風花雪月-3

どんなに息を切らしても

 煙草が切れた。普段は中学時代の友達が働くコンビニで、そいつのシフトのときに買っていた。
 無論、この町にそんなツテはない。別になかったらなかったでいいのだけど、束ちゃんは仕事中の真夜中、駅に出る前に一件あったコンビニに行ってみた。
 が、若い男の店員は、嫌味なくらいの笑顔で迎えたくせに、煙草の銘柄を言うと「高校生ですよね」と眉を寄せやがった。仕方なくからあげを買ってごまかして、コンビニを出た。
 明日には六月に入るけど、風は湿気っていない。溜まって騒ぐ中坊は無視して、細い上限の月を眺める。
 からあげを無造作に口に放って、じわりと染み出た肉汁を噛みしめる。
 停学から一週間も経っていない。一応、捜索願いは出されていない。
『友達の世話になる』と母親のケータイに送ったら、その友達の住所を教えろとか話をさせろとか来たけど、ただ毎朝『おはよ』とひと言メールして、無視している。まだしばらくご立腹だろう。
 からあげ意外とうまいな、ともぐもぐ食べていたときだ。開いた自動ドアから、「ありがとうございましたー」とさっきのにいちゃんの声がした。
 勝手にいらっとして、横目をした俺は、「あ」と声をもらす。その俺の声に、その人も立ち止まった。
「あ……、こんばんは」
 澄んだ声で頭を下げたのは、佳鈴さんだった。突っ立ちそうになったけど、急いでからあげを飲みこんで、小さく会釈する。
 零時が近い。香憐はもちろんいなかった。
 佳鈴さんは、髪は束ねていても、昼間と違ったパイル生地のくつろいだ格好をしていた。その上にオレンジの薄いカーディガンを羽織っている。
 俺は、安売りしていた黒いプリントTシャツとストレートジーンズだ。
 俺の手元を見た佳鈴さんは、ちょっと咲う。
「え、あ……」
「つい、買っちゃいますよね」
 佳鈴さんは提げているふくろを持ち上げ、そこからからあげの香気がただよったのに気づく。
「あ……そう、ですね。うまそうだし」
 煙草を買おうとしてごまかしたなんて言えない。まあ、うまそうというか、うまいのは確かだが。
「佳鈴さんは、」
「えっ」
「えっ」
 俺たちは目を開いて顔を合わせる。
 って、俺のほうがちょっとしか目線が高くないってどういうことだ。低身長が恥ずかしい。
「あ……す、すみません、どうぞ」
 佳鈴さんはそう言って顔を伏せ、俺は言葉につまってしまう。
 何。何だ。何かおかしかっただろうか。
「いや、えと……」
 声を遊ばせて変にきょろきょろする。風が抜けて、佳鈴さんの髪が揺れ、コンビニの白光がさしこんだ。その光に、佳鈴さんの震える睫毛と薄紅の素肌が覗けて、え、ととまどう。
「か、佳鈴さん──」
「……ごめん、なさい」
「えっ」
「私が、言ったことなのに。名前で呼ばれるって、久しぶりで」
「あっ、す、すみませんっ。馴れ馴れし──」
「いえっ、そんなわけじゃなくて。その、何か、照れますね。男の子に名前を呼ばれるなんて」
 どく、どく、と胸の血管が痛いほどうねる。
 やばい。かわいい。
「あ、話の腰折っちゃって」
「いえ、ぜんぜん。つか……あ、あれ。何話そうとしたっけ」
 佳鈴さんが俺を見上げる。佳鈴さんの瞳に俺がいる。似合わない正装をしたときみたいに、誇らしさが嬉しいのに、恥ずかしさで息苦しい。
「え、えーと、その……」
 考えようとする──のだが、佳鈴さんの視線が脳細胞を痺れさせる。脊髄は麻痺しているのに、五感だけは毛羽立つ。
 優しい匂い。柔らかな気配。仕草の衣擦れ。
 佳鈴さんの細い指が、ビニールぶくろを握りしめた。
「あの、じゃあ──」
「あっ、からあげだ」
「え?」
「いや、その──佳鈴さんも、からあげとか食うんだー、とか……」
 何言ってんだ俺……。情けなく頬を熱くさせると、佳鈴さんはくすりとした。
「ついでですけどね」
「え」
「旦那が突然竹輪が食べたいって言い出して」
「ちくわ……」
「今食べたいって。そう言い出したら、食べるまでどうしようもないんです」
「……ガキですか」
 思わず毒をこぼしてしまったが、佳鈴さんは気にした様子もなくにっこりとした。
「そうですね、大きな子供です」
 あんなに俺に熱を通した佳鈴さんの笑顔が、一瞬にして俺を冷たくさせる。赤から青へ、血の色が変わるのを体感するようだった。
 くっそ……。旦那。愛されやがって。
 何でだよ。何でこの人は、ほかの男のものなんだ。その肌に触れるのも。その唇に口づけるのも。その奥をつらぬくのも。何で全部、ほかの男の権利なんだ。どうして、すでに絶対に手に入らないことになってるんだ。
 納得いかないなんてもんじゃない。気に食わないなんてもんじゃない。
 噛み合わない歯車の軋めきに、いっそ、狂ってしまいたくなる。わけが分からなくなれば、心神喪失で、壁なんて打ち砕けるのに。佳鈴さんが望まなくても、いや、望まれないと分かっていても、その細い軆を、腕の中に掻き抱くことが──……
 佳鈴さんが去って、腕時計を見ると、零時を過ぎて六月に入っていた。
 晴れた夜なのに、乱暴な土砂降りのように想いが降る。それは全神経を濡らして、心に沁みて、もどかしさとして溜まっていった。
