覗いた隙間
「何、この黒い物体」
寝ぼけ眼の束ちゃんは、俺が引っ張り出したテーブルに並べた皿のものに眉を寄せた。
「ハンバーグですが何か」
「……名状しがたいかたちをしてるんだが」
「味は変わらんから気にしないでよ」
「変わらんって、知幌のハンバーグ初めてなんだけど」
言いながらも束ちゃんは箸を取り、ハンバーグとは名状しがたい、肉団子に近いそれにぐさっと刺す。俺も正面に腰をおろし、白いドレッシングをかけたキャベツの千切りを口に投げる。
「二週間くらいか」
「ん」
「知幌が来て」
「そうだねー」
「ねー、じゃねえよ。お前、あと二週間で家に帰るんだろうな」
束ちゃんを見た。束ちゃんは、匂いは程良いハンバーグらしきものに、ケチャップをぶっかけている。
「め、迷惑──」
「そんなんじゃねえけど。一ヶ月が半年になってるとかは、さすがに無理だ」
「……帰るよ。ちゃんと」
「じゃあそんなに悩むな」
「え」
「帰ったら、もう会うこともない相手だろうが」
どきりと刺さった心臓に、箸を持つ手がこわばる。
「会えない会わない覚悟で、次の恋まで勝手に想うのも自由だけど。お前は、やりたいんだろ?」
「やり……たいというか」
「俺の恋愛のことはそう言ったじゃないか」
「いや、中二から二十歳すぎまでは半端ないじゃん」
「想ってたらそのくらいあっという間だ。その覚悟はないんだろ」
俺はハンバーグらしきものをつついた。焦げ目があるものはなるべく自分にまわしたから、黒い。
「知幌がそういう感覚なら、あきらめたほうがいい」
「……でも、好きだもん」
「掠奪するほどなのか」
「できるならしてるよ」
「やればできるだろ」
「結婚してんだぜ。子供だって──」
「だから何だ?」
「………、」
「言い訳探してる時点で、知幌は負けてんだよ」
視線をうつむけた。束ちゃんは、無頓着な表情でハンバーグらしきものを意外とがつがつと食らっている。「うまいの?」と訊いてみると、「確かに味はハンバーグだ」と返ってきた。
反省しなさいと停学になって二週間だ。ここに来て、反省なんてしていない。人妻を叶わない恋なんかしている。
でも、よく考えればそうなのだ。ここは俺の住む町じゃない。移り住む予定もない。あの人から俺に会いにくるなんてないのだから、俺がこの町を離れたら、何もなかったことになる。いらない走り書きだらけになって、次のページにメモ帳をめくったように。
今日は小雨が降っていた。集中したいと束ちゃんに部屋を追い出され、傘もなくて、小走りにスーパーに行った。
このあいだ、束ちゃんの同僚からジャンルのリクエストが来た。確認したらご指定のガチャがあり、最近はそればかり試している。カプセルを唸って開けて、「あ、出た」とか睫毛をしばたいていたときだ。
「こんにちは」と声がかかって、はっと振り返ると、傘をおろす佳鈴さんがいた。
「あ、あ──」
こんにちはと返せばいいのに、逢えるのを期待していたのに、本当に目の前に現れると舌がまわらない。もつれ気味に「どうも」と言うと、今日も質素なのに淑やかな佳鈴さんは、瞳をやわらげて咲った。
「お目当てですか?」
「えっ」
「それ」
佳鈴さんは俺の手の中のストラップを見て、「ああ」と俺は照れ咲いする。
「まあ、はい」
「よかったですね。いつもまじめに選んでるから」
う……。違っても、説明などできない。佳鈴さんの中で俺にヲタイメージがつくのは嫌で、ストラップはポケットに突っ込むと話題を変える。
「そういえば、こないだ、香憐見かけましたよ。友達と一緒でした」
「そうなんですか。あ、もしかしてみんなに──」
「い、いえっ。スルーされました」
「そうですか。って、それも失礼ですね。すみません」
「友達といたら、こんな野郎に絡めませんよ。というか、親といてもあんま話しかけないかな。あの子、何で俺に構ってくれるんだろ」
「あの子は知幌くんを──」
名前。ぎゅっと胸が疼く。
「気に入ってるみたいなので。対等に話してくれるから好きなんだと思います」
香憐に気に入られてもな、と内心息をつく。いや、香憐に気に入られていけば、突破口になるのだろうか。
「旦那も、最近はあんまり警戒せずに話聞いてるくらいですから」
「えっ」
「知幌くんのこと、香憐がよく旦那に話してますよ」
……旦那、俺のこと知ってんのか。あまり知りたくなかった事実に、一気に気分が冷えこむ。
旦那は俺をどう思っているのか。きっと、優越感すらないのだ。較べてすらいない。「妻に気がある野郎」でなく、「人の良いにいちゃん」とでも思っているのだろう。
顔には出ないようにしても、握った拳で爪が手のひらに食いこむ。
「そういえば、知幌くんのご家族の話って聞きませんね」
「あ──今、ちょっと、冷却中で」
「あ、悪いこと訊きましたか」
「いえ。ただ──」
停学中、なんて言えない。しかし、こんな時間にふらついて、不登校とか中卒とかは思われているのか。
「今は、お友達のところなんですよね」
「あ、はい」
「寂しく、ないですか?」
「へっ」
「いえ、彼女さんは一緒ではないみたいだから」
「え、かの──」
いない、ですけど。そんなもん、いたらここに来ることにすらなってなかったんですけど。
「知幌くんには」
佳鈴さんは、わずかに顔を伏せて続けた。
「いい、彼女さんがいますよね」
──へ?
