風切り羽-79

大嫌い

 翌日、悠紗と僕は、四人のところには行かなかった。
 休養の侵害はよくない。みんな、きっと今日は一日 “死んで”いるだろう。梨羽さんは水いらずで精神を安定させたいだろうし、ポルノが散乱しそうでもある。
 もろもろを合わせ、心配しにいくのは明日となった。
 その選択は、僕たちにとっても都合よくあった。「お昼ごはん何にしよっか」と音符を書いていた悠紗と相談していると、沙霧さんがやってきた。
 今日も僕たちは、ドアフォンが鳴って構えた。「沙霧くんって分かるの決めといたほうがいいかなあ」と悠紗は鍵を開けにいき、受け取ったインターホンの受話器を戻す僕もそう思った。
 沙霧さんはファーストフードのハンバーガー持参で、いつかと違って、僕のぶんも買ってきてくれていた。それが昼食となり、床にはポテトやナゲットが広げられる。
「沙霧くんさ、ずっと来てくれなかったよね」
 チーズバーガーをひと口飲みこみ、悠紗は不服そうにする。ナゲットをつまんだあとで、期間限定のハンバーガーの包みを開ける沙霧さんは肩をすくめた。
「俺だって学習してんだよ」
「がくしゅう」
「あの四人がいるときに来たって、だいたいここ留守で、虚しく帰るだけになるだろ」
「あ、そうか。あれ、じゃあ何で今日はいるって分かったの? ハンバーガーも買ってきてるし」
「昨日までライヴだっただろ。十三日の金曜日から。その次の日ぐらい、休んでるとこに邪魔しにいかないかなって」
「そっかー。でも、ここにいなかったらみんなのとこに来たらいいのに。十階のお部屋知ってるでしょ」
「………、まあ、いろいろあるんだよ」
「いろいろってー」
「いろいろはいろいろ」
 悠紗はふくれて、「いろいろだって」と沙霧さんと同じハンバーガーを食べる僕を向いた。僕は曖昧に咲った。おそらく沙霧さんは、自分を異性愛者として話を進める要さんと葉月さんが苦手なのだ。
「萌梨もライヴ行ったんだよな」
「あ、はい」
「どうだった?」
「すごかった、です。みんな。梨羽さんの声も、初めて聞きましたし」
「そうだっけ」と悠紗が首をかしげ、「CD以外では」と僕は補足する。ちなみに僕は、紫苑さんの声も知らない。
「ほかの三人が、楽器こなしてんのもビビるよな」
「紫苑さんのギターとか、ちょっと頭が変になりそうでした」
「はは。つっても、要さんと葉月さんもすごくない? いつもはへらへらしてんのにさ」
「思いました」
「僕はみんなに楽器くっついてるけどなあ」
「悠はな。はたから見たらそうなの」
「ふうん」
 悠紗は不思議そうにポテトを引っ張っている。そして突然、「そういえばねっ」と沙霧さんに顔を上げる。
「僕、昨日おかあさんに会っちゃった」
「は?」
「おかあさん、って言いたくないけどね、会ったの。ねっ」
 振られて、僕は狼狽えながらうなずいた。沙霧さんの怪訝の表情は、意味を解すると険しくなる。
「あの女が」
「そお。来たの。ライヴのあとにね、車停めるとこあるでしょ。あそこで片づけてたら」
 意外だった。そんな、すべて吹っ切れたようにあっけらかんと話すとは。僕はハンバーガーを飲みこむ。吹っ切れたのだろうか。
「何しにきたわけ」
「戻りにきたんじゃない」
「マジで。冗談だろ」
「『あなたしかいない』とか言ってたもん」
「うわ、言いそう。え、それで兄貴は」
「いらないから帰ってって言ってたよ」
「ちゃんと言えてた?」
「言ってたよ。何ていうの。きっちり。きっかり。あれ。さっぱり」
「きっぱり、じゃない」
 僕が口を挟むと、「それ」と悠紗はうなずいた。
「だったよね」
 僕もこくんとすると、「そうか」と沙霧さんは安心した息をつく。
「しかし何だ、いまさら戻りにきたのか。何で? 兄貴に未練があるのか」
「分かんない。あー、けどね、何かほかの男の人の話してたよ」
「その男の人とダメになったんで、聖樹さんにすがりにきたみたいです」
 沙霧さんは疎ましそうな舌打ちをして、コーラに口をつける。「そなの」と悠紗は顔を上げて、「そんな話だったよ」と僕は返した。
「すげえ神経だな。どんな顔して帰ってきたんだろ」
「笑ってたよ」
「怖っ。信じらんねえ。『お宅の息子さんにはつきあいきれません』とか言って、悠と離婚届置きにきたくせに」
