花散る想い
梅雨入りしない五月末、俺はすみれ公園のベンチに寝転がって、名残る春の陽気にうとうとしていた。
子供たちが集まる時間でもないせいか、公園は静かだ。たまに薄目を開けると、睫毛で太陽がきらきら光る。頭がぼやけて、手足の感覚がはっきりしない。寝不足、とぼおっと思って、ベンチの上で窮屈に身動きした。
束ちゃんの部屋に転がりこんで、三日目だった。束ちゃんの生活は乱れまくっていた。いやらしい意味ではないが。
束ちゃんが起きるのは昼下がりだ。それから二時間ぐらいぼんやりする。夕方から二十時時ぐらいまで、PCに向かう。キーボードの音が乗ってきた頃、アラームが鳴って舌打ちして作業を止める。そして、すでに白いシャツと黒のスラックスを身につけて出ていき、二十二時くらいから朝五時まで例のサロンで働く。始発で帰宅すると、シャワーを浴びて朝陽をカーテンでさえぎり、一気に寝る。
朝に起きて夜に寝る俺には、想像もつかない不摂生だった。この人に較べれば、俺なんて補導も停学もされなくていいではないか。
「知幌、料理できるのか」
置いてもらっている感謝はある。束ちゃんの帰宅で目覚めた俺は、二度寝していいものか、掃除したり食事を用意しておいたりする。
今日も十四時頃に寝起きだった束ちゃんは、さく、とトーストのバターの香りに口をつけながら言った。
「調理実習程度なら」
「掃除もしてるな」
「散らかすより、するほうなんで」
「洗濯どのくらいやれる?」
「えっ、そりゃ、できるなら毎日するもんだよな」
束ちゃんは寝癖のついた頭をかいて、トーストを食べ終わると、「家事やるなら金入れなくていいぞ」とまたふとんに転がった。
「えっ、マジ!? 何で!?」
「あー、でも、着替えとかは自分で出して買え」
「あ、そっか。あとで買いにいこうかな。あったよな、何だ、ノーブレーキ沿いに」
「何だそれ」
「束ちゃん知らないの」
「………、ああ、ガキがよくかっ飛ばしてるあの坂か」
「それって、この町に住んでるなら暗黙の了解?」
「こっちとしては、ただいらっとするからな……」
ごろ、と束ちゃんは寝返りを打ち、まくらもとにあった本を少し読む。ぱら、ぱら、という軽快な速度なので覗きこむと、漫画だ。
「束ちゃん」
覗きこんだまま、俺は束ちゃんの隣に倒れこむ。
「んー」
「束ちゃんって、本気で作家になりたいの?」
「何で」
「漫画って。小説読もうぜ」
「あんなの、字がつながっててかったるいだろ」
「いや、それ書いてますよね」
「読みたいもんがねえんだよ。昔はたくさんあった。昔にあれこれ読みすぎたなー」
確かに、セピアの中の束ちゃんは、いつも本を読んでいた。俺がとことこと近づくと、にっこりとして頭をぽんぽんとして、隣にいさせてくれた。
「読むもんねえから、自分で書いてる感じだな。自分の小説は読む。人のはつまんねえ……」
「そんな小説、実際食っていけるもんにならないかと」
「だよなー。でも、まあ、今の仕事で貯金できるだけしてるから、余生はただ書いてるだけだ」
「作家になりたいんじゃ」
「正直、もうどうでもよくなってきた」
ページをめくった束ちゃんは、「このキャラいいなあ」とつぶやき、しばらく空中を眺めた。そして、いきなり起き上がると「書く」と宣言する。
「ちょい集中するから、お前、服でも買いに行ってろ。下着も忘れんなよ。代えてねえだろ」
「あー、うん、やばい。ATM……いや、銀行あるかな」
「駅前に揃ってる」
「じゃあ行ってくるよ。夜飯の頃には帰ってくる」
「作れよ」
「はいはい。今夜はカレーですよ」
そんなわけで、束ちゃんの部屋を出た。
しかし、夜飯の頃まで時間がある。すぐ服を買いに行ってもいいのだけど──眠いなあ、とたどりついたのがすみれ公園だった。
