まだ言えない
昼食が終わると、午前中には勉強をしていたのもあり、悠紗は沙霧さんとゲームを始めた。
僕はそれを隣で眺め、話しかけられたら応える。「つまんなくない?」と悠紗に気配りされると、咲ってかぶりを振った。僕は居心地のいい空間にいられるだけで嬉しい。
僕がトイレに立ったとき、「僕も」と悠紗は入れ違いにトイレに行った。帰ってきて座った僕に、「強いよなあ」と沙霧さんはつぶやく。
「え」
「悠。普通、自分捨てた母親と突然顔合わせて、しかもあんな女で、けろっとしてられるか」
おかあさんといきなり再会したら、と僕は想定してみて、できないと即断した。
「心の中は、落ち着いてないと思いますよ。ちょっと、明るすぎますし」
「まあな。それでも、っつうか、だったらもっとすごいじゃん」
「です、ね。心配かけないようにしてるんじゃないでしょうか」
「だろうな。俺、あいつ見てると、自分のがよっぽどガキだって思うよ」
「僕もです」
沙霧さんは、僕を向いて咲った。僕も咲い返すと、「よかった」と沙霧さんは咲いを残して瞳を凪がせる。
「え」
「何か、萌梨のことも心配で来にくかったんだ。俺なんかにあんなこと話して、後悔してんじゃないかなって」
「え、ぜんぜん。してないです」
「うん。だからよかった」
いささかおもはゆくなる。沙霧さんは、僕のことも気遣ってくれていたのか。
「僕も、同じの心配しましたよ。顔合わせたくないって思われてるのかもって」
「………、気持ち──変わってない? 平気?」
うなずくと、沙霧さんはほっとしたように咲った。
沙霧さんなりに、初めて誰かに秘めていた自分をさらして落ち着かなかったのだろう。おまけに僕は、男にあんなことをされていた。
「これからはちょくちょく来るよ」と沙霧さんは言い、僕がこくんとしたところで、悠紗も帰ってきた。
そんな感じで、僕たちは三人でうまく過ごした。そういえば“EPILEPSY”のあいだに雨季は終わったのか、今日は天気がよかった。夕暮れは本当に短く、日々陽が落ちるのは早くなる。
それでも当然、聖樹さんの帰宅時刻は変わらないので、暗くなっても帰ってこないと妙に心配になった。カーテンは十八時前に閉ざされ、「帰らなきゃなあ」と沙霧さんも疎ましそうに言い始める。
「まだいいんじゃない。バイクが何とかってこないだ言ってたし」
「今日は歩きだよ」
「ふうん。いいなあ。バイク。今度乗せてよ」
「もっと成長してからな。吹っ飛ばされるぜ」
「えー。あ、そういえば、沙霧くん今日学校だったんじゃ」
「そこは深く追求しない」
「はは」
そんな会話を耳にして、ぼんやり学校のことを思った。遠かった。教室。授業。先生や同級生も。
生々しいのは、放課後、トイレや裏庭でされたことだ。そこで服を脱がされ、口や肛門を犯され、ただ荒い息遣いと笑い声を聞いていた。
僕を辱めた人たちは、消えた僕をどう思っているのだろう。いきなりわけもなく飛びだした変な奴、と思っているのか。きっとそうだ。僕は、いつも学校では、何だか変わった男の子、で済まされていた。
「萌梨くん」と悠紗に瞳を覗きこまれ、まだ浅瀬だった僕はすぐ我に返れた。首をかたむける悠紗には、微笑みかける。「大丈夫だよ」と悪いことを考えていたのを白状してしまったものの、悠紗は騙されてくれた。
沙霧さんもこちらを見つめている。僕が咲うと、沙霧さんも咲ったが、その笑みには、刹那、硬いものがちらついた。悪い感情ではない──おぼつかないような、不思議がるような瞳だ。
気になっても、本当に分かるか分からなかったかのもので、わざわざ訊くのは躊躇われた。それでも思い切って訊こうとする前に、沙霧さんは悠紗とゲームを再開してしまった。
「帰らなきゃな」と言い始めて一時間も経った頃、沙霧さんはとうとう億劫そうに腰を上げた。「帰っちゃうの」と言う悠紗の頭には手を置き、見つめる僕には「また来るよ」と微笑む。悠紗は沙霧さんに、そう毎日あの四人のところに通いつめないのを伝えた。沙霧さんは承知しながら、上着を羽織る。
沙霧さんがリビングを出て、キッチンの横を行こうとしたときだ。玄関で音がして、僕たちは顔を合わせた。
やってきたのは、帰宅した聖樹さんだ。聖樹さんは近距離の沙霧さんと一度顔を合わせ、リビングの僕たちを覗く。「ただいま」と言われて悠紗と僕はそれぞれに返した。
聖樹さんは沙霧さんに目を戻し、そうされて沙霧さんも「おかえり」と言った。
「ただいま。何か、久しぶりだね」
「悠にも言われた」
「もう帰るの」
「うん。時間遅いし」
「そっか」
僕は聖樹さんを向いた。沙霧さんへの言葉が、どこか浮わついた口調に感じられた。沙霧さんも感じたのか、「何かある?」と壁にもたれる。
「え、どうして」
「何か焦ってる」
「焦ってないよ」
沙霧さんはなおも眇目で疑い、「ほんとに」と聖樹さんは念を押して見返す。沙霧さんは口元を笑ませ、「昨日の聞いたよ」と言った。
「えっ。ああ、そう。沙霧、来てなくてよかったね」
「まあな。兄貴は平気だった?」
「まさか。びっくりしたよ」
「っそ。ま、別に話さなくていいよ。俺は彼女のこと思い出したくないし。じゃあ、また来るよ」
「あ、あの」
「ん」
脚に体重を戻した沙霧さんは、聖樹さんを見る。聖樹さんは沙霧さんを見つめ、一瞬うつむき、顔をあげてうやむやに咲う。
「今日、バイク?」
「いや」
「そ、う。じゃあ、気をつけて」
沙霧さんは聖樹さんが別に言いたいことがあるようなのを察していたものの、やや強引にはぐらかす心情を取ったようだ。「俺は喧嘩は強いぜ」と不適に笑むと、聖樹さんを追い越した。
聖樹さんは沙霧さんを振り向き、鍵も締めなくてはならないのか、あとを追った。
悠紗と顔を合わせた。「何だろ」と悠紗は言い、僕は首をかしげる。
「あの人のことかな」
「さあ」
沙霧さんを見送って眼鏡を外した聖樹さんは、私服になって夕食の用意を始める。僕も手伝うためにキッチンに立ち、悠紗はゲームをした。
野菜を洗う僕は、「沙霧さんに何かあるんですか」と気がかりに問うてみる。聖樹さんは少し咲ったほかは答えてくれなかった。そうされると突っ込めず、気にしないふりをするほかなくなる。
まあ、聖樹さんが沙霧さんに悪感情を持つことはないか。そのひとまずの確信に心を鎮めると、洗った野菜の水を切った。
【第八十一章へ】