風切り羽-92

緩やかな一日

 青空もどこか冷えびえとして、外に出ると、現に初冬と呼べる冷気が触れてくる。
 カレンダーは十一月の下旬に入って、十日足らずで十二月になる。僕はハンガーにかけた洗濯に濡れたシャツの皺を伸ばし、早いなあと昼間だとまだ色づきはしないため息をつく。
 ここにやってきたのが、十月のなかばだ。一ヶ月以上、ここに暮らしている。改めて感慨しようとしても、一ヶ月もいるなんて、そんな感覚はとうていなかった。
 時間の流れが早い。向こうでも時間の感覚はなかったけど、それとは明らかに違う。向こうでの時間は鈍く、飛んでいた。毎日がずっしり疲れて、だるくて、変わり映えなく、一日の終わりが果てしなく遠かった。なのに、はっと気づくと半年くらい経っている。
 ここでの時間はそうではない。毎日がなめらかだ。次元が違うんじゃないかとも思いそうに、時間が突き刺さってこない。でも、やっぱり、聖樹さんや悠紗とは、ひと月同居しただけの親密が重ねられていると思う。
 先月は、一ヶ月もここにいられているとは思っていなかった。誰か追いかけてくるとか、聖樹さんや悠紗が他人を招き入れたのを後悔するとか、不安や猜疑でいっぱいだった。
 今、そういうのはだいぶ削られている。
 少なくとも、聖樹さんや悠紗を疑うのはなくなった。ふたりとも僕がここの空間にいるのを受容してくれている。そこを思えば、不安は鎮まった。
 先月の初めには聖樹さんたちの存在も知らなかったんだよなあと、しみじみ洗濯物を広げていると、小さく笑い声が聞こえた。顔を上げると、物干竿にバスタオルをかける聖樹さんが咲っている。
「何、ですか」
「いや、何か考えてるなあと」
 僕は何となく頬を染め、「早いなあって思ってたんです」と照れ隠しに言う。
「早い?」
「ここに来て、一ヶ月も経ったんですよね」
「一ヶ月」と服の皺を伸ばして、聖樹さんは首をかたむける。
「十月のなかばでしたよね」
「十月。そっか。そうだよね。早いね。そういえば、膝の怪我ってどうしたっけ」
「治りましたよ」
 しめそうと思っても、ジーンズを穿いていて無理だった。
「あの日は、こんなに萌梨くんと仲良くなるとは思わなかったな」
「僕もです。先月の初めには、聖樹さんのこと知らなかったの、変な感じです」
「はは。ずっと一緒にいるみたいだよね」
 僕はうなずき、ハンガーを取って二枚めのシャツをかける。
「向こう、どうなったでしょうか」
「ひと月だもんね。大騒ぎはしてないんじゃないかな。萌梨くんは心配?」
「多少は」
「まあ、ひと月何にもなかったんだし。いまさらここが候補に上がることはないと思うよ。萌梨くんがここで暮らしてるの、はたから見たら、突拍子ないんだし」
 聖樹さんは咲って腰をかがめ、かごにつめこまれたタオルを手に取る。
 突拍子ない。確かに。
 何の接点もない他人の家に逃げこみ、さらにはのんきに暮らしはじめているなど、誰が予想するだろう。行き倒れて死んだと思われるほうがよほど自然だ。
「見つかってほしくなったり、する?」
「えっ」
「向こうに帰りたくなったり」
「しないです。ぜんぜん。逃げたのも後悔してません」
「そう」と聖樹さんはほっとした笑みをする。「出ていってほしいですか」と僕が愁眉をすると、聖樹さんは首を振る。
「僕は萌梨くんにいてもらったほうがいいよ。ときどき怖くはなるんだ。萌梨くんがそう感じたらって」
「………、どう──やって、感じるんですか」
「いろいろと。後悔にやましくなるとか、将来が不安になるとか。好きで帰りたくなるのはありえないって分かってる。僕といるのが嫌になったりしないかって」
 僕は首をかしげる。
「聖樹さん──」
「僕のこと見てて、憂鬱にならないかなあとか」
「憂鬱」
「僕は、あのことの影響がすごく出てるでしょ。眼鏡かけたり、ほとんど友達がいなかったり、結婚もダメにした。うなされて戻したりなんて、最悪だよね。萌梨くんが、自分の未来を見てる気持ちになって、嫌にならないかなって」
 皺を伸ばす指先の動きを鈍らせる。
 本音では、そういうのもなくはない。けれど、常に思っているわけではない。聖樹さんに詳しく話してもらったりしたとき、そうなのかなあと漠然と感じたりするだけだ。
 僕は頭から無いとは言わず、それを正直に言った。「そっか」と聖樹さんは少しつらそうにする。
「聖樹さんのせいじゃないです。僕が勝手に思ってることです。聖樹さんといて、先が真っ暗だったのが明るくなったりもします。大きくなったら、僕も友達ができるのかなとか」
「そう、なの」
「はい。というか、聖樹さんとか悠紗とかできたんですよね。聖樹さんたちといられるなら、落ち着いていられると思います。あっちでは、分かってくれる人も、分かってくれるって信じられる人もいませんでした。僕にはそっちのが重要です」