 次の夜、少し期待してそのコンビニに再びおもむいた。だが、毎日旦那のわがままがあるか、そのわがままがいつ発動するか、コンビニで済むかも分からない。いるわけがなかった。
 まあそうだよな、と非番で部屋にいる束ちゃんに頼まれた紅茶を買って、部屋に戻った。
「束ちゃん」
 俺が買ってきた紅茶を飲みながら、PCに向かっていた束ちゃんは、ふとんに伏せっている俺の呼びかけに「あー?」と返事はよこす。
「俺、やばいかもしんない」
「そうか」
「ストーカーになれる奴、すげえなって思う」
「……そうか?」
「つきまとって、相手のこと調べて、挙句は殺して、すべてそれに対してポジティヴシンキングだぜ!?」
「ストーカーってポジティヴなのか?」
「うざいかもってぜんぜん思わないんだぜ。気持ち悪いかもって怖くならないんだぜ。迷惑だって気づかないんだぜ」
「バカなだけだろ」
「俺はもう、なれるものならストーカーになりたい」
「やめとけ」
「ストーカーになれば、行動パターンも分かるし、見てられるし、いつもそばにいられる」
「やめとけ」
「でもなれないっ」
「うん」
「なぜなら、ストーカーしたら、確実に嫌われるっ……!」
 束ちゃんは答えず、キーボードをたたいた。俺はまくらに顔面を埋め込み、脚だけばたばたさせた。息が苦しくなって顔を上げると、本当に泳いだみたいに、顔に前髪が貼りついている。
「香憐から陥落していけばいいのかもしれん」
「子供がお前に惚れたら、それこそ終了だろうが」
「好かれすぎず……とか、あーっ、どうするんだよ、どうすればいいんだよっ」
「隣人のために叫ぶのをやめろ」
「束ちゃんならどうするんだよ、好きな人が人妻とか……AV設定かっ」
「AVなら、逆にやれるんじゃね」
「やれねえよっ。実際の人妻は、男を異性として見てねえよっ」
「現実って平和だよなー」
 俺は唸って、まくらで束ちゃんの背中がある背凭れをたたいた。束ちゃんはそんなのは無視して、画面を睨んで表現の吟味に夢中だ。夜は集中できるらしい。むくれてふとんに仰向けになった俺は、肺から大きなため息をつく。
 束ちゃんは週六で働いている。だから、翌日はしっかり仕事なので、その日も朝七時に就寝するのは同じだった。
 ふとんでごろごろしているうちに寝てしまった俺は、朝、束ちゃんに「交代だ」と蹴りで起こされた。「束ちゃん、マジでキャラ変わった」と半泣きで目をこする俺も無視し、束ちゃんはすぐ寝てしまった。
 ここに来てから、午前中はコインランドリーに行ったり、食事を用意したりで過ごす。昼下がりに束ちゃんを起こすと、無駄口をたたくときもあれば、外の空気にあたりにいくときもある。
 そういうとき、下校する香憐と佳鈴さん、あるいは友達と一緒の香憐を見かけたりした。前者のときは俺にタックルしてくる香憐だが、友達といるときは華麗に無視する。まあ、友達と共にこんな怪しい野郎に関わろうとは思わないか。
 その日は天気がよさそうだったので、コインランドリーに洗濯物を乾燥まで預けると、終わるまでの三時間、そのへんをぶらぶらしにいった。
 何にもねえ場所、と思っても、駅に出て違う街に冒険に行かないのは、金がないからではなく、身を隠したいからでもなく、うろうろしていたら佳鈴さんに遭遇できるかもと期待しているからだ。
 ここに来て一週間過ぎたくらいだけど、すみれ公園だと、逢えても香憐がセットだ。ふたりきりがいいなー、とだいたい時間をつぶすようになったのは、さすが相手は主婦、坂を下ったところにあるスーパーだった。
 スーパーの出入り口にガチャガチャが並んでいるので、俺はそれに興味があることにしている。本当は、最近のアニメも人気のキャラも分かっちゃいないのだが。
 しゃがんで覗いて、毎日、二百円でどれかひとつはまわす。それは全部束ちゃんに渡して、それを束ちゃんは、アニメとかフィギュアとかが好きな仕事仲間に渡す。二百円ずつ、毎日捨てているわけだが、そんなもん、佳鈴さんに遭遇できればどうでもよくなる。
 でも、佳鈴さんには地元の目もある。遭遇しても、長い時間は過ごせない。一緒にスーパーの中は歩けないし、一緒に家まで並んでいくこともできない。せいぜい坂道沿いを歩く程度で、住宅地の中まではついていけない。
 佳鈴さんが提げるスーパーのふくろをちらりとして、苦い憂鬱に喉を圧迫される。今夜の夕食の材料だろう。
 メニューを訊くことはできる。肉じゃがとか。魚の塩焼きとか。咲って話してもらっているのに、俺はうまく咲い返せない。そんな汚い自分が忌ま忌ましい。
 だって、咲えるか? 俺がその手料理を食えることは、決してないのだ。佳鈴さんに毎日料理を作ってもらう。それを食べる。その資格は、ほかの男だともう決まっている。そんなクソみたいな予定調和、どうやって咲えっていうんだ?
 何で、結婚してるんだ。どうして俺に出逢う前にとっとと決めちまったんだ。
 咲ってくれてるのに、どうあがいても手が届かない。遠くて遠くて、いくら息切れして追いかけても、俺には佳鈴さんは蜃気楼だった。

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