明日には
暗くなる前に、聖樹さんは洗濯物を取りこんだ。それは窓辺に山にしておくと、悠紗のそばにいく。声をかけられると、「なあに」と悠紗は目を開いた。
「今日の夕ごはん、何がいい」
「んー。何があるの」
「おととい買った魚があったかな」
「何の魚」
「鰈」
「とろとろってしてるの」
「うん」
「じゃ、それ。あ、萌梨くん食べれる?」
ふたりの会話を一歩引いて見ていた僕は、急に振られて、どきりとした。聖樹さんも僕を向き、「鰈の煮つけ食べれる?」と確認する。
「あ、まあ。はい」
「そう。僕と半分になるけど、いいかな」
「は、はあ」
「じゃあ、待っててね。支度するよ」
「え、あ、あの」
「ん」と聖樹さんは、かがめていた腰を正す。
「いいんですか」
「いいって?」
「だって、その、僕──」
聖樹さんは僕を見つめて、続かない言葉を悟ると微笑し、「気にしないで」と言った。不断なのか、ずるいのか、僕の二の句を思いつけなかった。エプロンをまとった聖樹さんは、手慣れた様子で夕食の準備に取りかかる。
気にしないわけにもいかなかった。さすがに甘えすぎだ。僕はよくても、聖樹さんがよくない。聖樹さんには、僕を負担してまで構う義務はない。僕がはっきり出ていくと言えないのが悪いのだ。自分の横着な優柔さにうつむいてしまうと、「どうしたの」と悠紗が這い寄って覗きこんでくる。
「魚、嫌いなの?」
悠紗の不思議そうな瞳に、僕は小さく首を振る。
「大丈夫だよ。おとうさん料理うまいし、おいしいよ」
「……ん、うん」
内向する僕に悠紗は起き上がり、睫毛をまたたかせた。悠紗の瞳が痛くて、「いいのかな」と僕はぼそぼそと答える。
「え」
「僕、ごはんもらっても」
「いいよお。おとうさんもいいって言ったし」
「ここの人間じゃないし」
悠紗は陽射しに雲が流れたように、表情に影を落とした。
「帰っちゃうの」
どうとも答えられない。悠紗は僕の服の裾を握った。
「ごはんは食べていってもいいでしょ。ね」
「ん、………」
「僕はいてもいいんだよ。明日もいていいよ。萌梨くんがいるの、楽しいよ」
「聖樹さんは、迷惑じゃないかな」
「何で。──おとうさん、萌梨くんがいるの嫌じゃないよね」
聖樹さんはこちらを向き、咲ってうなずいた。「ほら」という悠紗に、僕はうやむやに目を下げる。
ふたりの気持ちはよくても、実質的な問題が黙っていない。食費も、部屋の面積も、僕自身爆弾を抱えている。ここにいるのがばれて、先生や親が乗りこんできたら、はっきり言って聖樹さんは犯罪者だ。警察に引き渡すのが穏便なところを、僕の私情を汲み取って自分の保身を捨ててくれている。だからこそ、変なかたちで露顕し、聖樹さんに迷惑がかかるのは嫌だった。
「萌梨くん、ここにいるの、嫌?」
僕は即座にかぶりを振り、「落ち着くよ」とも言い添える。悠紗は表情を輝かせ、「じゃあ、いるよね」と言った。
「帰らなくてもよかったら、いてね。帰っちゃっても、また来てね」
悠紗の瞳に、嘘はなかった。そもそもこの子は嘘なんかつかない。波長の合わない相手には分からなくても、心を開いた相手には、開き返す子だ。悠紗を落ちこませたくなかった。ここにいたくない、と言っても、浅はかな嘘だ。僕は小さくうなずき、すると、悠紗はにっこりとして握っていた服を離した。
影が落ちていた部屋にぱっと明かりがつき、見ると、聖樹さんがクローゼットの脇のスイッチに触れていた。「カーテン閉めてくれる?」と聖樹さんは、どちらに向かってでもなく言う。悠紗が立ち上がり、僕も何となく立ち上がった。悠紗は手を伸ばして、カーテン留めをはずし、厚手のカーテンを引っ張る。悠紗には重たそうで、僕も引っ張った。悠紗は僕を仰いで、照れ咲いした。
空は遠く抜け、真っ暗で、周囲のマンションにはちかちかと明かりが見受けられた。マンションの合間に、澄んだ月がくっきり窺える。
カーテンを閉めると、「ありがとう」とキッチンの聖樹さんが言った。魚を煮つける温かな匂いがしている。家で何年も家事を担ってきた僕は、自分で料理しないのは不思議な感じだった。悠紗はテレビの前に行き、ゲームをいじる。「観てもいい?」と訊くと、「うん」と悠紗は僕を隣に招いた。悠紗はさっきのソフトは出し、ほかのを入れる。