 聖樹さんはひかえめな嬉笑をすると、タオルを干した。
 僕はワイシャツをかけたハンガーをかけ、聖樹さんのほうは僕といて平気なのかを問う。
「え、僕は何にもないよ」
「中学生の頃とか思い出しませんか」
「あ、ああ。それはまあ。少し。でも、きちんと拒否できた萌梨くんを見てると、嬉しいのが大きい。もちろん、分かってくれるのが貴重でもあるよ」
 聖樹さんは微笑み、タオルを干していく。そんなものかとやや臆面した僕も、聖樹さんのワイシャツや私服を干していく。
 中学生の頃といえば、昨日僕を迎えにきた聖樹さんに、葉月さんは例の口をすべらせたことを律儀に白状して謝っていた。聖樹さんは苦笑し、「萌梨くんじゃない人だったら言ってなかったよね?」と言った。葉月さんがうなずくと、聖樹さんはあっさり許していた。ほっとする葉月さんに、友達だなあと思ったものだ。その横で、悠紗と要さんは保育園や集団行動の悪口に燃えていた。
 悠紗は保育園を辞めはしなかったそうだ。悠紗は「辞める」と断固言い張ったそうだが、向こうも向こうで「将来のために」とか何とかで譲らなかったらしい。挙句、悠紗は逆上し、電話があったときや僕も一度体験した、朝に登園を拒否するときの壮絶な状態になったという。
 聖樹さんと先生が審議し、ひとまず無期の休暇ということになった。悠紗の意思次第で辞めたも同然の処置でも、きっぱり辞めにいった悠紗は怒った。が、とりあえず、行かなくていいという事実になだめられたそうだ。
 悠紗の荷物を取りにいくとき、悠紗が教室に行くのを拒否したので、聖樹さんは先生とふたりきりになった。そこで聖樹さんは、悠紗の保育園での生活態度を語られたそうだ。
「話しかけられても、無視するとか、冷たいこと言って去っていくとか。先生の言うことも聞かなければ、集団生活を乱してばっかりだとか。将来が本当に心配ですって言われても、僕としたら何て答えたらいいのか分からなかったな」
 母親がいないのが大きいのではないかと言われたのにも、聖樹さんは笑っておくだけだったそうだ。確かに、母親がいないから悠紗はああなれたのだろう。
 母親がいたら、悠紗はあつかいやすい子供になっていた。悠紗にとって、そんな人間になるのがいかに悲劇か、その先生には分からないのだろう。
 帰りに聖樹さんは駅前に寄り道して、悠紗に新しいゲームを買ってあげた。昨日夜更かしをして最終決戦にケリをつけた悠紗は、今、さっそくそれをやっている。それでずいぶん機嫌が直るあたり、六歳なんだよなあと僕は思う。
 悠紗の話をしたあと、聖樹さんは僕が紫苑さんとふたりきりになった時間を心配した。紫苑さんが何かする、ではなく、やはり空気が重くなかったかということだ。
 僕は大丈夫だったことと、家のことを話してもらったのを言った。聖樹さんは一瞬驚いても、「そう」とすぐに納得した。
「紫苑さんにしたら、ざっとした話だったんでしょうけど。家族のことも」
「そう。すごいよね。暴力は子供にでも分かるだけいいなんて勝手なこと思ってたの、紫苑の話聞いて変わっちゃったもんな」
「背中の火傷も見せてもらいました」
「ほんと」
「ひどい、ですね。何か、心にも、軆にも」
「うん。僕は悠にそんなのできないな。親になって、ますます信じられない」
「………、でも、ひどい親っていっぱいいますよ」
 聖樹さんは僕を見て、複雑そうにした。「ごめんね」と言われて、僕はかぶりを振った。
「ギターとおにいさんのこととか、“White Carnation”も聞きました」
「訊いたんだ」
「僕もおかあさんにいい感情ありませんし、それ言ったら話してくれたんですよね。バンド組んだいきさつとか、聖樹さんのことも話してくれましたよ」
「僕。何て?」
「強いって」
 聖樹さんは咲い、「買いかぶり」と言っていた。そのあと紫苑さんや紫苑さんに対する三人のことを話し、また悠紗の話をちょっとした。「月曜日からまたよろしく」と言われて、「こちらこそ」なんて僕は返し、それで昨夜の雑談はお開きになった。
 ベランダが洗濯物でいっぱいになると、洗濯かごは空になる。聖樹さんと僕が揃って部屋に帰ると、「おかえり」とゲームをする悠紗が顔を上げる。「ただいま」と聖樹さんは悠紗の頭に手を置き、時計に目をやった。
 十二時が近い。
「悠、お腹空かない?」
「んー。ちょっと空いた」
「何か作るよ。萌梨くんは悠の相手しててくれる?」
「はい」
 聖樹さんはかごを浴室に置きにいき、僕は悠紗の隣に座った。悠紗は僕を見て笑みになる。
「何?」
「んー、何か」
「何か」
 悠紗はコントローラーをいじる。このゲームもまたRPGで、イベントの際に主人公やその仲間の音声が入っていたりする。