佳鈴さんを見た。そして目を開く。その俺の反応を見取ったのか、「買い物行かなきゃ」と佳鈴さんは目を合わせずに店内に身を返した。でも、束ねる髪が流れて現れた首筋にも、頬と同じように、薄紅が映っていた。
何。何だ。何でそんなことを言って、睫毛の角度を傷つけて。声を虚しく霞ませて。
どういう意味だよ。まさか──
「勘違いさせる言葉だって、単に恥ずかしくなったんだろ」
そのあと、雨が激しくなってきた。佳鈴さんを待ちたかったけど、待っていたってそそくさと避けられそうで、それに無駄に傷つきそうで、ビニール傘を買って部屋に戻った。
束ちゃんはもう白いワイシャツと黒いネクタイ、黒いスラックスという支度を始めていた。安い傘では雨を凌ぎ切れなかった俺には、タオルを投げてくる。
髪や肩の水分を取ると、俺はくしゃくしゃのふとんに包まった。佳鈴さんのことを話すと、束ちゃんはギロチンよりあっさりそう言った。
「そう、かなあ」
「ほかに何があるんだよ」
「……いや、」
「お前のいもしない“彼女”に嫉妬? それとも、お前の“彼女”になりたくなった?」
「……露骨に言われると、ありえない感じがするからやめて」
「ありえないだろ」
「う……」
「知幌の言い訳に添うなら、ありえないだろうが。結婚してるんだ。夫がいるんだ。子供もいるんだよ」
「そう、だけどさ」
「相手にされないから奪わないんだろ」
束ちゃんは壁に足をついて、裾を折る。「脚縮んだの」とか訊くと、「水が跳ねてたら、オーナーがうるさい」と面倒そうに答えた。その横顔を見つめ、「束ちゃんは奪われないんだね」とごろりとふとんに転がる。
「あ?」
「すげえ店の女に口説かれそう」
「口説かれるよ」
「普通に言うし」
「女の子には手出し厳禁だから」
「手出しOKなら食う?」
「性病が嫌だ」
「彼女への義理立てはないのかよ」
「あいつ以上の女がいないだけだ」
さり気ない程度に裾を折った、束ちゃんのそっけない真顔を眺め、「のろけやがって」と俺はふとんに首までもぐりこんだ。束ちゃんは俺を一瞥すると、下げていた黒のネクタイを慣れた手つきで堅苦しく締める。
「まあ、鎌くらいかけてみれば」
「え」
「期待するなら」
束ちゃんはもう何も言わずに支度して、出かけていった。俺は電気の下でうつむき、被っているふとんの中をもぞっと動く。
鎌。どんな反応が来ても、俺はどうしたらいいのか分からないのに?
桃色が溶けた、白いうなじが脳裏を離れない。俺にはいい彼女がいる。そんなもんいない、と言ってみたら。
「冗談でしょ」と信じないのか。「意外だね」とびっくりするのか。あるいは。傷んだ睫毛と、滲んだ声と、染まった肌からたどってしまう反応は……
翌日も、雨が続いていた。けれど、俺はこもらずにスーパーに行ってしまった。ガチャガチャは昨日と同じものが出た。でも、佳鈴さんには逢えなかった。
束ちゃんが代わりに買ってくれた煙草を一本吸うと、ゴミ箱の灰皿に捨てて部屋に戻った。束ちゃんの出勤を見送ると、PCでいい加減に動画を眺めていた。
ここに来てから、あんなにヒマつぶしにいじっていたケータイにほとんど触っていない。朝かあさんに短くメールはするから、着信が溜まっているのは知っている。
でも、高校関連からの連絡はいっさいない。まだ誰ともメアドも交換していなかった。もう行きたくねえな、と時間が置かれるほど気鬱が沈殿する。
高校も酷なことをする。悪いのは煙草を吸っていた俺だけど、今停学処分にしたら、クラス替えまで──下手したら卒業まで、俺が浮くのは考えなかったのか。
煙草なんてみんな吸ってんのに、とデスクから転がってまた煙草を吸って、灰色のため息をついて、ふと雨音がしなくなっているのに気づいた。
佳鈴さんの仕草が頭の中をひるがえる。束ちゃんの言葉がちらつく。感情が堕ちていく。不安のように暗く、いら立ちのように白く、言い知れない焦慮は、吐き気まで呼んで神経をがりがりと引っかく。
煙草の箱が空になったとき、今日何度目か分からない舌打ちをして、雨が降っていないのなら夜風にでも当たろうと立ち上がった。
ドアを開けると、肌に触れた空気は湿って冷たかった。降ってないよな、と手をかざして確認して部屋を出る。
すみれ公園でも行くかあ、と思ったけれど、よく考えたら、ベンチは濡れていて座れないだろう。どこ行こうかな、とあてもなく暗い坂道を下って、ふと頬にコンビニの白光が触れて顔を上げた。
そしてそのとき、ぴりぴりととがっていた心臓が、大きな痙攣ですくんだ。