遊具が充実した広い公園ではない。人いねえな、と確認してベンチでぼんやりしていたのだが、やがて煙草を吸い始め、飽きるとこんなふうに寝転がり始めた。
五月の空は、手を伸ばせば指を吸いこみそうに青い。ほのかな風が肌を撫で、緩やかな陽射しが頬を温める。植木がたまにささやくくらいで、住宅街や道路からの騒音もなく静かだ。
「勝手に使えば」と言われて、昨夜は束ちゃんのPCで動画を見ていた。心霊系動画なんか見てビビっていたら、束ちゃんがへろへろで七時前に帰宅してきてしまって、今日は寝不足だった。
寝る、と腕で目をかばって、いつのまにか、本当に意識がとろとろしてこぼれていって──
「あーっ、迷子のおにーちゃんだっ」
そんな声が耳に飛びこんできたときには、どのぐらい経っていたのだろう。
迷子のにーちゃん。それが自分のことだとは思わなかったが、足音が近づいてきて「香憐!」という澄んだ声が続いて、ん、と顰め面で目を開けた。
「まだ、お友達のおうち見つからないの?」
くるんとした瞳や、両脇の黒髪を分ける白いシュシュ、屈託ない口元を見つめた。「あー」と俺が言っていると、「こらっ」と俺の耳を惹く澄んだ声が、駆け足と共に近づいてくる。
「香憐っ」
ノーブレーキ少女を見、「カレンっていうんだ?」と身を起こす。
「名前が負けてるでしょっ」
「……ある意味」
名前負けの意味分かってねえな、と頬杖をついたところで、細身の女の人が香憐の隣で立ち止まる。
「すみません、この子──」
顔を仰がせた。
仰がせて、止まった。
風が流れて、そのそよ風以外、時間さえ止まった気がした。
緩いウェーヴを右肩で束ね、瞳はおっとりと柔らかい。化粧っけはなく、眉を整えているくらいだ。すごく肌が白くて、透き通りそうで、壊れそうに華奢だ。
しかし──
「あ、この人、おかあさんだよっ」
無邪気な声に、視線の糸がぱちんとはじけた。はじけて初めて、その人の視線も俺で止まっていたことに気づいた。
「あ、ええと──香憐。この人は? お友達のおにいちゃん?」
「こないだねー、迷子になってたから、あたしが道教えたの」
「そう……なの。このあたりに越していらしたんですか?」
「あ、いや、友達のとこに……居候的な」
「お友達のとこ行けたの?」
「ああ、行けたよ。香憐ちゃんのおかげ。ありがとな」
「うん。じゃ、今は何してたの?」
「今、今は……」
上の空で香憐に答えながら、まだとまどってこちらを見つめる母親をちらちら見る。
やばい。何だ。何だ、この好みの完全体は。そうとうタイプなんだけど。
「あー……と、香憐ちゃんは、おかあさんとどっか行くのか」
「学校の帰りだよ」
そう言った香憐は、一回転してピンクのランドセルを見せ、俺はついぎょっとする。
「ピンク!? ランドセルがピンクだったぞ今」
「うん、かわいいでしょ」
「いやっ、ピンク……。ランドセルは赤か黒か二択だろ……」
茫然とした俺のつぶやきに、ようやく母親が咲った。
「昔はそうでしたよね」
「……です、よね。うわー。時代かー」
「えー、ピンクなんて普通だよ。チェックとか星柄の子もいるよ」
「何なんだよ、どうしたんだランドセル。あれ、ってことは、ふたりで帰宅中……?」
「そうだよー」
「いくつだよ」
「七月に九歳!」
「ひとりで帰れないとかないわ」
「しょうがないじゃん、学校が決めてるんだもん」
香憐が頬をふくらまし、その香憐の頭に母親が手を置く。
「最近、変質者も多いですから。保護者との登下校を学校に勧められてるんです」
「あ……そ、そうなんですか」
風鈴が響くようなその声には、視線を彷徨わせてどぎまぎ返す。
「俺の頃は、集団登校でしたね」
