風花雪月-1

綻びた日常

 美しいものは、綺麗なことは、正しいのか?
 風が吹いて、花が咲いて、雪が降って、月が光る。
 くそくらえだ。そんなもん、何の意味もない。
 風に肌を晒す。花は摘み取る。雪で芯まで冷える。月まで行く。触れて実らない限り、美しいものなんてただの上滑りだ。
 届かない片想い? 想うだけで尊い? 見返りを求めない?
 くだらない。恋愛は応えてもらえるから幸せなものだろ?
 高校生になって、二ヶ月が過ぎた。たった二ヵ月だ。中学の卒業式で、「高校が別になっても一緒だよ」とぎゅっと抱きついてきた彼女は、新しい高校で即行浮気した。
 一限目の授業をサボって、屋上庭園に来た俺は、網に額を押しつけた。
 何だ。何なんだ。同じクラスで二年。つきあって八ヵ月。浮気まで二ヵ月!
「ごめんね、もう知幌ちほろくんのより彼のことが──」
 昨日、駅前のカフェで「おごるから」とか言われた時点で、嫌な予感はした。そのあと行くつもりだった映画には行かなかった。「最後くらいは」と彼女は言ったけど、「最後だからだよ」と俺はカフェを出た。受験で吸うようになった煙草を吸って歩いていた。そしたら喫煙で補導され、親にひと晩絞られ──
 さっき追い討ちが来た。学校にも補導が伝わっていて、女の担任に冷淡に宣告された。
「停学よ。一ヶ月、謹慎しなさい」
 自殺防止のひんやりした網に、何度も頭をぶつける。五月末のさわやかな空は、気違いの浮いた血管のように青い。
 最悪だ。最悪すぎる。彼女に振られ。親に失望され。まだ友達もいない高校で停学──
「死にてえ……」
 うめくようにつぶやいても、しょせん網には登らない。スクールバッグを手に取ると、緑と泉の屋上庭園をあとにした。
 授業中の静かな校舎を抜け、学校も出ていく。一ヶ月、何をしていろというのだろう。部屋にこもって、『もうたばこは吸いません』とノートに書き続けるのか。
 というか、家に帰りたくない。親は補導ですでにブチ切れていたのに、停学なんて半殺し確定ではないか。
 葉桜になった並木道で立ち止まり、白いガードレールに腰かけた。朝や夕方は濁流のごとく制服で混雑するのに、今はほとんど歩く人はいない。風が抜けて、ざわりと足元の葉の影が揺らめいた。背後では、車がアスファルトをタイヤで切っている。
 所持金は二千三百四十二円。泣きたい。
 ケータイを取り出した。そういやあの女の連絡先消さなきゃな、とアドレス帳を開いた。中学時代の友達の連絡先をたどる。こいつらのところを転々とするしかないか。
 そう思ったときだった。
つかねちゃん、もう会えないのかよ?』
 ……あ。
『とうさんとかあさんには、絶対教えるなよ』
 かち、と詳細を開く。
『もし何かあれば、知幌なら──』
 束、ちゃん。
 これ、束ちゃんだ。高校に行かずに小説を書いてばかりで、伯父さんたちに苦々しく思われて、家出した。そんな、俺の五つ年上の従兄の連絡先。
 ケータイを持ったばかりの小六の冬だった。束ちゃんは家出直前で、俺にだけ住所を教えてくれた。そんなひいきをされるぐらいだったのに、中学に上がって親戚なんて遠ざかって、そのまま忘れていた。引き継がれていることすら、今知った。
 ケータイを持ち直した。よし、メール──いや、ブランク的にメアドは変わっているか。携番は変えていないかもしれない。躊躇う息を飲みこんで、思い切って番号の画面で通話を押した。
 ……コール。心臓が軋む。コール。喉が陰る。コール。指がぶれる──
『……もしもし?』
 はっと目を開いた。
「束ちゃん?」
『……え』
 聞き憶えのある低めの声だ。勢い込んで言葉を発そうとした。そんな俺を、その声はさえぎった。
『切りますんで』
「え」
『あと、すぐ番号拒否るんで』
「はっ? 何でだよ!」
『「ちゃん」で呼ぶ野郎の知り合いなんかいない。じゃあ──』
 何だ。めちゃくちゃツンケンしてるぞ。束ちゃんってこんなだったか。
「待てよ、束ちゃん! 俺だよ、知幌! 従弟の知幌!!」
『あ……?』
「束ちゃんだよな? 俺のこと、忘れた……かな」
 声が消え入って、しばし沈黙が来て、何かこもった物音がしたあと、声が返ってきた。
『……そうか、最後って声変わり前か』
「えっ、ああ、すげえ変わったって言われる」
『何だよ。ビビった』
「………、束ちゃん、口調変わった」
『いろいろやさぐれたんだよ』
「はあ」
 しゅんとしてしまう。そうだ。束ちゃんには、今の束ちゃんの生活があるのだ。いまさら、俺からの連絡なんて──
『知幌か……』
 束ちゃんはぼんやりつぶやき、ちょっとおかしそうに咲った。
『懐かしいな』
「……怒ってる?」
『何でだよ。別に』