「それも、RPG」
「ううん。パズルゲーム。僕、これ、下手なんだよね」
「そうなの」
「うん。うまくなろうとしてるの。そしたら、こういうのって対戦できるでしょ」
よく分からなくても、うなずいておく。
「萌梨くんもやってみる?」
「え、ううん。見てるだけでいいよ」
「そお。下手なの、笑わないでね」
悠紗はボタンを押し、ゲームを始めた。卑下していたわりに、うまくブロックをつぶしている。ステージのレベルがあがると、ブロックの個数や、押しよせる速度が増してくるらしい。ステージ7となり、けっこうできてる、と思ったところで、主人公らしき人がブロックにつぶされて、ゲームオーバーになった。
「あ、死んじゃった」
悠紗はふうっと息を吐き、僕には、恥ずかしそうに咲った。
「僕、八までしか行ったことないの」
「どこまであるの」
「十。そこまでいけたら、一回セーブして、次のレベルのステージに行けるんだ。そしたら、この動かす人も変わるの」
「はあ」と僕は間の抜けた返事をする。大変だなあ、という的はずれな感想がもれそうになった。
「早くなってくると、僕、頭がぐるぐるしてきちゃう」
悠紗は何か操作をして、始めからやりなおした。僕はそれを見ていて、そうしていると夕食ができあがった。
瀬戸際のステージ8にいる悠紗に代わって、僕が食卓を拭いた。ふきんを置きにいくと、「ごめんね」と聖樹さんに苦笑いされた。「これくらいしないと」と言うと、「じゃあ、頼ませてもらおうかな」と魚を盛った皿を渡される。どれが誰のかを教えてもらうと、食卓に運んだ。誰がどこかは、夕べや今朝を思い返して、その通りにする。
ゲームオーバーになった悠紗は、ふくれっ面で電源を切った。「テレビつけておく?」と聖樹さんに訊き、「どっちでもいいよ」と答えられるとテレビも切る。和えものを置く僕には、「ごめんね」と悠紗は決まり悪そうにした。
夕食になった。悠紗の言う通り、聖樹さんの料理はおいしい。誰かに作ってもらう料理は、こんなにもおいしいのだ。
夕食を食べ終わると、聖樹さんは炊事をして、悠紗はコンポを乗せるローボードの引き出しをあさった。ゲームはしないようだ。ノートと鉛筆を取り出し、テーブルで何かを書くのに集中しはじめた。
僕が手持ち無沙汰になっていると、「シャワー浴びてきたら」と食器を洗う聖樹さんが言った。当然断ろうとし、昨日もおとといも軆を流していないのに気づく。修学旅行に入浴の時間はあったが、何をされるか分からなくて、風邪気味だとごまかした。「遠慮しないで」と言う聖樹さんに、甘えさせてもらうことにした。
今日のぶんだった着替えを、かばんから引き出す。汚れた服が指に触れ、ここで自分の手で洗ってしまおうかと悩んだ。どうも僕は、今晩もここに泊まりそうな気配だ。ひと晩干せば、乾くかもしれない。僕は聖樹さんのところに行き、その旨を伝えた。
「僕が明日、洗濯しようか。天気いいみたいだし」
「あ、いえ。その、下着とかもありますし」
それはこちらの気持ちもあるせいか、聖樹さんはすぐ快諾した。僕はたたまれた服と、ビニールぶくろに入った服、バスタオルを抱えてバスルームに行く。厚かましいなあ、と顔を伏せがちにしていると、食器洗いを中断した聖樹さんが追いかけてきた。
「シャワーの使い方、分からないよね。教えてあげるよ」
僕はこくんとして、聖樹さんについていった。悠紗は、熱心に何かを書いている。日記か何かだろうか。エプロンで拭いた手で引き戸を開けた聖樹さんと共に洗面所に入る。
「悠紗、何かしてましたね」
「ああ。勉強だよ」
「え、あれ、保育園に勉強ってありましたっけ」
「あの子が独学してるんだ。先生とはなかなか会えないんだけど」
「先生、ですか」
「そう。十三日の金曜日にだけ、絶対戻ってくる先生」
聖樹さんを見上げた。曇りガラスのドアを開ける聖樹さんは、僕のとまどった目にくすっとする。
「ちょっと怖いかな」
「です、ね」
「僕の友達なんだ。おもしろいよ。──あ、靴下は脱いだほうがいいかな」
