十年後には
日に日に低下していく気温の中、濡れたものを触ると指がじんと痛くなる。でも、言い出したのは僕だし、このぐらいさせてもらって割に合う世話をしてもらっている。
暖房のかかった室内でゲームをする悠紗を背に、僕は洗濯物を干していた。
日曜日の朝に洗濯物を干すのを手伝い、夕方にはたたむのも手伝った。僕はその夜、やっと、洗濯を担わせてもらっていいかを伝えた。
聖樹さんは、最初は遠慮した。ヒマをつぶせる何かが欲しいのと、役目をもらったほうが安心できるのを提示した僕に考えこみしても、「それでも」と聖樹さんははばかろうとする。
「お休みの日は、一緒にゆっくりしたいです」と僕は言った。聖樹さんはその言葉に再考して、「萌梨くんが無理しない程度なら」と納得してくれた。
月曜日は洗濯物が少なかったし、昨日は天気が悪かった。晩秋にしては晴れ間である今日に、僕は炊事を済まして、こうして洗濯をしている。
洗濯は向こうでは日常の仕事だったし、手間取ったりすることはない。色物は別にするとか、タオルはあととか、所帯染みた知識もしっかり持っている。洗濯機も全自動だったので使いこなせた。「手伝う」と言ってくれる悠紗にも、「ゲームしてていいよ」と返せる。濡れた服に重たい洗濯かごを持っていくのには苦労しても、どうにかこうしてベランダに来れて、干す作業は経験もあってすらすらできている。
手元がとどこおらないと、僕には考えごとをするくせがある。昨日から梨羽さんのことばかり考えていて、今もそうだった。
あの目や、詩や、歌について考える。本当に、梨羽さんは何にもない人なのだろうか。いや、何もないということはない。子供の頃に何かあったと、聖樹さんも言っていた。無神経な人間であったら気にしないようなこと、が。
すでに先々週にさかのぼるライヴのときにも、第三者が出てきていた。子供だったのだから。要さんが言うと、梨羽さんはかぶりを振っていた。子供だろうが何だろうが、許せないみたいに。
幼かったのだからこちらは悪くない。そう思おうとしても、僕もどこかでぽかんとしていた自分が情けなくて哀しい。無知につけこんだ大人を憎むには、破滅に近い喚起性が要される。
梨羽さんは憎んでいる。渾身で絶叫して歌う。歌ったあとにはああしてぐったりし、歌わなければ蓄積にまたぐったりしている。僕が憎んで疲れるのと同様、相手への悪感情を鬱として溜めこむみたいに。
もしかして、と思ってしまうではないか。もしかして梨羽さんは、聖樹さんや僕がされていたことを、もしくは近いことをされていたのではないかと。
昨日の夜、聖樹さんにちらっと言ってみたりした。それはない、とはっきり言われてしまった。聖樹さんは、梨羽さんの刃物を知っているだろう。梨羽さんも、聖樹さんには隠し立てしそうにない。聖樹さんがそう言うのなら、僕も当て推量を肥大させられない。
だけど、僕に酷似したあの死んだ目や、あえて孤独に固執する態度や、砕け散って神経が剥き出しになったような繊細さは、傷口の存在を匂わせる。
僕たちと同じことではないのだろうか。心傷といっても、いろいろある。紫苑さんのようなことだろうか。梨羽さんは、家庭とはあの病的さにしっくりいってないとは聞いた気がする。イジメられたとか。いや、イジメられた人がイジメた人と親しくするとは思えない。とりわけ、梨羽さんのような人は。
家でも学校でもなければ、何だろう。梨羽さんの傷は、少しでも無神経な人なら気にしないと聖樹さんは言っていた。僕が無神経だから分からないのだろうか。それで気にならなくて、見過ごすのだろうか。そう思うと、何やらみじめだった。
洗濯を終えたのは十一時過ぎで、僕は音楽雑誌を理解できないまま読んで、時間をつぶした。
