DAYFLY
「でもね、ほんとはバンドやるか分かんないの。音楽の仕事はしたいし、あれだったら、裏方さんとか」
「いいの?」
「うん。紫苑くんみたいにギター弾く資格があるならやりたくても、普通だったらしないよ。好きなことで終わり」
「うまくなろうとかは」
「んー。うまくなろうと思ってできないとこがうまくできるんだったら、やってもいいんじゃないかな」
「はあ」
「ギターできないんだったら、僕にはほかにもっといい音楽との──何ていうのかな、関わり方、みたいのがあるんじゃないかなあって思うの。それだったら、僕もうまくできるほうのがいいし」
けれども、僕は悠紗のバンドを見てみたかった。悠紗が音楽面も精神面も認めた人たちで組まれるだろうから、僕にも接する価値はありそうだ。「悠紗にギター弾いてほしい人はいると思うよ」と言うと、悠紗は照れ咲って「そうかなあ」と首をかたむけて、ゲームを続けた。
悠紗がバンドを組んだとする。五分五分で、僕はここを引き剥がされ、おとうさんに監禁されている。だったら、売れてもらったほうが助かる。
そうしたら、僕はテレビ越しに悠紗を応援できる。連れ戻されたとしても、僕は遠巻きに悠紗と再会できるかもしれない。
どうもついていけないノリに疲れて、僕は雑誌を閉じて音楽を聴くことにした。同じ音楽でも、XENONなら楽になるのだから不思議だ。
今回もどれを聴こうか悩み、“DAYFLY”が気になって『EIRONEIA』を開いた。装われた無知という意味の、天使のような女の子のファーストだ。再生ボタンを押すと、僕は仕切りにもたれる。
やはりこのアルバムは“悲鳴”に満ちている。あとの二作に較べて、咬みつき方が段違いだ。乱雑な息遣いも、いってしまったような笑い声も、余さず収録されている。セカンドからサードへ、どんどん内的な色が濃くなっている感じがする。
感傷になんか蹴りでいい
誰かにいてほしいだって?
そんな奴は強姦されておしまいさ
俺はひとり
誰もいらない
ひらべったい美女がいれば
愛なんか鬱陶しいだけ
詩もあとのふたつに較べて捻りがなく率直だ。この曲は“淫靡な平面”という。ブックレットに、コーラスだけ断章として載っている。
『愛なんかいらない
もしそれが美しく純粋なものだとしたら
欲しくもない
そんな生温いもので腐りたくないんだ
欲しいのは穢れ
愛より支配
この世のすべての愛を犯してやる』
これは梨羽さんの心の情景ではない気がした。梨羽さんは愛とか女の人について、いっさい歌わない。
これはファーストだ。ということは、要さんたちもこの頃は詩をいじっていた。たぶんこれは、その中の一曲だろう。
内容を読むと、どうもポルノへの賛美だ。梨羽さんっぽい言葉の組み合わせも散りばめられてはいても、断言して要さんか葉月さんが関わっている。それもまた、閉じこもらずに外に咬みつく印象がある原因だろうか。
そういえば、詩が梨羽さんひとりきりでないこういう曲は、ライヴでは歌われなかった。
冒涜の生け贄
鮮血の傷に口づけて
そうしないと生きていけないんだ
不幸こそが奴らの糧
ナイフがなきゃ生きられない
俺はナイフを握ってる
ただひとつおかしいのは
俺はそれをこの喉に突き立ててる
“EPILEPSY”最終日の最後の曲、“VICTIM”だ。梨羽さんの詩だ、となぜかほっとした。
この曲を終えてステージを降りた途端、梨羽さんは泣き出してしまったっけ。あのライヴも合わせて、XENONの曲を何度か聴いたせいか、今こうしてファーストを聴き直すと、純粋に梨羽さんが書いた詩と、そうでないものの差がくっきりしていた。