「子供たちだけだと危ないみたいで。それに、置き去りにしてひとりで帰らせたりすることもあるんです」
「あー、イジメですか」
「そうですね」
「俺がガキの頃もあったなあ。えーと、おかあさん……は、おいくつで?」
訊いたあとになって、子供がいる女の人に訊くことか、と内心悔やむ。でも、その人はむしろくすりとして、「二十九です」と驚く年齢を言ってきた。
「えっ、にじゅ……えっ?」
「三十路前です。来年、旦那とは十年ですね」
まじまじとしてしまったけど、見つめているのも恥ずかしくなって、目をそらしてぽつりと言う。
「……見えねえ」
その人は咲って、「それと」と続けた。
「『おかあさん』じゃなくていいですよ。あんまり好きじゃないんです。香憐の担任の先生に言われたりするのも」
「あ、すみません」
「いえ。星木佳鈴というので」
「カリン……さん。香憐ちゃんと似てますね」
「似せましたから」
「はは。俺は知幌です。高一ですけど、まあいろいろあって、ちょっと友達のとこに」
「いろいろって!」
会話に入れなくて、いつのまにかむすっとしていた香憐が、突然そう声を上げる。う、となぜか佳鈴さんの前では突っ込まれたくなくて、口ごもる。
「い、いろいろ……は、いろいろだよっ」
「何ー? 家出したのー?」
「こら、香憐。すみません、何にでも興味を持つ歳で」
「いや。俺もうまく説明できなくて」
「じゃあ、そろそろ帰らないといけないので。香憐、行こう」
「おにーちゃん、またここにいる?」
「やることなきゃいるんじゃね」
「てきとー。大人っててきとー」
「……大人じゃねえし」
香憐は首をかしげ、俺は佳鈴さんを盗み見た。髪が風に揺れて、細い指で梳いている。
「儚い」というわけでなく、どちらかといえば、「脆い」。そんな女が俺のストライクなのだ。
でも──
「すみません、最初警戒しちゃって。また、よければ」
そう言って微笑んだ佳鈴さんは、香憐を連れて、その場をあとにした。ふたりが公園を出て坂を下っていくのを見送る。
大人。二十九。十三歳差。子持ち。何よりも、人妻。
だけど。
飛び散るように胸に花が咲く。血飛沫のように一瞬にして咲く。その色彩に、呼吸まで苦しくなる。
ダメだ。落ち着け。次々と咲く花をぶちぶちちぎって捨てる。しかし、空を舞った花びらから、また花は咲く。
花の傷口から香りが揺らめき、息も指も、熱っぽく麻痺していく。腰も足元も、酔ってしまったみたいに崩れ落ちそうだ。
冷静になれ、俺。振られて寂しくて、女だったら誰にでもどきどきする状態なのだ。それだけだ。寂しいだけだ。こんなの──、……こんなの。
そのまま、よろよろと束ちゃんの部屋に行った。鍵が締まっていたので、チャイムを鳴らすと、束ちゃんが仏頂面でドアを開けた。しかし、俺のぶっ倒れそうな目つきに臆し、「どうした?」と肩に手を置いてくる。
俺はため息をついて、そのため息の色が自分で分かって、絶望した。
「束ちゃん……」
そのため息は、深く深く、
「……俺、」
傷ついたように──
「終わった」
紅い。
「恋だ……」
束ちゃんは眉を寄せて俺を眺めた。俺はぐらりと天を仰ぎ、「恋!」と断末魔を踏み躙られた声で叫んだ。
「ストライク来たのに! 俺はガーターだ!!」
「いや、わけ分かんねえよ」
「初めっからガーターのボールなんだよ、ストライクって分かってんのに、ガーターなんだよ!!」
「分からん」
「作家志望があああっ」
「何だよ、幼女でも好きになったか」
「幼女は大人になるからいいよ。待てばいいじゃん。せめてさ、まだ結婚してないとかさ。それぐらいしてくれたっていいだろ」
まくしたてる俺に舌打ちした束ちゃんは、近所迷惑と思ったのか、ひとまず俺を部屋に連れこんだ。俺は情けなくも涙目になっていた。
