傷つくだけの過去
どきりとして紫苑さんを見る。
おかあさん。やはりあれで終わったわけではなかったのか。
「地下であっても名前が知れた存在になって、縁を切ったのが惜しくなったのかもしれない。母親はどうにかやって俺に連絡を取ってきた。ホテルの電話だった。そうしてどうするつもりなのか分からなかったけど、『会いたい』って」
息を飲みこんだ。会い、たい。それでどうするつもりだったのか。そう言える神経が信じられなし、どうしてそんなことが言えるのも分からない。
話してもらってるうちに、僕は紫苑さんの無表情にも度合いがあるのを見取れるようになっていた。紫苑さんの頬は、かすかにではあってもこわばっていた。
「会った、んですか」
ゆっくりと訊いてみると、紫苑さんはかぶりを振った。何となく、ほっとした。
「そのときに、あの曲を作った。梨羽たちといて、俺はギターを弾いてるとき以外は落ち着くようになってた。母親の電話は、ただでさえ周りに虐待されてたのを嗅ぎつけられて不安定だった俺を揺さぶった。今と昔の区別が変になりそうだった。その中で作った。あのとき母親を逃がしたのが悔しくて、そのせいでやっぱり蹴たくってこられたのが憎かった。家族はみんな憎んでる。けど父親とにいさんには復讐した。もう俺の前には来れない。母親は……」
それで、“White Carnation”なのか。両親に虐待され、信頼したおにいさんには裏切られ、しかしおとうさんとおにいさんには、ある程度、復讐で憎しみを昇華させた。ゆいいつ、おかあさんは殺し損ね、そのせいでふたたび無恥をさらされて──
あの“White Carnation”は、そんな母親に死んでしまえという憎しみをたっぷりこめた曲だったのか。そして、その想いに、梨羽さんが白いカーネーションという隠微なタイトルを添えた。
「あのタイトル、梨羽さんがつけたんですよね」
紫苑さんはうなずく。
「どう思いますか」
「よく、表してると思う。表し方も婉曲で、ほとんどの人には何なのか分からないし」
まあ、そうだ。母親を憎んでいる、なんて露骨なタイトルは紫苑さんは嫌がりそうだ。虐待を自白しているようでもある。梨羽さんは紫苑さんの心の具合も考慮して、あのタイトルに収めたのだ。
紫苑さんは、細い息をついてガラスにもたれた。ずいぶん話してもらった。紫苑さんがこんなにしゃべるなんて、あの三人や聖樹さんに対してでも、そうないことではないだろうか。
話してもらえてよかったと思う。気になっていたことの答えも散りばめてあったし、深い理解もさせてもらえた。無論、語らなかったこともあるだろうが、僕みたいな何もできない部外者はここまで語ってもらえたのならじゅうぶんだ。
僕は立ち入った謝罪と、話してよかったのかという不安を問う。紫苑さんは、謝罪にはかぶりを振り、問いにはうなずいた。
「君には、話してもいいと思ってた。みんな、俺が許せた人たちはみんな君を許してる」
「そう、ですか」
「聞きたくなかったならごめん」
「あ、いえ。僕も変な好奇心ばっかり持ってるのも嫌でしたし。すっきりしました」
「そう」と紫苑さんは無表情に部屋を眺めやった。僕は抱えこんでいた膝を伸ばし、脚をさすった。
「何か、あるのかなとは思ってました。そんな、すごいことだとは」
「すごい」
「じゃ、ないですか。僕は、すごいなって思います。親にもみんなにも、何にもできなかったですし。逃げただけです」
紫苑さんは僕を見る。南中をずれて角度も変わったのか、紫苑さんにも白光がそそぐ。光にあたると、紫苑さんの瞳の暗さはやわらぐより強調された。艶々した黒髪は光をすべらせている。
紫苑さんは視線を下げると、ギターに触れる。
「要と葉月よりは、俺の人殺しのほうが理解しやすいかもしれない。けど、ずるい、っていう人もいると思う。自分ではそう思う。俺は自分の手は汚さずに、ふたりの人間の一生を壊した。後悔はしてない。体あたりして、敵うわけなかった。順応してたら、精神的にひどいことになってた。 “子供”っていう立場を利用するしかなかった」
利用。僕は脚に乗せた手を見つめる。ここに来て、ろくに陽にあたらなくて、蒼白かった肌はなおそうなっている。
子供の立場を利用する。僕は子供であることに特権があるなんて、自覚する余裕もなかった。もし自覚しても、それで周りを騙す無邪気な演技の気力がなかっただろう。
僕は内罰的にしかなれない。憎むとしたら、無知で無力だった幼い自分だ。害してきた人間を憎むのは、あまりに途方がなさすぎる。憎み抜く前に疲れて、しょせん虚しさが増すだけだ。
「前、要か葉月が、自分たちといて怖くないのかって聖樹に訊いた。聖樹は、どういうことが怖いのか分かってるって答えた。そのとき俺は、聖樹が憎まないんじゃなくて憎めないんだって分かった。それまで俺は、聖樹が相手に憎しみも仕返しも考えてないのが信じられなかった。そのときに、聖樹は憎いより怖くて、憎むのが虚しくなるくらい憎いんだって」
憎むのが虚しくなるくらい憎い。分かる気がした。
もし僕が両親や同級生、数知れない知らない人を憎んだら、いったいどれほどの活力でその憎悪をうつわは満ちるだろう。死力でだって、なれないかもしれない。
「俺は憎める。哀しかったとか痛かったとかは、復讐で加害者に立ってマシになった。ギターで憎しみに集中してれば苦しかったのは眠ってる。あの三人もいて、ギターに執着してるだけじゃなくて弾くことも知った。俺は子供の頃いろんなものを失くして、もうそこは埋まらないと思うけど、代わりにおぎなえるものも持った。聖樹には、たぶんそれがない。今は悠紗とか君を持ちはじめてても、憎むとか復讐の気力は一生ないと思う。過去には傷ついてるしかできない」
僕は紫苑さんを見る。紫苑さんは部屋に視線をやっている。
過去には傷ついてるしかできない。冷評だ。でも、事実だ。
紫苑さんは僕を向いた。
「だから俺は、自分より聖樹とか君のほうがすごいと思う。弱いけど、弱いだけ、それでも生きてるのが」
「そう、でしょうか」
紫苑さんはうなずき、「そういうのが一番強い」と言った。
「俺は、相手にも自分と同じ傷をつけてやらないと怖かった。そんなのが怖かった」
紫苑さんはうつむき、口をつぐむ。紫苑さんには、復讐より耐えるほうが強いことのようだ。
そうかなあ、と思う。僕は紫苑さんのほうがうらやましい。紫苑さんがしたことは、復讐というより心理的なけじめだ。やりかたは少々あざとくても、紫苑さんをあざとくさせたのは両親やおにいさんたちだ。あざといやり方でないと、効果が上がらない人たちだった。
それを言うと、紫苑さんは首をかたむけていた。その反応に紫苑さんの弱さを感じ、胸の内で切なくなる。
しばし沈黙して、紫苑さんは作曲を再開した。僕も最初決めた通り、何にも言わずに聴いていた。
紫苑さんの瞳を盗視する。単調に暗い。けれどきっと、頭の中では家族と呼べない家庭への憎悪が渦巻いている。
もしかすると、“White Carnation”を作ったときには、そうして冷たい瞳のままでいられなかったのかもしれない。それで、梨羽さんの詩を立てる空っぽの曲にできなかった。
膝を抱え直し、きっとそうなんだろうなと思った。
【第九十章へ】