言うまでもなく、純粋な詩のほうが切れ方は尋常ではない。“顔”というベースがきいた重苦しい小品曲のあと、引き攣った嘲笑が消えると、耳につく長めの余白がある。その向こうに“DAYFLY”が待っている。考えれば、この曲もライヴには連ねられていなかった。
意識して聴くと、けっこう生々しい詩だった。そういうことをされた人なら、嫌でも引っかかってしまうのではないか。“分からないうちに支えになるものを失くした”とか、“疼きさえ感じられない虚しさに支配される”とか、“一日を乗り越えるたび奇跡”とか。
最後のささやきだって、きわどい。息ができなくて今が見えなくて、でもあとに戻るのはもっと嫌で、自分はどこに生きてるんだ、というところには僕は本気で胸が痛くなった。
俺は羽を失くした
みんな羽ばたいていくのに
俺ひとり何度も堕ちてしまう
飛べない俺は風にも救われず
このままひとり
泥まみれで置き去りにされる
どんなに追いこまれたって
命に煌めきが見えない
あんたたちにもがれた羽で
命乞いさえできやしない
俺は死ぬしかない
命なんか苦しいだけだ
聖樹さんはよかったのかな、と思った。本当は言葉にできないものを、こんなふうにかたちにされて。
もちろん、“これは俺の友達の実体験”などとは歌われていない。梨羽さんの詩に、そういう直接的な言葉はない。だから、梨羽さんの経験からの詩とも錯覚しそうだ。
とはいえ、晒されたのは事実だ。だいたい、ほかの人に心を語られてよかったのか。梨羽さんが勝手に書いて録音した、というのはないだろう。やはり、聖樹さんの承諾の上で書き、歌ったのだと思う。よかったのだろうか。僕なら歓迎できそうにない。
コーラスの繰り返しのあとに、歌詞は最初に戻り、あのささやきで曲は締めくくられる。激しい曲が再度破裂し、ジャケットの表示では十三曲で終わりでも、十三曲めの何十分か後に“PARANOIA”というシークレットトラックが現れる。これは同じこのアルバムの四曲めに表示されている“MONOMANIA”の別バージョンだ。
それが終わると、急に消えた爆音に聴覚がはっとして、ここがいつもの部屋なのを思い出す。
悠紗は変わらずにゲームをしていた。時刻は十五時になろうとしている。洗濯物は乾いていないだろう。僕は脚を伸ばし、手にしっぱなしだったブックレットをケースにしまった。一考し、もう一度『EIRONEIA』を聴くことにした。
“DAYFLY”を選曲したくとも、ほかの曲を飛ばすのも惜しい。梨羽さんの悲鳴に脳が痺れて、かえって考えごとがしやすい状態になっている。
“DAYFLY”に対する聖樹さんの心も不透明でも、梨羽さんについても気になる。何で、こんな詩が書けるのだろう。描写にしろ心理にしろ、形容しがたいあのことをまとめるのにわりあい成功している。聖樹さんに質問しながら書いたのだろうか。まさか。なぜそうした経験がなくて、こんな核心的な詩が書けるのか。
けれど、その疑問には他面がある。梨羽さんは、この痛みをよくまとめている。まとめているというのが、僕にしたら、何にもなかったのかなと思わせる。
なぜなら、僕はめちゃくちゃだからだ。大量の深い裂けめに瀕死となり、呼吸するだけで意識がばらつき、踏みしだかれた心は砕け散ってまとめられる代物ではない。もはや、頭も心も冷静さなど持てたものではないのだ。
あの鬱に堕ちたとき、のんきに詩など書いていられるとは思えない。きっと鉛筆を持つ手から震えて、表そうとあのことを追想した途端に苦痛が加速し、紙も視界も涙にふやける。梨羽さんには表現を精神療法にする才能があるとすれば、その謎は払拭される。でも、あの詩はひどく生々しい。経験を引き合わせて書いたとしたら、歌うたびに思い出して、梨羽さんは心を揺すられると思う。梨羽さんはそういう歌手だ。
