雷光が照らすのは
視界を切り裂くように空が瞬いて、不穏に遠雷が鳴る。
ここ数日、鬱陶しい雨が降っていた。洗濯物どうしようかなあ、と思っていると、十四時が近づいてきた。束ちゃん起きるな、と台所に行った俺は、冷蔵庫を開けて眉を寄せた。
洗濯物もそうだが、なずむ雨と重い無気力で、三日くらい部屋で出かけずにだらだらしている。ろくに食料がない。
とりあえず、あれば何とかなるたまごがない。食パンは二枚。野菜はない。肉もない。白飯もない──炊けばあるか。しかし、ふりかけも納豆もない。
そろそろ外出か、と玄関をちらりとしてため息をつく。
紅い傘。あれも、返さなくてはならないのだけど。
あのとき、至近距離で俺が何をしようとしたかは、佳鈴さんも分かっただろう。怖いとか、気持ち悪いとか、思われているのだろうか。
そんなのは、ガキの感覚か。こんなガキからの好意──バカげて、笑える? 情けなくて、軽蔑する?
あっけらかんと笑い飛ばして、傘も返してしまって。俺さえ気をつければ、きっとゆくりなく逢うこともないのだ。そして俺は、しょせんこの町を離れる。
逃げればいい。逃げれば済む。
なのに、どうしてあんな瞳を見せたのだ。意味深な言葉まで伝えてきたのだ。
放っておけないではないか。好きな女が、あんなにつらい虚しい哀しい心を、たとえ一瞬でも見せたら。
幸せなら、まだあきらめもつく。ずるい。俺にどうしろというのだ。
それとも、俺の過剰反応なのか。どうだっていい愚痴だったのか。何なんだよ。そんな、割り切った感覚だとしたら、俺はまだ分かるほど大人じゃない──
「電気代かかる」
突然、そんな声と共に肩から手が伸びて、開けっ放しの冷蔵庫のドアを閉めた。
俺の背中を取っているのは、束ちゃんだった。寝起きで不機嫌そうな束ちゃんを見上げ、俺はすぐうつむく。
「束ちゃん」
「あ?」
「雨すごいね」
「………、今、冷蔵庫空っぽだったな」
「うん」
「知幌、引きこもってるもんな。あんなにずぶ濡れになって風邪ひかなかったんだから、雨くらい気にしなくていいだろ」
黙る俺に束ちゃんはわざとらしく息をつき、身を起こして背伸びする。
「あきらめたのか」
「……分かんない。怖い」
「怖い」
「俺なんか、……全部中途半端だ。好きだし。心配だし。でも、ねばれないし。壊せないし」
床に尻をついて、抱えた膝に顔を伏せる。束ちゃんはもうつつかず、奥の部屋に行ってしまった。
昔は頭を撫でてくれたりしたけれど、まあ確かに、この年齢になってそれをされたら違うか。でも、ちょっとそうされたいぐらい、俺のみぞおちはへこんでいる。
そのとき、足音が戻ってきて顔を上げると、束ちゃんは俺に野口をふたり差し出した。
「……小遣いで気分転換にはならないよ」
「ふざけんな。弁当代だよ。コンビニ行け」
「えー」
「じゃあ、この部屋出ていって、人妻も忘れて、親に土下座して、学校も──」
「……行ってくる」
「よし」
「束ちゃん、マジで変わっ──」
ぽん、と束ちゃんの大きな手が俺の頭をおおった。束ちゃんに空目をする。「お前は変わってないな」と束ちゃんは苦笑して、俺は滲んだ目に唇を噛んで立ち上がった。
「俺、女だったら、とりあえず束ちゃんに惚れてたんだろうなあ」
「はいはい。俺もちーちゃんでロリコンに目覚めてたかもな」
「ちーちゃん……とか、懐かし」
「小学校に上がって、知幌に呼ぶの禁止されたよな。とにかく、ここにいるなら家事はしろ。弁当買ってくるのも家事だ」
息をつき、玄関でスニーカーに足を突っこんだ。紅い傘と、自分で適当に買ったビニール傘、迷ってビニール傘にした。
野口ふたりなら、確かに行くのはコンビニだ。だったら、こんな時間に会えるわけがない。スーパーなら、会えるかも──
本当は、飢えている。声。顔。会釈だけでもいい。