抱えるものを床に置き、靴下を脱いだ。これは朝に履き替えたもので、もう代えはない。聖樹さんはスリッパを履いて、淡いベージュのタイルに踏みこんだ。続いた僕にシャワーとカランの切り替えや、温熱の調整、上がったら窓に隙間を作っておいてほしいことを教える。半地下方式の浴槽は空で、入りたいかを問われて頭を振った。「じゃあ、ゆっくりね」と聖樹さんはバスルームを出ていき、洗面所も出ていったあとに、僕は服を脱ぎに洗面所に戻った。
引き戸が閉まっているかを確認し、服を脱いだ。あのふたり──というか、聖樹さんが傷をえぐることをしないのは分かっていても、全裸をさらす必要もない。
上半身を脱ぐと、蒼白い肌が目に障った。恐る恐る背中に触った。汗のじめつきと、肌の温柔があった。精液のがさがさはない。素肌にまで染みこんではいなかったようだ。そう思って連鎖した記憶に、急に眉や頬がこわばる。
やだな、とバスマットに目が落ちる。どうしてこうなのだろう。些細なひとつの亀裂も決壊になり、悪い気分は噴き出して止まらなくなる。嘔吐したい靄が燻り、あの部屋での光景が吐き気を後押しする。抑えこまれて、女になって、性別を踏み躙られて──
無理に靄を振りはらい、スウェットと下着を下げた。性器は見ない。包丁はなくも、こぶしはある。切り落とせなければ、たたきつぶしたくなる。ここであの奇妙な衝動に駆られ、見つかったら厄介だ。
スポンジは借りず、素手にボディソープを泡立てる。腕、胸、腹、気乗りはせずとも放っておくのもつらくて、股間も洗う。膝のガーゼが剥がれて傷口を覗くと、血は流れなくてこのまま乾かすことにする。シャンプーも拝借して、ざっと髪も洗うと、バスルームを出て、濡れたガーゼはゴミ箱に捨てた。タオルで水滴を拭くと、紺のパーカーとストレートパンツを着る。
そのあと、換気扇が抜ける下でタイルにしゃがんで、カランで服を手洗いした。あのときの服には、精液がこびりついて黄ばんでごわついていた。洗剤、と思っても、まさかボディソープを塗りたくるわけにもいかず、水洗いしか手はなかった。
びしょぬれになった服に、脱水はさせてほしいな、と思う。手で絞るにも、限界がある。服をタイルに置き、タオルで手足を拭うとリビングを覗いた。悠紗が気づき、駆け寄ってくる。
「どうしたの。あ、ドライヤーあるよ」
「ん、あの、聖樹さん、いる」
「おとうさん」
「洗濯機の、脱水だけ使わせてほしくて」
悠紗は、僕の言葉を大きな声で反復した。「いいよ」と聖樹さんの声がし、悠紗と僕は顔を合わせる。「いいって」と悠紗も言い、うなずいた僕は洗面所に戻った。「僕が教える」と、悠紗もついてくる。
「使えるんだ」
「んー、ボタン押すだけなんだけどね」
バスルームから奥の洗濯機へ、ぐっしょりした服を持っていくには、悠紗が洗面器を貸してくれた。「今日おとうさんにしてもらえばよかったのに」と言う悠紗に、僕はうやむやに咲う。空の洗濯機に服を放りこむと、背伸びした悠紗が操作をやってしまった。洗濯機が動き出すと、「髪乾かしとこうよ」と悠紗に提案される。突っ立っているのも何なので、そうした。
聖樹さんは洗濯物をたたんでいた。僕は悠紗が持ってきたドライヤーを受け取り、悠紗は聖樹さんを手伝う。服を洗うあいだに髪は半乾きになっていたけど、放っておける時期でもないので、温風にさらした。こぼれる匂いがいつもと違うのが胸に軽い。湿り気が潤いに落ち着いた頃、悠紗がぱっと顔をあげて合図してきた。ドライヤーを止めて、首をかたむけると、「鳴ったよ」と洗面所を指さす。僕は風音で聞こえなかったみたいだ。断ってドライヤーを置いて、洗面所に向かうと、悠紗も聖樹さんにひと言言ってついてきた。
かごに服を入れ、聖樹さんに承諾をもらうと、僕はそれをベランダに干した。そよぐ風が冷たいそこは、真っ暗だった。サンダルはふたつあった。洗濯ばさみを取ったり、皺を伸ばしたり、悠紗は手際よく手伝ってくれる。いつも聖樹さんにしているのだろう。
「明日には乾いてるかな」
問うた僕を悠紗は見あげ、「昼間も干しておけばいいよ」と言った。「うん」と答えると、その返答の内含に悠紗は笑顔になる。虫の声が折り重なって響いていた。悠紗が部屋に戻るのをうながすと、僕たちは暖かい室内に入る。ガラス戸を閉めると虫の声は遠くなり、カーテンは僕が閉めた。
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