なのに、あの曲の梨羽さんの声は静かだ。呼吸の乱れや消え入りそうなささやきはあっても、全体的には冷めている。感情が昂ぶれば、そのまま獣のごとく叫ぶ梨羽さんだからこそ、やっぱり人のことで感情はこもらないのかなあとも思える。
実際、要さんや葉月さんが関わったらしい曲の声質も冷静だった。あの静的さは、想像するしかない傷に一歩下がるほかなかった現れなのかもしれない。
膝に頬を当てて、額に長い前髪を流していると、“DAYFLY”がやってきた。子供のままみたい、大人になりそこねた、時間が止まったみたい、成長をしくじった──コーラスの切り口は、聖樹さんの傷が残したものを率直に羅列している。
聖樹さんはいいのかなと思索は回流した。聖樹さんはこの曲の存在を承知しているだろう。自分に向けられたものなのも、悠紗が知ってるのなら、まず聖樹さんも知っている。
代弁されてもよかったのか。聖樹さんは、この曲を聴くとどんな気分になるのだろう。
考えごとをしていると、アルバムは一周していた。衝撃だけ残して耳が覚醒し、外界が雪崩れこんでくる。
いつかしら、悠紗は勉強をしていた。
僕は息を吐いて時計を見上げる。十六時を過ぎていた。
二周を一気に聴くのは、無謀だった。梨羽さんの悲鳴や、紫苑さんの爆音が鼓膜に突き刺さって、要さんの低重音と葉月さんのリズムには頭がくらくらする。ひとまずヘッドホンを外して、まばたきをした。
書き物をしていた悠紗は、物音に顔をあげた。「大丈夫?」と言われて、僕は不明瞭にうなずいて咲う。その反応に、「いいなあ」と悠紗も笑む。
「僕もそうやってびっくりさせてみたいな」
悠紗は無造作にシャーペンをくるくるさせている。
何かに似てる、と思ったらスティックまわしだ。葉月さんに教わったのだろうか。
「悠紗って、最初からギターしかしなかったの?」
「え、何で」
「スティックまわし」
「あ」と悠紗は手をとめて頬を染める。
「最初は、ね、ベース。要くんに教えてもらったの。三歳のとき。ちょっと弾けるよ。次、葉月くんにドラム。紙に書いた奴でだったらできる。ちょっとやったらもういいやって思っちゃって。で、ギターしたらおもしろかったの」
「歌は」
「歌は、分かんない。したことない」
まあ、悠紗はむっつだ。感情をこめて歌え、詩を書いてみろと言ったって経験も語彙も足りない。それに、ギターに目覚めてしまったあとだ。
「梨羽くんと話したの、ちょっとしかないもん。前は紫苑くんとも話さなかった。分かんなくて怖かったんだよね。悪い人じゃないのは分かっても、どうしたらいいのかは分かんなくて。だからギターはしないって思ってたの。でも、話したら普通で、ギターも教えてくれるってなって。で、始めたの」
そっか、と納得する。紫苑さん。どうも初対面だと怯えられるようだ。メンバーの三人はともかく、聖樹さんも僕も、悠紗さえそうだった。でも、一度話してみると、その緊張はだいぶやわらぐ。心を開いてもらった確信ができると、普通に接せる人だ。
コンポを片づけると、手をついて立ちあがった。ずっと座っていたのでトイレに行き、手を洗って昼食の食器を整頓する。
そのあとベランダに出て、洗濯物を見た。乾いてると思ったものは取りこんでいった。ジーンズやトレーナーの厚手のものが残ったほかは、ほとんど部屋に取りこめた。
暖かい部屋にいたので、冷気が肌につらい。急いで洗濯物を腕に抱えると、暖房の中に避難し、「僕もやる」と勉強を中断した悠紗と共同で洗濯物をたたむ。
悠紗と僕で片づける場所が分かるものは置きにいって、そのあとはまた悠紗は勉強を、僕は空白だらけのあのクロスワードの雑誌を広げ、聖樹さんや梨羽さん、“DAYFLY”のことを考えていた。
【第九十八章へ】