梨羽さんはすりきれそうな悲鳴をあげる。その痛ましさに詩の狂暴性は些細なもので、暴力より痛みが勝っていた。
終盤にさしかかったとき、とうとう梨羽さんは三日間で初めて、口を閉ざしてうつむいた。だが情動ではない証拠に、歌の最中ではなく曲のあいだのことだった。
三人は低くリズムを取って梨羽さんを待つ。観客も騒いで、梨羽さんの名前を呼ぶ。沈黙を長引かせるほど、梨羽さんは震えていた。
歌えないんじゃないかと思った。投げ出し、こちらに駆けこんできてもおかしくなかった。そうしても正当なぐらい、昨日もおとといも梨羽さんは限界を越えていた。
しかし、梨羽さんはその唇を噛みしめるのを一分と持たせなかった。すぐに苦痛や憂悶から目をそらし、自虐的に歌うのを続行する。泣き叫ぶような声ではあっても、梨羽さんは泣いていなかった。そんな余裕もない、というのではなく、観客に弱みをさらしたくない極限の自尊心のようなものを僕は感じた。
俺は生け贄
俺が神だってほざく奴もいる
そんな奴こそ俺を食いちぎる神
俺こそが生け贄
喉の傷口からほとばしる声の血
それをすする気違いたち
うまいのか
よかったな
おかげで俺は悪魔に蝕まれる
その“VICTIM”を歌い終え、梨羽さんはステージを降りた。
階段に足を踏みおろして観客の死角に来た途端、梨羽さんは涙をこぼして泣き出してしまった。それでもみんなを振り切り、吐き出す代わりに溜めこんだものを嘔吐しにいく。
聖樹さんと顔を合わせた。聖樹さんは憂慮したため息をついた。悠紗は僕の脚にくっつき、不安そうにしている。
要さんたちは自分たちをミュージシャン失格と言う。梨羽さんを歌手失格と言う人もいるらしい。
でも、梨羽さんは梨羽さんなりに自分を殺して歌っているのではないか。観客に奉仕しているとはいえなくても、梨羽さんの歌には別の凄味がある。梨羽さんは、精神の均衡と引き換えに歌うのだ。プロとは言いがたいし、客商売の歌手も脱落しているとしても、梨羽さんの歌にはそれより深遠なものが孕まれている。
今日は梨羽さんはなかなか帰ってこなかった。「しょうがねえなあ」と三人は梨羽さんの帰りを待たずに片づけに出かけた。
梨羽さんはきっとぼろぼろだし、悠紗も僕の腕に収まって眠ってしまっている。それらを合わせても、その処置は適切だった。
僕は悠紗の寝息を聴き、合わさった息遣いにうとうとしていた。見取った聖樹さんが、「先に車に帰っててもいいよ」と気遣ってくれる。慌ててかぶりを振っていたところで、梨羽さんが帰ってきた。
梨羽さんの頬はびしょびしょだった。口元には赤いものさえついていて、息も切れている。メンバーのすがたがないのに迷子のような瞳が覗いた。「片づけにいったよ」と聖樹さんが立ち上がる。
「梨羽も、早くここ出たいでしょう」
梨羽さんは聖樹さんに上目遣いをし、こくんとした。聖樹さんは梨羽さんを隅っこに座らせた。梨羽さんは自分に閉じこもり、聖樹さんはそばにいるだけで殻を害さない。
室内には、梨羽さんの嗚咽が響き渡った。痛々しくて、今日が最終日だと思うとほっとした。梨羽さんはしばらく、傷口をみずからえぐりひらく自傷行為をせずにすむ。
僕はただ梨羽さんの歌に陶酔するだけという真似はできなかった。梨羽さんの歌は好きでも、梨羽さんが歌わなくて済むのにもほっとする。よかった、と心から思った。
ステージの楽器や機材、楽屋の雑誌やピンナップ、さまざまなものを荷物として三人が片づけて、帰るだけになった頃には、二十三時も大きくまわっていた。梨羽さんは泣きやんでいなかった。メンバーのすがたがなくて梨羽さんが怯えたのを考慮したのか、聖樹さんは三人に梨羽さんを受け渡す。
「何で」と怪訝そうにした要さんに、「分かんないの?」と聖樹さんはやり返す。理解した要さんは、萎縮する梨羽さんを丁重に受け取った。紫苑さんはそばに立ち、葉月さんは折れたスティックでつついたりする。梨羽さんはそう簡単に泣きやめそうになくとも、聖樹さんに撫でられてやわらいでいた硬い肩を、またもうちょっと柔らかくしていた。
悠紗を抱きかかえる聖樹さんは、クロスワードや食べ物の残りが入ったふくろ、そして悠紗のリュックを抱える僕と顔を合わせる。僕は何となく咲って、聖樹さんも微笑んだ。何のかのあっても、梨羽さんの居場所はXENONの中なのだ。
今日も梨羽さんをかためて、慎重に裏口を出ると、駐車場まで歩いた。路地なので人通りもなく、通りの喧騒も遠い。街燈が頼りの暗い道に、空に浮かぶ月も見えた。
空気もきんと冷たく、聖樹さんの上着を深く着こむ。「明日、会社ですよね」と言うと、聖樹さんは苦笑いした。
「休まないんですか」
「行くよ。萌梨くんと悠紗はゆっくりして。三日間もつきあったんだし」
「無理しないでくださいね」
聖樹さんは一笑してうなずいた。五分足らずで駐車場に到着し、荷物を車に押しこむ作業が始まる。そのあいだは、梨羽さんは聖樹さんが引き取った。三人が働き、梨羽さんはタイヤのところに座りこんですすり泣く。悠紗を抱え直した聖樹さんは、そのかたわらにしゃがみこんで梨羽さんをなぐさめた。
僕は荷物を抱きしめ、寒さをこらえてたたずんでいた。働く三人を見たり、足元のふたりを見たり、周囲を見まわしたり、だから、その影に真っ先に気づいたのも僕だった。
最初は通りがかりの人かと思った。駐車場に踏みこんで街頭に照らされるところに来たその人は、こちらを窺って歩み寄ってきていた。
女の人だった。月に艶めく黒髪を肩で切り揃え、無地の白いタートルネックのセーター、長い巻きスカートをまとっている。陰って確かめがたくとも、わりあい美人だ。一応、僕の知った顔ではない。
僕の後ろにあった荷物を取りにきた紫苑さんが、足音か、突っ立つ僕によってか、次に気づいた。動きを止めた紫苑さんに、要さんと葉月さんも気づく。
僕は三人を振り返った。紫苑さんはともかく、要さんと葉月さんには心当たりがある驚きの色があった。
「おい」
要さんの声は、めずらしく硬直していた。
「聖樹」
梨羽さんをなだめていた聖樹さんは、顔を上げる。それで初めて、みんなが停止しているのにも気づく。
「何。どうしたの」
「あれ」
「え?」
「あの女」
要さんに顎をしゃくられ、聖樹さんは不思議そうにかえりみた。その途端、穏やかな瞳に亀裂が走った。
女の人は近くに来ていた。そして聖樹さんの脇で立ち止まる。
「聖樹……」
きめこまかい声だった。梨羽さんも、空気の異変にごそごそと顔を上げる。聖樹さんの眠る悠紗を抱く腕は震えていた。
「久しぶり、ね」
「な、何で、君が」
「ここなら会えると思って。髪、切ったのね。違って分からなかったわ」
聖樹さんの瞳の亀裂からは、猜疑があふれてきた。みんなは状況が分かっているようだった。僕だけ分かったような分からないようなで混乱していた。
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