風切り羽-76

普通に囚われて

 あくびを噛んだ悠紗に、僕は現時刻とこの三日間も思い出し、「眠らなきゃね」と言う。悠紗はうなずいて、素直にふとんに身を包める。僕は空いているほうの手で、艶々の髪を梳いた。
「あのね、萌梨くん」
「ん」
「一個聞いて」
「うん」
「萌梨くんがいたから、言えたんだよ」
「えっ」
「あの人に言ったの、萌梨くんが隣にいて、こうやって手をつないでてくれてて、だから言えたの」
「悠紗……」
「あんな人いらないよ。でも、萌梨くんはいてね」
 まごついたものの、悠紗を不安にさせたくなくて急いでうなずいた。悠紗は満足そうに笑むと睫毛を伏せ、すぐに眠ってしまった。安らかな寝息が聴こえてきても、僕はしばしそこを動けなかった。
 びっくりしていた。もちろん嬉しくても、慣れていなくて驚いた。そんなふうに、僕がここにいるのを喜んでくれる人はあちらにはいなかった。ひとりだった。
 悠紗のあどけない寝顔を見る。ここにいると、今はひとりぼっちではないと実感できる。落ちこんだときはうまくいかなくても、そうやって言ってもらうと、疑わずに素直に受け入れられる。そうして不信感がないことに、思わずこうして驚いてしまう。
 立ち上がった。出ていくときに非常燈も消しておき、ドアはそっと閉めた。
 リビングを覗くと、聖樹さんはまだ帰ってきていなかった。
 荷物いっぱいだったもんなあ、と食べ物や悠紗のリュックのそばにかがみこむ。リュックは、明日悠紗が自分で片づけるだろうとゲームのそばに置いておく。食べ物のふくろはキッチンに持っていき、冷蔵庫に入れておくものや手をつけていなくて棚にしまえるもの、それぞれ仕分けて片づける。
 お腹が空いていたので、いちごジャムパンをひとつ拝借し、それとクロスワードの雑誌と共にリビングに帰る。座卓のそばに腰をおろした。
 雑誌はテーブルに置き、ジャムパンのふくろを破った。いちごの香りがした。片づけどのくらいかかるかなあと時計を仰ぐ。一時半になろうとしている。二時を過ぎるだろうか。楽屋でうとうとしたせいか、目は冴えている。待てるだろうと推すと、ジャムパンをかじって雑誌をめくった。
 三日間で解答にたどりつけた問題は数問だった。クロスワードをやっていると、胸が痛んだ。自分の苦しみのほか、何も感知していなかったあの無関心によって、視野があれば分かりそうなことも分からず、分からないほど虚しい事実が浮き彫りになった。こんなゲームにもいちいち逆撫でられる傷が、切なかった。
 手の中のジャムパンを胃に収めると、ぼうっとライヴや梨羽さんのこと、悠紗のことを考えた。あの女の人も思い返した。
 嫌な人だった、と思う。沙霧さんの話は本当だった。あんな人と大切な兄が結ばれたら、むしゃくしゃもしてきそうだ。何で聖樹さんは、あの人と一瞬でも愛し合ったのだろう。
 悠紗の母親というのも信じがたい。失礼ではあっても、悠紗があの人に育てられなくてよかったと思ってしまう。聖樹さん、悠紗、沙霧さん、僕が心を許せた人みんなに、あの人は疎まれている。あの四人だって好感はなさそうだった。偏見かもしれなくても、それでじゅうぶん僕はあの人を好きになれない。
 ふと、ガラス戸を向いた。それで初めて、カーテンが閉まっていないことに気づいた。閉めなきゃと立ち上がってそうすると、手の中で遊ばせていたジャムパンのふくろをゴミ箱に放る。ライヴハウスを出てからトイレに行っていないのに気づき、用を足したりもする。
 二時が近づいてきた。聖樹さんは明日会社に行くと言っていたが、体力は持つのだろうか。眉を寄せて元の座卓のそばに座ったとき、玄関で物音がした。
 顔を覗かせたのは聖樹さんだった。僕を見つけると、「ただいま」と微笑み、「おかえりなさい」と僕は返す。
 四人が続いてくる気配はなかった。よく考えれば、この三日間で一番疲れているのはあの四人だ。
 リビングに来た聖樹さんは、眼鏡を外して部屋を見まわす。
「悠は?」
「あ、寝ちゃいました」
「そう。萌梨くんは大丈夫?」
「僕は、はい。あっちでも、うとうとしてたんで」
「そっか」
 眼鏡を置き、聖樹さんは時計を見上げる。「お腹空かない?」と訊かれて僕はうなずいた。「何か作るよ」と言う聖樹さんを追いかける。
「冷凍食品でいいかな」
「はい」
「じゃあ、フライパンに油引いてくれる?」
