雨、傘、涙
「おにーちゃん、風邪引くよ」
すみれ公園のベンチで仰向けになって、灰色の雲がこちらへとうごめくのを見ていた。ときおり空が覗くことはあっても、白いちぎれ雲は、しばらく見ていない。いつも景色は薄暗く、湿気って、どこかで水音がしている。
降るかなあ、と思っていたら、さっきついに小雨が降りはじめた。ぽた、ぱた、と額や頬や腕に雫が咲く。濡れる、と思っても重たい胸のせいで動く気がしなくて、そのまま夕闇に溶けるように湿っていたら、不意にそんな声がかかった。
俺は首を捻じり、「よう」と言った。傘をさして見下ろしているのは、香憐だった。佳鈴さんはいない。香憐もランドセルを背負っていない。
「友達は?」
「遊んできた帰りだよ」
「そっか」
俺は天に向き直った。まぶたに雨滴が落ちて、目をこする。
「ねー、風邪引くってば」
「引いたら引いたでいいよ」
「ダメだよっ。バカになっちゃう」
「あ?」
「夏に風邪引いたらバカになるんでしょ」
「バカになる、っつーか……」
ぐったり身を起こし、思ったより水気を含むシャツとジーンズに息をつく。したたる前髪をはらって香憐を見て、その面影の元に目を伏せてしまう。
空気が黒ずんでいるみたいに、呼吸が苦しい。
「香憐」
「あーあ、すごい濡れてんじゃん」
「訊きたいんだけど」
「ん?」
「お前のパパとママって、どんな感じ?」
ハンカチを取り出していた香憐は、きょとんと手を止めた。
「どんなって?」
「そりゃあ──仲いいとか。……悪いとか」
「普通だよ」
「『普通です』って答えていいのはガキだけだ」
香憐はむうっと頬をふくらませても、水色の傘の下で蒼く染まりながら首をかしげる。
「別に、仲いいと思うけど」
「ほんとに」
「おとうさん、あたしよりおかあさんのほうに甘いもん。服とかよく買ってきてあげてるよ」
「マジか」
「でね、あたしには買ってこないの! テストが八十点越えないと、褒めるとかないよ。おかあさんのことは、『ママは綺麗だよなー』ってすぐ言うのにさ」
「かり……おかあさんはそれに、どう反応してる?」
「ん、ちょっと恥ずかしいみたいだけど。『ありがとう』って言ってるよ」
心臓の脈が、鎖骨まで打ちつけて痛い。濁った血が軆に巡っていく。
何だ。何だよ。……いや、そうだよな。束ちゃんにも、部屋を出るときに言われた──「深入りすんな」。
ただの一目惚れが、ややこしい恋になりかけている。風に奪われ、どんどんちぎれて降り積もる花びらは、月光がさらす凍りそうな事実に痛んでいる。
香憐の言う通り、『普通』だったら、悔しい。そう思っていた。佳鈴さんが旦那といて幸せだなんて、俺をどれだけ打ちのめして、胸に空洞を空けるかと。
なのに、香憐さんが旦那とうまくいっていなかったら──そう考えると、チャンスだとほくそ笑むどころか、知らない街でケータイを失くしたくらい不安になる。
あの哀しそうな色合いがいたたまれない。冷えた声音がもどかしい。たたずんでいるような足元が心許ない。そんなのがミキサーにかかって、俺の意識を蝕んで、恐怖に近い搏動が襲ってくる。
放っておきたくない。放っておけない。好きな女のあんな顔、仕草、瞳、声、すべて、俺には放っておくなんて──
「あっ」
香憐が不意に声を上げた。
「おかあさんっ」
口元を抑えて雨を噛んでいた俺は、そちらに目を開いた。
紅い傘を咲かせてきょろきょろしているのは、確かに佳鈴さんだった。
「おかあさん、あたし、ここ!」
香憐は傘を振りまわし、「冷たいんだけど」と飛沫をもろに浴びた俺は眉を寄せる。
「あ、ごめんごめん。ってか、マジでおにーちゃん風邪引くよ」
ぱちゃぱちゃと濡れた地面を駆けてきた佳鈴さんは、「遅すぎる」と香憐の頭を小突いた。俺はその細すぎる手首を見つめた。「だって、おにーちゃんが」と香憐は俺を示し、佳鈴さんも俺を見て驚いてまばたきをする。
「えっ、あれ、知幌くん、傘は?」
「出たとき持ってなくて」
「何かねー、雨降ってる中でぼーっとしてたんだよー」
「すごい濡れてるじゃない。軆拭かないと。あ、そうか、家に帰らないと私もタオルとかは──」
「別にいいですよ。部屋そこですし」
「でも、おにーちゃん座りっぱなしじゃん」
「あとでちょっと寝込むだけだし」
「ダメよ、風邪は引いてから絶対後悔するんだから」
あ、タメ口だ。と、ぼんやり気づく。一応、俺のために焦ってくれているのか。
「傘もこんなところじゃ売ってないし──」
「あ、じゃあ、あたしが傘とタオル持ってくるっ。おかあさんの傘は大きいから、おにーちゃんも入れてあげといてっ」
「えっ」
佳鈴さんが肩を揺らしたのも気に留めず、香憐は公園の出口へと駆け出していった。佳鈴さんは一度呼び止めたけど、その声はもう力がなかった。
夕闇は夜闇になりつつある。束ちゃんの出勤も近いから、俺は本当に帰らなくてはならないのだけど──。