「何かね、これからはね、ちゃんと毎日萌梨くんといられるなあって思ったの」
「ちゃんと」
「僕、ほんとは、どっかで保育園気になってたの。いつか何か言いにくるって。もう、それ、ないよね」
「うん」
「辞めちゃいたかった。でも、おとうさん、卒園式も行かなくていいって言ってくれたし」
「行かないの」
「行かない。学校も嫌」
 言ったあとに悠紗は小首をかしげ、「ダメかな」と上目遣いをしてくる。僕は咲い、「悠紗が嫌なら行かないほうがいいよ」と言った。
「そおかな」
「悠紗が嫌だって思うことは、そう思う通りにしていいよ」
 悠紗は照れるように咲うと、「萌梨くんが言うならそうだね」と言った。その言葉に、僕も照れ咲いした。
 リビングに戻ってきた聖樹さんが、手早く昼食を用意した。悠紗はゲームを中断し、僕は皿を並べるのを手伝う。
「このあとは何してるの」と悠紗に問われると、「掃除もしないと」と聖樹さんは返した。「手伝ってもいいよ」と言う悠紗に、「気持ちでじゅうぶん」と聖樹さんは咲う。
 悠紗に虐待なんてできない。聖樹さんと悠紗だと、そうだろうなあと、たやすく合点がいく。
 家族って不思議だ。どうやったら、聖樹さんと悠紗みたいになれて、どうしたら、紫苑さんや僕の家のようになったりしないのだろう。
 聖樹さんは、悠紗の意思にわりに甘くても、その責任は悠紗に持たせている。放任でも溺愛でもない。悠紗も聖樹さんに育てられることに安心している。
 とりあえず、親のほうがしっかりしてないとダメなんだろうなと思った。それで、しっかりした親になるのはむずかしい。
 昼食のあとは、僕が食器洗いをした。聖樹さんは、ひと休みしたあとに掃除に取りかかる。悠紗はゲームをして、「沙霧くん来ないかなあ」とつぶやいている。
 考えれば、沙霧さんとは一週間も会っていない。進学するにしろしないにしろ、学校がいそがしいのだろうか。もしくは、いそがしい学校を逃げるのにいそがしいか。
 僕は比較的少なかった食器を片づけると、悠紗の隣に腰をおろした。
 昨日ゲームを買いにいったとき、悠紗はゲーム雑誌とロック寄りの音楽雑誌も買ってきた。音楽雑誌は、僕のヒマつぶしのために選んできたらしい。「何で音楽?」と訊いたら、「梨羽くんたち好きだから」と答えられた。僕は、あの四人以外分からないのだけど──厚意なので、今もそれをめくりはじめる。
 しかし、僕には分からない世界だ。目がちかちかして、最近のミュージシャンの容姿ってすごいなあ、というぐらいの感想しかない。梨羽さんたちを見て、あんがいあんなものなのか、と思っていたけれど、単にあの四人が無頓着なだけのようだ。
 巻頭のほうに、サイコミミックというバンドの記事があり、沙霧さんが言ってたのこれか、とそのインタビューは興味深く読ませてもらった。この人たちはそんなに激しいすがたではなくも、茶髪やピアスはいる。
 XENONの記事はない。
「梨羽さんたちのこと、ないね」
「え、そお。ちょっとだけも?」
「うん」
「んー、まあ、いんでぃーずだしね。みんなこういうのから逃げてるし」
「そっか。嫌なんだよね」
「うん。梨羽くんと紫苑くんがね。あとね、音楽のことより昔のこと訊く人もいるんだって。それも嫌だって言ってたよ」
 音楽より昔を訊く。分からなくもない。梨羽さんは知らなくても、ほかの三人の背景はけっこう衝撃的だ。
 XENONに憧れて音楽を始めたというバンドがいたのを思い出す。ファントムリム、ともうひとつなんだったろう。LUCID INTERVAL、だったろうか。どんなものか気になって探してみたものの、XENON同様、メジャーデビューはしていないのか載っていなかった。
 悠紗に断り、ゲーム雑誌もめくらせてもらう。こちらもよく分からなかった。何にも分かんないなあと世間知らずに鬱しそうになり、慌てて振りはらう。
「ゲームで欲しいのあるの?」と悠紗に訊くと、「何個かね」と悠紗は雑誌を覗きこんでどれかを教えてくれた。RPGやアクションや、やはり悠紗は敵をなぎたおしていくのが好みのようだ。現実の悠紗は敵はなぎたおしもせずに黙殺するのにな、と笑いを噛みつつページをめくる。
 その日曜日は、一日そうやって過ごした。
 沙霧さんは来なくて、四人のところにも行かない。こういう日もあっていい。
 あんまりいそがしくなると、僕は思いがけないところで落とし穴に堕ちる。ゆとりを持てた気持ちで遊ぶのもいいけれど、補充も大事だ。
 そう思ってひとり納得した僕は、その日はゆっくり雑誌を読んだり、悠紗のゲームを眺めたりしていた。

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