「あ……」
すくった砂みたいに声がこぼれて、コンビニから出てきた人がこちらを見た。その人も、俺を認めて目を見開く。
何、だよ。待ち構えていたスーパーでは逢えなかったのに。こんな、息も煙たくて、髪も服もぼさぼさのときに。
佳鈴さんは俺に会釈した。俺は麻酔で崩れるような筋肉にどぎまぎとしかけても、とりあえず佳鈴さんに駆け寄る。
「こんばんは」
声が裏返らないように言うと、「こんばんは」と佳鈴さんはこの雨上がりの風によく合う澄んだ声で言った。
「雨、やみましたね」
「です、ね」
「予報だと、朝にまた降り出すみたいですけど」
「え、マジですか。あー、梅雨ですね」
「ほんと。洗濯物、乾かない」
苦笑する佳鈴さんは、今夜もいつかの夜のようにくつろいだルームウェアだ。シャンプーの匂いが温かい。風呂入ったのか、とぼんやり思って、思ったらイメージまで頭に浮かびかけて、焦ってかき消す。
「乾燥機は使わないんですか」
「そんな、ついてないですよ。全自動ですけど」
「あ──まあ、俺も家はそうか」
「お友達は、乾燥機つきの洗濯機なんですか?」
「いや、むしろ持ってないです。コインランドリーですね」
「そうなんですか。乾燥機って縮みません?」
「どうなんですかね。俺はもともと服がルーズなんで、あんまり分かんないです」
「そんなファッションが似合うからいいですよね。私がルーズなんてやったら、だらしないだけ」
「そ、そんなことは」
「若い頃も、そんなにルーズな服装ってしなかったなあ。ふふ、お似合いにはなれそうにないですね」
咲う佳鈴さんに、心にトゲが刺さった小さな確かな痛みを覚える。
……いらない。そんな牽制いらない。されなくても分かっている。俺なんか、その眼中には──
入らないのか、と佳鈴さんをじっと見つめる。俺の硬い視線に、咲っていた佳鈴さんはとまどって、笑みを消え入らせる。
ゆっくり、刺さったトゲが抜ける。そして空いた粒のような穴から、信じられない量の血が広がっていく。
「……いませんよ」
「えっ」
「彼女なんていないです」
「え、あ……」
「いましたけど。浮気されて振られました」
佳鈴さんがビニールぶくろを握りしめて、がさ、と音が立つ。また、旦那のわがままを許して買い物に来たのだろうか。
「旦那さんはいいですね」
「えっ」
「佳鈴さんのこと、俺だって……嫁にしたいですよ」
佳鈴さんが睫毛を押し上げて、大きな黒目が俺の瞳にぶつかる。
突然、俺は我に返った。え。何を言った。今、俺──。
毒々しい血は一気に赤面になって、「あ」と泡でも吹くように言い訳を連射しそうになる。が、佳鈴さんが思いつめた表情で顔を伏せているので、タイミングを失う。
「あ……の、」
「……夫は」
佳鈴さんの目は、うつむいて陰っていたけれど、確かにあきらめて、閉ざされた施錠に鈍く重い。
「そうは、思ってないですけどね」
「えっ」
佳鈴さんは、顔を上げた。ふくらみはじめた月とコンビニの明かりで、佳鈴さんの瞳が微笑んでいるのは確かだったのに、なぜか積もった哀しい根雪を感じさせた。
「そろそろ帰らないと。香憐が起きたら心配しますし」
「あっ、あの──」
「おやすみなさい」
俺の声は断ち切って、佳鈴さんは俺のかたわらをすれちがっていった。同時に、その緩やかな髪から、甘やかな芳香を俺の中にすべりこませた。
それは多幸感じみた呪いのように、俺をその場に縛りつける。反応しなくてはならないのに動けなくて、ただ鼓動だけ聴いて、香りが残像がするあいだは立ち尽くしてしまって。
振り返ったときには、もう佳鈴さんはいなかった。
何……だ。
まさか。ありえない。
そんな可能性、都合がよくて考えもしなかった。
雨を懸念してか、今日はコンビニの前に中坊もいない。虫も鳴き始めていない。
静かだ。坂道の先は暗くて、コンビニの中以外に人もいない。名残る雨の気配が、街路樹や植込みの土の匂いと緑の匂いを蒸している。
そうは、思っていない。佳鈴さんを嫁にしたい、とは旦那は思っていない。
佳鈴さんの幽閉されたような口調と、ぽっかり乾いた虹彩が識閾をうつろう。凍えた孤独の心象が揺らめく。
何だ? どういうことだ? 佳鈴さんは幸せじゃないのか。
十三歳差。結婚して十年。子供がいる。
それでも、俺が佳鈴さんに入りこむ隙がある──そういうことだっていうのか?
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