佳鈴さんがそっと肩に触れてきて、その指先の引力に視線を引き寄せられる。
「あの、じゃあ傘……」
「いいですよ。俺、ほんと、すげえ濡れてる。佳鈴さんの服も濡らしそう」
「でも」
「大丈夫ですから。つか、帰っていいですよ。俺も戻らないと」
「香憐、すぐ来ると思いますから」
俺の雨が染みて冷え切った軆から、佳鈴さんの手も冷たくなっていく。その手が俺の腕を引いて、脱力している俺を立ち上がらせて傘の中に招いた。
ふっと打ちつける水滴が消える。それがないだけで、意外とふわりと暖かった。
あの優しい匂いが、じかに鼻腔を撫でる。やばい。近い。佳鈴さんの息遣いはかすかにこわばっていて、逆に俺の呼吸は震えてくる。
俺を入れたせいで、佳鈴さんの肩がちょっと濡れている。抱き寄せたら守れる。でも……
「……佳鈴、さん」
「は、はい」
「佳鈴さんは……」
旦那とうまくいっていますか、なんて。訊けるか。それに、こんなに至近距離だと、さすがに理性ががたがたに崩れそうになる。
束ねられた柔らかそうな髪。ひんやりと蒼ざめた首筋。折れそうに細い華奢な腕や脚。もろい鎖骨や腰つき──。
どうしよう。
この人を、このまま、抱きしめたい。
腕の中で、壊れていいから。思いっきり、きつくきつく、この軆を腕に縛りつけたい。そして、できることなら──
「佳鈴さん」
「な、何」
「今度……どっか行きませんか」
「えっ」
「どこでも──映画でも、買い物でも、茶店でも」
佳鈴さんが、俺に顔を上げる。佳鈴さんの瞳の中の俺は、理性を踏み躙っているあまり、抑えつけた痣が滲んでいた。そんな俺を、佳鈴さんの長い睫毛が何度か切り取る。
唇が開くけど、声がともなわなくて、すぐ閉ざされてしまう。腕に置かれたままの佳鈴さんの手に触れた。びくんと警戒が伝わって、それでも指を指に絡め取ってつかんだ。
「知幌く──」
「佳鈴さんと、ゆっくり話したいんです」
「………、か、香憐も?」
「ふたりで」
「……そんな、」
「俺、怖いですか」
「そうじゃないですけど」
「佳鈴さん、俺……──」
顔を覗きこみそうになった。そんなことをしたら、やってしまうことは分かっている。佳鈴さんも。佳鈴さんは──顔を背けて、「ごめんなさい」と守るように唇を噛んだ。
「私も、知幌くんとお茶はしてみたいですけど。時間、取れないから」
佳鈴さんをじっと見下ろした。俺の前髪からの雫が、佳鈴さんの頬を涙のように伝う。
俺は不意に笑みをもらし、「そうですよね」とやっといつも軽快な柔らかい口調を作れた。
「すみません。佳鈴さんは、俺みたいなのとは違うのに」
「そっ、そういうわけじゃなくて、ただ……」
「………、ただ?」
「……何でもないです。ごめんなさい、ほんとに。私は、……大事だから」
大事。何が?
香憐が。
旦那が。
今の家庭が。
何だよ。どっちなんだよ。砕けそうな所作を見せたり。必死に拒絶したり。ガードがあるのか、ないのか。
佳鈴さんの肩はびっしょりになっていた。忘れていた雨音が、急に鼓膜に雪崩れこんでくる。どんどん雨は激しくなっている。雨の匂いが生温くただよっている。
「これ、貸しますね」
佳鈴さんはそう言って、不意につながっている俺の手に傘を押しつけた。
「え」
「私も、家遠くないので。まだそんなに濡れてないから、走れば」
「い、いや、ダメですよ」
そう言って俺はせっかくつかんでいた手を離して、佳鈴さんに傘を押し返そうとする。
「大丈夫。お友達の部屋に戻ったら、あったかいシャワー浴びてくださいね」
「佳鈴さ──」
「じゃあ、また。傘は香憐に預けて」
佳鈴さんはぱっと身をひるがえして、雨の中に飛びこんだ。追いかけようとしたけど、繊指を捕まえていた手を見て、舌打ちがもれた。くそっ。置き去りの傘は、ここから逃げるためか。
佳鈴さんの背中を見た。雨に紛れてしまう。追いかけたら。今度こそ、手首をつかんだら。そのまま、ぎゅっと抱きしめられるんじゃないか?
何だよ。抱きしめておけばよかった。もっと強引でよかったんじゃないか。
佳鈴さんがいなくなると、傘の中は寒かった。
抱きしめてしまえばよかった。そして、奪ってしまえば──香憐から。旦那から。家庭から。
何で。何で俺じゃないんだよ。俺はこんなにも佳鈴さんが好きなのに。佳鈴さんの居場所は、俺の腕の中じゃない!
ちくしょう。ぶっ壊したい。粉々にしたい。結婚なんて法律も。永遠なんて誓いも。子供なんて鎹も。すべて破壊して、佳鈴さんを奪い取ってしまいたい。
今はもう、俺は雨下でなく佳鈴さんの紅い傘下にいる。なのに、どくどくと頬が濡れていく。
どうしたらいいんだ。この恋が実るには共犯でなくてはならない。なのに、俺だけが犯したくて犯したくて。頭がおかしくなって、罪に飢えている。
唇の端にまろやかな塩味が流れこむ。けれど、どうあがいても、佳鈴さんの指がこの味をぬぐってくれることはない。あるいは、それがすでに、この気持ちへの罰なのだろうか?
【第六章へ】