こういうのを読んでいると、ときどき物凄い格好の人がいる。梨羽さんたちがそうじゃなくてよかったなと思う。髪を立てられたり刺青を入れられたりしていたら、僕は成心で怯えて、あのおもしろい中身を直視できなかった。
「悠紗って、好きなバンドは梨羽さんたちだけなの」
悠紗がフィールドに出たところで、ふと湧いた疑問を口にする。
「え。えー、そうかなあ。んー、あの人たちもおもしろかったかなあ」
「あの人たち」
「ほら、梨羽くんたちが好きでバンド始めた人。前のエピレプシーのとき会ったの」
「LUCID INTERVAL」
「そう。それ。あの人たち、そのエピレプシーの最後の日に、要くんたちに乗せられて二曲だけ頭でやったんだよね。詩はよく分かんなくても、音は梨羽くんたちより澄んでてとがってたよ」
よく分析できるなあ、と感服する。僕は梨羽さんたちのように明らかに圧倒的なものしか、すごいとは断言できない。
「ファントムリムって知ってる?」
「梨羽くんの歌でしょ」
「いや、そういうバンドがいるって」
「そなの。知らない。あ、梨羽くんのタイトルを名前に使った人たちがいるっていうのは聞いたかな。まあ、やっぱし梨羽くんたちが一番だよ。要くんたちの話で会ってみたいなーって人はいる。大きくなって自分のこと自分でできるようになったら、梨羽くんたちがうろうろするのについていってみたいの」
部屋にいたがる悠紗の、慮外に積極的な夢に僕がまじろいだとき、戦闘が発生した。悠紗はそれをさっさと片づけ、「けどね」と僕に向き直る。
「おとうさんが心配だったの。ずっとひとりぼっちにしちゃうの怖いんだもん。ダメかなーって思ってた。僕が行くとき、萌梨くんがいてあげてくれる?」
僕は咲い、ひとまずうなずく。
「へへ。じゃ、行けるね。僕、みんなにくっついてっていいかな」
「悠紗ならいいんじゃない。こき使われそうでも」
「それはいいよ。どういうのがどうなのか、自分でやって覚えたいもん。ついてくお金とかは、自分で作らなきゃね。お金稼げるようになってからか。ずっとあとだね」
悠紗は咲ってゲームに戻り、僕は無造作にページをめくった。悠紗が働けるようになる頃、僕はとうに成人している。悠紗がバイト可能になる十六歳になるのは、ちょうど十年後だ。すると、僕は二十四歳──実感はなくとも、聖樹さんや梨羽さんたちぐらいの年齢だ。
生きてるかなあとはさいわい思わなくなっていても、帰らされてないかなあというのはある。十年後、万一ここにいられているとしたら、少なくともずうずうしい居候はやめているだろう。
自分で食べていると思う。演技に気力を張って、一応働いている。
何をして、食べているのだろう。だいたい、僕には学歴がなくなってしまった。定住先もうやむやだ。きちんとしたところでは働けないのではないか。履歴書を偽るか。僕には演技をやりぬく度胸があるか危うい。
未来を案ずると、どうも別の現実的な意味で、生きてるかなあと思わなくもない。
そもそも、十年先も無事だなんて甘いだろうか。おとうさんが分からない。おとうさんは、一生僕の軆を慰み物にするかもしれない。捨てるときは来ない。あるとしたら、おかあさんが帰ってきた場合だが、そんなのは僕がここでのんびりしている以上にありえない。
おとうさんは、僕を犯しつづける。やめない。おかあさんへの妄執を捨てるとも思えない。もうあれは愛情でなく、一種の常習の狂気だ。
最初はおかあさんを愛していたせいだったのだろうけど、今は違う。あの行為は捨てられた事実を認めたくない自尊心で、あの人は僕を利用して、気にいらない事実を書き換えているのだ。おとうさんが薄弱な人間であるかぎり、僕はあの人に巣食う妄念に強姦されつづける。