「だって、俺とか、もう関わってほしくなかったかなって」
『何かあったか?』
 束ちゃんの鋭い声に、「えっ」と声が揺れる。
『お前は何かあると、すぐ卑屈になってたからな』
 少し黙ったあと、「番号変わってなくてよかった」とぼそりとはぐらかす。
『あのときには、もう黙って変えてたんだ』
「そうなんだ」
『何だ、今高校くらいか?』
「んー、まあ。……でも、停学だって」
『あ?』
「喫煙で補導されて、さっき停学食らった」
『知幌もやさぐれてるじゃないか』
「煙草は受験のストレスだよ。おまわりに気づかないくらい、ぼーっとしてたんだ。その、女に振られて」
『へえ。告ったのか?』
「浮気された。補導で怒りまくってる親に、停学まで知られたらやばいっつーか……。行くとこないんだ」
 そう言うと、だいたい察したような、束ちゃんの深いため息が聞こえた。
「束ちゃん、俺──」
『アパートの住所は変わってない』
「えっ……」
『俺んとこに雲隠れしたいんだろ』
「いいの!?」
『俺に断られて、宛てあんのか?』
「……ない」
『じゃあ、俺んとこ来ていいから』
「わっ、ありがとう! じゃ、今から行く! 何駅? 何線?」
 ややあきれた声の束ちゃんが言った、駅と路線を英語のノートの表紙にメモすると、通話を切って、すぐそのケータイで乗り換えを調べた。
 知らない路線だったけど、まあ家を離れるのだからちょうどいいだろう。手持ちはひとまず、片道足りればいい。
 腰かけたときと打って変わって、ひょいと軽やかにガードレールを飛び降りると、駅へと駆け出した。
 しかし、慎重な束ちゃんが家出先に選んだ場所だけあって、乗り換えはかなり複雑だった。でかい駅でやっと路線を見つけて、急行は止まらないみたいだったので、鈍行で三十分かかって目的の駅に着いた。
 すっかり昼下がりだった。アパートまでどのぐらいだろ、とひとつしかない改札を抜けてロータリーを見まわす。
 マンションはある。でもアパートって言ってたよな、と横断歩道で車道を横切って坂道を登る。右手には団地、左手にはスーパーやファッションセンター──
 一回電話するか、とポケットに手を突っこんだときだった。
「わーっ! おにーちゃん危なーいっ!」
 はい? と顔を上げると、髪をふたつに分けてくくった女の子が、チャリで突っ込んできていた。「えっ」とか言っておろおろしていると、キーッ! と耳をつんざくすごい音を立てて、チャリは急停止する。
 ぽかんとしていると、「もーっ!」と小学校中学年くらいのその子は、チャリにまたがるまま、俺にふくれっ面を向けた。
「ここであたしたちがノーブレーキやるの知ってるでしょーっ。あっち! 歩くなら向こう!」
「いや、知らねえよそんなん」
「おにーちゃんも昔はここでやったでしょ、ノーブレーキ」
「知るか。俺ここで育ってねえし」
「えっ」
 女の子は大きな瞳をぱちぱちとさせ、急にとまどったようにチャリのハンドルを握る。
「……ひ、引っ越してきたんですか?」
「いまさら敬語とかヒくからいいわ。あ、お嬢ちゃん、この町長いのか」
「え、まあ……。そこの病院で生まれたので」
「じゃあ、この住所分かる?」
「はっ?」
「いや、友達がこの町に住んでて遊びに来たんだよ。でも俺、道が分からなくて」
 俺が差し出したケータイを受け取ると、女の子は表示を眺めて「んー」と首をかしげていたけど、「すみれ公園の近くかなあ」と言った。
「ど、どこですかそれは」
「うちの近くー」
「いや、君んちももちろん知らないからね」
「このノーブレーキ登ったらね、左に公園があるの。それがすみれ公園。そこのお向かいにアパート並んでて、そこじゃないかな。あとはこの町、一軒家か団地だよ」
「そっか! サンキュ、助かった」
「んーん。じゃ、帰るときもこの坂は気をつけてね」
「了解」
 しばらく帰らねえけどな、と思っても説明する相手でもない。「ばいばい」と手を振られたので、振り返しながら坂道を登った。緩やかに見えたが、登ってみるとけっこう心臓に来る。個人病院、クリーニング屋、郵便局が面していて、やがて本当に公園が見えてきた。
 入口にアーチがかかって、それを見上げて眉をゆがめる。
『SMILE PARK』──
 腕組みして考え、「あ」と声がもれる。S,MI,LE──ス、ミ、レ。洒落た名前つけられたのに、すみれ公園って……。
 まあいいんだけどな、とあたりを見ると、古びたアパートが並んでいて、その壁の建物の名前が、ケータイの表示と一致している。ということは、3-103は三棟の一階の三号室か。あとちょっとだ。
 見つけた三棟の103号室は名札が入っていなくて、躊躇ったもののチャイムを鳴らした。足音が近づいてきて、すぐに鍵が開いて、ドアも開く。