 聖樹さんは冷蔵庫を開けた。僕は焜炉の下の戸棚を開け、フライパンと油を取り出す。フライパンの表面に油を垂らしていると、聖樹さんは冷凍食品のピラフを引っ張り出した。
「これでいいかな」
「はい」
 聖樹さんははさみで封を切り、僕は火をつけた。フライパンが温まり、油を伸ばすと聖樹さんと立ち替わる。聖樹さんは、ふくろの中身を半分ほどフライパンに流しこんだ。
 僕は皿を持ってきて、心配なことを訊いてみる。
「梨羽さん、落ち着いてました?」
「うん。悪いことしたな。悠は何か言ってた?」
 僕は曖昧にうなずいた。
「いろいろ、思いはしたみたいです」
「そう。ごめんね、巻きこんじゃって」
「いえ。僕もおかあさんがいなくなっちゃう気持ちは分かりますし」
 聖樹さんは僕を見て、「そっか」と言う。
「あんなふうに来なくたってね。萌梨くんもびっくりしたでしょ」
「まあ、はい」
「僕も、あれで混乱してたんだ。何が何なのか分からなくて」
 冷静に見えたけどなあと思い返して、悠紗を預けてきたときの聖樹さんの瞳を思い出した。恐怖と憎悪に激しく錯綜していた。そういえば、聖樹さんは主観で行動できない人だ。すべて分かりきったようなあの冷遇は、入り乱れた心を晒すのを恐れる、客観が覆いかぶさったものだったのだろうか。
 僕はお茶を作り、聖樹さんは炒めたピラフを皿に分ける。僕たちは作ったものを持って、リビングに移った。ジャムパンをかじっていたとはいえ、僕の胃はまだ空に近くて、湯気と立ちのぼる匂いは幸福だった。聖樹さんも僕もひとまず半分ほど食べて空腹を満たすと、何となく顔を合わせる。
「萌梨くんは、彼女のことどう思った?」
「えっ」
「あの彼女」
「………、あんまり、いい感じは」
 聖樹さんは咲うと、お茶に口をつけた。僕はスプーンの先でピラフをいじる。バカ正直だったろうか。
「聖樹さんは」
「好きじゃないよ」
「そ、ですか。昔は好きだったんですよね」
 聖樹さんはむずかしい顔になり、「分かんないかな」と言った。
「分かんない」
「彼女に押されたとこもなくはない。まあ、当時は考えなかったよ。好きなのかとも思ってた。恋愛がどういうものか分かってなかったんだ。今もそうだけど、それでも彼女への気持ちが恋愛じゃなかったのは言い切れる。彼女はけっこう遊んでたんだ。僕もその中のひとりで、でもいつまでも慣れきれない僕が新鮮で、ハマったみたい」
「ハマった、ですか」
「そんな人の常で、一時的な熱中だよ。自覚はなくて、永続的なものって勘違いもする。彼女もそうだった。僕はその軽々しさが読めなかった。葉月たちが言ってる通り、僕ってうぶなんだね」
 聖樹さんはカップを置く。
 僕はピラフを飲みこむと、悠紗にライヴハウスで出逢ったのを聞いたのを話した。聖樹さんは苦笑する。
「変だな。僕、話してないのに」
「え、そうなんですか」
「沙霧だね。うん、そう。あそこで逢ったんだ。彼女が裏方のほうにもぐりこんできたんだよ。楽屋に何か取りにいった僕に、あっちが声かけてきたんだ。僕は高校三年生でも、十八にはなってなかった。彼女は二十歳で成人してたよ」
 となると、ふたつ違いだ。あっちが年上なのか、と鼻白みそうになる。
「要たちには、あの女のどこがいいんだって言われまくったな。沙霧も、口にはしなくても態度とか眼でもっと強く言ってた。でも僕、押し切られるのにはどうしても反抗できなくて。焦ってたのかな。彼女といて、女の人と何にも接したことがないって気づいたんだ。経験が欲しかったところもあるよ」
「経験」
「うん。バカだなって今は思う。あの頃は──話したよね。高校生のあいだはすっかり埋めてたって。あのことのせいで恋愛とか性を避けてるなんて思わなかったし、梨羽たちといすぎたかなとしか考えなかった。あんな人が好みなのかどうか、それもつかんでなくて、まあいいかって感じだったよ。自分の性への観念がぼろぼろになってるなんて、思いもよらなかった。みんなと同じだって信じてた。普通じゃないくせに、普通はそろそろ済ましてなきゃいけないって、ますます彼女にホテルに引っ張りこまれるのを断れなかった」
 聖樹さんはつらそうに咲うと、すくったピラフを口に運ぶ。僕もスプーンにピラフを乗せた。

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