風切り羽-74

愛してないから

「悠紗が、おかあさんを怒ってるのも分かってるわ」
 正面に中腰になった女の人を、悠紗はかたくなに睨みつける。その横で僕の手をぎゅっとする。握り返した。悠紗が負けたらおしまいだった。
「そのままじゃいけないと思ったから帰ってきたのよ。悠紗のためにも帰ってきたの。あなたのこともずっと忘れなかったわ。ずっと会いたかったのよ。ねえ、おかあさんが悪かったわ。許してほしいの。これからは一緒にいてあげるわ。寂しかったでしょう。そうよね、悠紗だっておかあさんがいたほうが──」
「うるさい!」
 引き裂くような声に、とっさに悠紗を見た。でも悠紗も一驚にきょろきょろしていた。聖樹さんの声でもなく、瞬時には誰の声なのか分からなかった。
「うるさい! うるさい! うるさい!」
 その苦しげに叫ぶ声で分かった。梨羽さんの声だった。
 梨羽さんはしつこく、うわごとのように「うるさい!」を繰り返した。挙句わっと哭しはじめて、「こら、梨羽」と要さんの声もした。「うるさい、うるさい」と梨羽さんは言い続け、繰り返しながら泣きじゃくった。
 梨羽さんが車に押しこめられ、ヘッドホンをかけられるのがガラス越しに見える。葉月さんが顔を出し、「うちのペットがどうも」と言った。茫然としていて誰も笑えなかった。が、それで張りつめた空気はほどかれた。
 聖樹さんが息をついて、悠紗の前にかがみこんでいた女の人が振り返る。悠紗は、僕の腰にしがみついて顔を伏せてしまった。僕は悠紗の頭に手を置いた。
 聖樹さんは悠紗の心は分かっていたのだろうけど、ここは僕に任せて、女の人と向き合う。
「君は必要ないよ」
 女の人は聖樹さんを見つめた。
「僕も悠も、君なんかいらないんだ。君は僕のことも、悠のことだって分かってない。『分かってる』って言ってることも分かってないよ。悠はたぶん、今まで君に許すような感情は持ってなかった。悠紗が怒ったのは、今、君がしてる行動のせいだよ。誰もあのときの君は怨んでない。君が歓迎されてないのは、今ここに平然といるからなんだ」
 悠紗の軆の震えが伝わってくる。それが収まらない怒りか、別のものなのかは僕には測りかねた。
「それに、悠に必要なものを決めるのは悠だよ。君じゃない。君は必要とされてない。僕も悠も、誰も君が戻ってくることなんか望んでない。もしまだ少しでも母親の自覚があるなら、どうすればいいか分かるはずだけど」
「でも、私──」
「君は、自分の子供に殺意を教えるほど、母親失格になりたい?」
 女の人は唇を噛んだ。聖樹さんの揺るぎない視線と、悠紗の開きようのない拒絶に挟まれ、やっと女の人は立場を自認した。それでも、惜しそうな素振りで身をひるがえす。
 聖樹さんは女の人が立ち去るのを無視しようとして、短く考え、なぜか呼び止めた。女の人は聖樹さんをちらりとして、聖樹さんは女の人を見据え返す。
「ひとつ、答えておくよ。僕が君と寝ないのは、誰にだって分かることだから」
「……何よ」
「僕は君を愛してない」
 女の人は肩を硬くさせ、何か言いたそうにした。でも、何も言わなかった。そそぐ街燈の下を横切り、通りのほうに行ってしまう。そのすがたが陰に霞んで足音も消えると、聖樹さんは大息した。
 聖樹さんは、悠紗を向いた。そろそろと顔を上げた悠紗も、聖樹さんを見つめた。ついで、悠紗は僕を見上げる。微笑んだ僕に肩を押され、悠紗は僕を離れて聖樹さんに駆け寄った。聖樹さんも腰をかがめて悠紗を受け止めた。悠紗は聖樹さんの胸に顔を押しつける。
 片づけが再開していて、僕はふたりを邪魔せず、そちらのほうに身を引いた。
 荷物はおおかた車に収まっていた。紫苑さんは片づけに加わっておらず、車内で梨羽さんの隣にいる。紫苑さんにもたれる梨羽さんは、うわ言はしていなくても、せっかくおさまっていたしゃくりあげを再び激しくさせていた。紫苑さんはギターを抱くように梨羽さんの肩を抱いている。