 顔を仰がせ、そこにあった切れ長の目や凛とした眉を認めた。昔より顎が削れて、肩や腕はがっしりしている。
 相手も俺を観察し、「茶髪とか」とか噴き出して、俺の前髪を引っ張る。俺は眉を寄せ、「変かな」と上目になる。
「いや、軽そうでいいんじゃないか」
「軽くねえよ」
「遊んでそうだなあ」
「遊んでねえって。俺のほうは、浮気とかしたことなかったし」
「何年つきあった?」
「八ヵ月」
 束ちゃんはふんと笑うと、部屋の中に行ってしまった。何だよ、とドアを後ろ手に閉めてついていく。
 すぐ左に簡易キッチン、右にドア、廊下は押し入れに面している。その奥がうっすらクーラーのかかった部屋で、敷きっぱなしのふとんとPCのあるデスク、壁にはレンタルショップみたいに大量のCDがあった。
「え……束ちゃんって、作家になりたいんだよな」
「まあな」
「何で本ないの?」
「押し入れにある」
「CDは隠さないんだ」
「BGMわざわざ隠してらんねえよ」
 CDを何枚か手に取った。洋楽が多い。
「結局、家出までしてどうなの。賞とか」
「一次選考もかすらねえなー。持ち込みしても、『メッセージが大衆的じゃない』とか何とか」
「切ないなー」
「なー」
 束ちゃんはふとんを蹴りやって、敷き布団に腰をおろした。俺も何となくその正面に腰掛ける。
 懐かしい、束ちゃんにしがみついて泣いたときの匂いがする。
「停学って、どのぐらいなんだ?」
「一ヶ月、とか言われた」
「ふうん。煙草でそんなに食らうのか」
「学校によるんじゃない。つか、あー、そうか。停学。まさか俺が停学」
「補導がでかいのかもな」
「たぶん。あー、適当に友達作っとけばよかった。このクラス微妙だなって食わず嫌いしてた」
「友達いたら変わるのか?」
「復学して、戻る場所はあるだろ」
「そんな簡単なもんかね、学校のお友達」
 束ちゃんはあぐらの膝に頬杖をつき、俺はその黒い瞳を眺める。その目は、もっと穏やかな黒だった気がするのに、何というか、冷静な黒というか──
「束ちゃん、変わったなあ……」
 しみじみ言うと、束ちゃんは噴き出して、俺の頭をくしゃっとした。
「あのままでは生きてられないさ」
「働いてる?」
「ウェイター」
「……茶店?」
「食っていけねえよ。夜のほう」
「夜……って、えー」
「コスプレサロンのボーイ」
 うまく想像できなくて、変な顔で束ちゃんを見た。そんな俺に、束ちゃんはまた笑う。
「店来て、女の子選ぶじゃん。好きなコスプレさせるじゃん。あとはその席でサービス」
「お酌、的な?」
「女の子が口で奉仕」
「ま、まさか、個室でさえない感じ?」
「個室だと本強とか面倒だしな。俺たちがテーブル巡回して見張ってんだよ」
「てことは、束ちゃん、毎日AVみたいなのを見てんのか」
「まあな」
「………、ぬ、抜く休憩はありますか?」
「敬語。もう反応しねえな、いちいち」
「……ありえねえ」
 茫然とつぶやく俺に、束ちゃんは苦笑を殺す。
 そして腕を伸ばし、まくらもとの小さな冷蔵庫を開けると、紅茶のペットボトルを取り出した。俺には烏龍茶の未開封のペットボトルを渡す。
「じゃあ束ちゃん、彼女とかもしっかりいるんだ」
「どうだろうな」
 ため息をついて烏龍茶をあおる。冷たい苦みが喉を滑る。
「浮気とかさ……そもそもそのせいだろ。何で。そばにいる男がよければ、卒業式で振れよあの女」
「本気だったのか」
「もう分からない……何も分かんねえ。ただ女が怖い」
「ま、ここでゆっくりしてけよ。ただ、メールでいいから叔父さんたちに『帰らない』は伝えろ」
「えーっ」と抗議すると、束ちゃんは指で俺の額を弾く。
「ったっ」
「捜索願い出たらどうすんだよ」
「出さないよ。補導されたし」
「こんな俺でも出されてんだよ。大家が変人だから、何とかなってるけど」
「え、大家変人なの」
「面倒避けるためなら嘘ぐらい平気でつく」
「俺のことも嘘ついてくんないかな」
「渡す金あんのか?」
「渡してる金あんのか?」
「家賃に上乗せはしてるぞ」
「………、『探さないでください』でいいのかな」
「いいんじゃね。家出なら警察取り合わないからな」
 息をついて、放っていたかばんからケータイを取り出す。
 束ちゃんは、ペットボトルでも澄んだ香りの紅茶を飲みながら、デスクの椅子に腰かけて少しPCをいじる。
 わけの分からない女によって。わけの分からない権力につかまり。わけの分からない校則で弾かれ。
 そうして、俺の現実逃避の居候は始まった。
 風花雪月。風は吹きはじめていた。

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