「そうなの」
「俺はいなかったけどな。かあさんが言うには。怒ってたぜー。こっちこそ、そんなこと言う女に息子をやれるか、とか何とか。やっぱ、嫁と姑だしな」
「ふふ、おばあちゃん、仲悪いふりしててもおとうさんを心配してるんだね」
「とうさんもな。ありゃ意地張ってんだよ」
 悠紗は笑って、ハンバーガーを食べる。僕は思いのほかの情報にまばたきをした。聖樹さんの話だと、親とは険悪そうに感じていたのだけど。
「あー、でもほんとやだ。僕、置いていかれてよかったって思うもん」
「そういや、悠は母親と顔合わせたの、初めても同然だよな」
「うん。やだったー。むかむかしちゃった。おとうさん、嫌だって口にしなくたって分かるもの出してるのに、それでもべらべら言ってるの。もしかして、分かってなかったのかな。僕が怒りにいったら、今度は僕ににこにこしてきてさ」
「媚っていうんだよな」
「こび。名前あるんだ。その、こび、してきてね、やだったの。笑ってるんだよ。何で笑ってんのかな。何かね、気持ちが梨羽くんの歌みたいになってきたの」
「重症」
「でね、おうちに帰って、梨羽くんいっつもあんな気持ちで歌ってるのかなーって思ったら哀しくて。自分のちっちゃくなったけど」
「そんなもん?」と沙霧さんは拍子抜けても、なるほどと僕は思った。あの梨羽さんの異常な苦痛と陰鬱の前では、一瞬、自分が苦しいと思っていることを振り返りたくなる。
「悠もあの女には怒ったんだな」
「怒ったよお。あんま気にしてくれなかったけど」
「けっこう、こたえてたと思うよ」
 僕が言うと、ナゲットに手を出そうとしていた悠紗は、「そうかな」とこちらを向く。
「うん。それに、聖樹さんにも効いたみたい」
「おとうさんに」
「悠紗がああ言ってくれたから、あの人にきちんと言えたって。ほんとはちょっと迷ったんだって」
「うわっ、バカ兄貴だ」
 うめいて床に突っ伏す沙霧さんに、僕は慌てて否定する。
「違いますよ。あの、自分は嫌でも、悠紗のためには片親より両親揃ってたほうがいいかって考えたって」
「僕、あんな人、嫌だよっ」
「あんなんいらねえって分かるだろっ」
 ふたりに一気に責められ、口ごもってしまう。ついで、何だかうつむき、口が謝っていた。それでふたりは逆上を冷ます。
「いや、萌梨に当たってもな」
「そう、だね。ごめんね、萌梨くん」
「……うん。あの、聖樹さんなりに悠紗の将来のこと考えたんだと思うよ」
 悠紗は納得いかないようでも、「まあそうだな」と沙霧さんはうなずく。
「あの兄貴だったら」
「僕、やだよ」
「悠紗がそう言ったんで、聖樹さんも悠紗には自分がいればいいって自信持てたんだって」
 僕のこの説明に、「そっか」と悠紗は嬉しそうに照れ咲いする。
「でも、おとうさんに謝ったよ。おかあさんなのにって。そしたら、『あんな人おかあさんじゃないんでしょ』っておとうさん言ってくれたの。あ、沙霧くんは知らないよね。僕、『あんたなんかおかあさんじゃない』って言ったの」
 沙霧さんは痛快そうに笑い、悠紗も得意そうな顔になる。
「それで、おとなしく引き下がったのか」
「下がってた、よね」
「うん」
「そっか。よかった。けど、意外だな」
「おとうさんが、きついの言ってたもん。母親失格になりたいのとか」
「母親失格」
「あの、悠紗のそばにいて、嫌な気持ちになることを教えたいのかって」
「へえ。言うじゃん」
「最後に、君のこと愛してないとも言ってたよ」
「見直す」
「それで、どっか行っちゃった。ごめんとかはなかったよ。葉月くんが言って気づいたの」
「ま、あの女じゃあな」
 沙霧さんはコーラに口をつけ、悠紗はナゲットを口に放る。
「何にせよ、俺は会わなくてよかった」
「沙霧くんは、あの人と仲悪かったんだよね」
「まあな。けっこうマジだったんだぜ。あっちも俺がいないのにほっとしたんじゃないの」
「嫌い?」
「あー、もう大っ嫌い」
「僕も大っ嫌い。萌梨くんは?」
「えっ、あ、うん、大嫌い」
 言う資格もないのに乗せられて僕が言うと、悠紗は満足そうにカフェオレを飲んだ。嫌われてるなあ、と僕はハンバーガーをかじった。

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