 そんなのを見ていると、要さんと葉月さんは荷物を片づけ終え、煙草に火をつけた。要さんは助手席のドアにもたれ、葉月さんは後ろに乗りこむステップに腰かける。
「何かさー」
「ん」
「疲れた」
「………、スティックまわししただろ」
「ふん」
 葉月さんが煙たい息を吐いたところで、悠紗を抱き上げた聖樹さんがこちらに来た。悠紗は聖樹さんの肩に頬をあて、目を開いている。聖樹さんは僕に微笑み、ふたりにもそうした。
「ごめんね」
「とも言わなかったなあ、あの女」
 ステップを立った葉月さんのつぶやきに、確かに、と思った。
 聖樹さんは咲い、車に乗りこんで梨羽さんの隣に座る。紫苑さんは聖樹さんに目をやった。聖樹さんが謝ると、紫苑さんはかすかながら首を振る。
 聖樹さんは、喉を痙攣させる梨羽さんの背中を撫でた。梨羽さんは聖樹さんに顔を上げた。拍子にヘッドホンが首に落ちた。梨羽さんは心配そうで、ヘッドホンに構わず聖樹さんを凝視する。
 聖樹さんは微笑し、「悠がいたから」と言った。梨羽さんは悠紗を見た。そしてうなずくと、ヘッドホンを戻して紫苑さんにもたれなおした。紫苑さんは梨羽さんの肩をさすっていた。
 要さんは運転席にまわり、葉月さんは「乗りな」と僕に乗車をうながす。僕はそうして、要さんは運転席、葉月さんは助手席に乗りこんだ。
「悠、寝たか」
 エンジンをかけながら要さんが言う。「起きてるよ」と悠紗は聖樹さんの腕の中を動いた。要さんは悠紗を振り向いた。
「よく言った」
 まばたきが聞こえた。そののち悠紗はこくんとして、「褒められちゃった」と聖樹さんを見上げた。聖樹さんは口元を綻ばせ、悠紗の頭を撫でる。
 悠紗は聖樹さんの膝に座ると、正面にいる僕に咲った。僕も咲い返した。みんな複雑なのは分かっていた。しかし、悠紗のあの悲鳴が必要だったのは確かだ。聖樹さんの心にも、あの人の説得にも、悠紗自身の見切りにも。
 よく言った。口にするだけではない、いろんなものを内含した悲鳴だったぶん、悠紗はよく言った。
「聖樹もきつくてかっこよかったよなー」
 葉月さんは窓を開け、そちらに煙を吐いている。
「頭の中ぐるぐるだったよ」
「皮肉効いてて、イカしてたよ。女を振るってのは人生の難事だしね」
「お前経験あんのかよ」
「失礼な。俺は振る男だよ」
「女と振る振られるの関係になったことがあんのかって訊いてんだろ」
「はん。ポルノ野郎に言われたかありませんわ」
「どうでもいいけど、聞いてたんだね」
「………、渋滞すごいかなー」
 そんなわけで、車は駐車場を出た。ちなみに料金はライヴハウスに渡してあるそうだ。
 走りがなめらかなあいだは、開けっぱなしの窓の呼吸で車内はひんやりしていた。要さんと葉月さんはやりあい、梨羽さんは紫苑さんに支えられる。聖樹さんはうつらうつらする悠紗の手に手を添え、僕は窓に頭をもたせかけてぼんやりしていた。
 母親か、と思っていた。母親。おかあさん。クラクション混じりのライトが目に痛い。外を見ると、ガラスにはぼんやりと僕の顔が映った。要所がおかあさんと酷似した顔が。
 僕は憎むこともできない。憎む気力がない。僕のおかあさんは僕を捨てた。おとうさんはそれで頭が変になって、僕を犯した。それに抵抗できなかったのは、元をたぐれば、小さい頃におかあさんに突き放されるときがあったせいだ。
 僕のこの聖域の惨状には、おかあさんが密接に関わっている。何にもしていなくたって、何かが起こる切っかけの多くを作ったのは、おかあさんだ。
 もしおかあさんが僕を愛してくれていたら、あんなことになっていただろうか?

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