「はいはい」と束ちゃんは俺の肩を抱いて、廊下を通して部屋に入れ、ふとんに座らせる。俺はしおれるようにふとんに崩れた。
「結婚してる女でも見つけたか」
「……うん」
「マジかよ。っとに、面倒続くなあ。厄払い行けよ」
「あまりの厄で死にたい」
「バカ」
「俺が何したんだよ、せめて希望的な次の恋でもいいだろっ」
ごろごろとふとんの上を回転する俺に、束ちゃんは肩をすくめてデスクに戻った。白光する画面を睨み、少し打ちこんだけど、ため息をついて「逃げた」と舌打ちする。
俺はあのガラス細工のような人を思い返す。また会いたい。あのすがたで目を癒したい。あの声で耳を溶かしたい。同じ空間が欲しい。
でも、それでどうするのだ。口説けない。触れられない。あの人はもうほかの男の手に入っているのだ。
香憐もいて、処女でもない。処女なんて面倒だからいらないつもりだったけど、ざっくり言うと「中古」なのがなぜか複雑になる。旦那とやってんだよな、と思うと急速な痛みに首が絞まる。
「束ちゃん」
「あ?」
「束ちゃんの彼女って、どんな?」
「……さあ」
「『さあ』って。はっ、そういえば俺がいるから連れこめないのか」
「別に。どんななのか、ほんとに分からないし」
「え。……ま、まさか、出会い系のメル友風情を、」
「中学時代のクラスメイトだ」
俺は寝返りを打って、「マジで」と束ちゃんの背中を見る。
「長いな」
「でも、中三になる直前に外国に引っ越した」
「留学ですか」
「親の都合。引っ越すならって告ったら、『私も好きだった』って言われた」
「告ってみたら両想いとか、何の奇跡……。まあ、束ちゃんは昔からモテたよなあ」
「でも、それっきりだ」
「えっ」
「電話もメールも、手紙も来たことない。こっちも知らない」
俺は眉間をゆがめて、理解するのに何秒かかかった。
「……そ、れ──つきあってんの?」
「そういうことになると俺は思ってる」
「いや、すげえポジティヴなのは分かるけどさ」
「あいつが帰ってきて、どうなのかはっきりするまで、俺はあいつが好きだ。待ってるわけじゃない。ただ、別に振られてないから、好きでいていいだろ」
「……束ちゃん、まさかその女に義理貫いて、童貞じゃないよな」
「別にやらなくても困るもんじゃねえだろ」
「童貞なのか!?」
「さあな」
「うわー……。無理。やれないとか無理。やりたいから恋愛だろ」
束ちゃんは、切れ長の目で俺を一瞥する。「分からん」となぜか俺が苦悩している。
そんな俺を束ちゃんは鼻で嗤い、「あんまり遅くなると、銀行でも手数料出るぞ」とPCと向かい合う。それで俺は、そういえばほぼ昼寝をしていたせいで、まだ服を買っていないことに気づく。
「そうだ、やべえ。行ってくるわ」
立ち上がって玄関に向かい、ドアを抜ける。
夕方が始まろうとしていた。風が抜けて、茶色の前髪が視界をかする。太陽が熟れた鬼灯のように紅い。
それを見つめて、急に切なさがこみあげ、背中でぱたんとドアを閉める。
香憐くらいの歳の頃、初恋を赤い実が弾けるという表現をした国語の授業があった。あれは間違いだ。なぜなら、弾けるほど熟れるには、実っていなくてはならない。
ただ咲いていく。花びらが募っていく。どんどん胸の中が、実らない極彩色で鋭敏になる。
どうしよう。佳鈴さん。名前だけで視界が潤みかける。
こんなの、問題外だ。俺は高校生にもなりきっていない十五歳で。あの人は九歳が近い娘がいる人妻で。
なのに、何で俺の心臓は、こんなにどくどくとせりあげるように脈打っているのだろう。
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