逃げられない。きっとまだ探しているだろう。ここにも足繁く通い、手当たり次第訊きまわっている可能性が高い。その網羅に引っかかったら。
僕はあの人を知っている。身を持って知っている。どんなに弱いか、どんなに狂っているか、どんなに危ないか。無事でいられる保証はない。
たぶん、逃げられない。逃げられるわけがない。逃げるにはあの人は執念深すぎる。
半年もせずに見つかるだろう。半年後は、僕はまだ中学生だ。あの学校に送り帰される。
先生に蒼白な顔で説教され、悪夢の教室にまた通う。トイレで、裏庭で、教室で、陰ったところで僕はもてあそばれる。
夜になったら、ベッドでまで、おかあさんの代わりを果たさせられる。
半年も持たない。一ヵ月持ったのが奇跡だ。僕はあの信じがたい、意識がどろどろになる渦に帰る。半年もせずに。十年後には確実に。
「萌梨くん」と悠紗の不安そうな声がしてはっとした。悠紗は泣きそうな顔で僕を覗きこんでいた。「大丈夫?」と眉を寄せられ、僕は笑みを取りつくろう。当然、悠紗はそんなのに騙されない。
「僕、また変なの言っちゃった?」
「ううん、違うよ。平気」
悠紗は伏目になり、「ごめんね」とぽつりとする。
「だから、僕、嫌なんだよね」
「え」
「萌梨くんとか、おとうさんのことが分かんないの。知らなくても何にもないなら、こんなに知りたいなんて言わないよ。話してもいいかなあって思ったときでいい。でも、知らなかったら、何が萌梨くんたちにつらいのかも分かんなくて、すぐ変なこと言っちゃったりするでしょ。僕、それが嫌なの」
僕は口をつぐんだ。悠紗はうつむいた。僕は悠紗の頭を撫でて、「悠紗のせいじゃないよ」と言った。
「僕たちが悪いんでもない。悪いのは、聖樹さんとか僕をそんなふうにさせるようにした人たちなんだ」
悠紗は物憂げな視線を投げかけてくる。
「悠紗は気にしなくてもいいよ。悠紗はそれより、僕たちを元気にしてくれることのほうが多い」
「ほんと」と上目をする悠紗にうなずく。悠紗は素直に嬉笑して、「よかった」とコントローラーを握りなおす。僕は悠紗の頭から手を引くと時計を仰いだ。
十二時をまわっていた。ひと休みにもなったし、僕は昼食の用意に取りかかる。
朝がトーストだったので、ごはんがあまっていた。棚にゆがくだけのハヤシライスソースを見つけて、それをかけてごはんを食べてしまうことにする。
「インスタントでごめんね」と言っても、悠紗はいつも喜んでくれる。保育園での一匹狼の味気ない料理より、好きな人との簡易食品のほうが、悠紗には幸せであるようだ。
ハヤシライスで胃を満たすと、悠紗はゲームの続きを、僕は食器洗いをする。悠紗は、けっこうあの新しいゲームにハマりこんでいる。僕は炊事が終わると、雑誌を読んだ。
ランキングや新作情報には、知らない名前ばかりだ。聞いたことがある気がしなくもない名前もあっても、どんなものもなのかはまったく想像がつかない。試しに悠紗に訊くと、「流行りのは知らない」とどうこうの前に答えられた。
「悠紗って、将来音楽したいんだよね」
「うん」
「歌も歌うの」
「えー。誰か探すよ」
「そう、なの。ベースとかドラムも」
「うん。できれば」
「流行とかになりたい?」
「分かんない。梨羽くんたちみたいに、自分で好きって思う人に応援してほしいかなあ。みんな好きだから好きとか、そんなのは嫌。それで、自分で好きって思う人がいっぱいいるなら、流行ってもいいよ」
僕はしばし悠紗の台詞を反芻し、「むずかしいね」と本音をもらした。
言っていること自体はあっさりしていても、よく六歳で、そう理想を簡潔に確立できるものだ。生の破天荒バンドに接している功績だろうか。
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