でも、やっぱりコンビニだ。ビニール傘をつかんで、「行ってくる」と残して部屋を出た。
ちょうど、雷が鳴った。意外と近い。
景色は降りしきる銀の糸でかすれて、傘を開いて飛び出すと、ビニールに打ちつける雫が、鼓膜を絶え間ない鞭のようにぶった。風がないから服はそんなに濡れないけれど、水気が匂い立つほど蒸している。
六月に入って、もう半月以上が経とうとしている。今年の梅雨は、エルニーニョ現象とかで七月まで食いこむと、ネットニュースが伝えていた。
リクエストを聞かなかったが、着いたコンビニにはからあげ弁当と幕の内しか残っていなかった。飲み物は、束ちゃんはいつも通り紅茶だろう。何となく幕の内が来そうな俺は、緑茶にしておいた。
それをレジに通して、コンビニを出て、変わらず空を裂く雨と、たまに光る雷に息をつく。雷のときに傘刺したらやばいとかマジだっけ、とか思いながら傘をさし、通りに面する坂道に出た。
暗く湿った景色が、焼かれるように一瞬光る。すぐ暗転して、鋭い音が轟く。
束ちゃんは、起きたということは今日も出勤なのだろう。ほんと働くなあ、と思っても、自活とはそんなものなのか。よく分からないけれど──やっぱり、ふたりぶんまかなっているから大変なのか。
さすがにもう迷惑かけらんないなあ、と傘の柄を握って、濡れる地面をびちゃびちゃと進んでいたときだった。
「知幌、くん……?」
背中にかかった声に、びくっと足が止まった。
え。え?
幻聴?
「あ……スーパーで会わないと思ってたら、コンビニでお弁当だったんですね」
この透明な声。分かっている、男はバカだから分かってしまう。聞き違えるはずがない。
「そうですよね、こんな雨が続いてますし──」
生唾をぎゅっと飲んで、少し躊躇ったあと、振り返った。ぱたぱた、と近づいていた足音も背後で止まる。紫に桜が咲いた傘でそこにいたのは──
「……うよ」
「え」
「違うよ、分かってるくせに」
俺の乱暴な眼差しに、佳鈴さんは目を開いた。
緩やかに波打つ髪。柔らかに白い肌。折れそうな腰。
全部、何もかも、俺をかきむしってくる。息が締めつけられて、胸が痺れてくる。何もいらないほど、この人のすべてが欲しい。でも……
「俺のことは、もう無視してください」
「……知幌く、」
「無視してくれないと、もう分かんないから!」
雨に負けないよう言い切ったあと、佳鈴さんを見た。
……ほら。
どうしてだよ。
俺にこんなことを言われて、あなたは瞳からぽたりと血のように、傷を浮かべる。
「私……」
聞くな。聞くほど愛おしくなってしまう。愛されない愛なんてたくさんだ。俺は顔を背け、その場を歩き出そうとした。
「ごめんね」
身を返そうとして、足元が引き攣る。佳鈴さんを見た。そして、耐えがたいほど切なくなる。
佳鈴さんは咲っていた。涙で壊れそうになりながら、咲っていた。
「知幌くんが、正しいの。私なんて……ダメな女だから」
「……そんなことは言ってな、」
「言われるんだもの、『お前は役立たずだ』って」
「えっ」
「私ね、愛されてないの。あの人は、私を都合よくあつかいたいだけ」
ざーっという雨音が邪魔だったけど、崩れ落ちそうな口調の佳鈴さんの言葉は聞き取れた。少し風が出てきたのか、わずかな横殴りで雨がジーンズや腕にぶつかってくる。
「私じゃなくて、もっと賢い人を妻にすればよかったのに。そしたら、あの人も幸せだった」
「旦那、さんは──」
「私を愛してなんて、ない」
佳鈴さんは俺を見つめる。
「知幌くんに……」
空が光った。稲妻の亀裂が残った。その光の残像の中で、佳鈴さんは涙を流していた。
「知幌くんに出逢うなら、待てばよかった……」
「えっ……」
「知幌くんが夫だったら、私だけでも幸せだっ──」
腕を伸ばした。信じられないほど華奢な腕を引っ張った。ふたつの傘が地面に転ぶ。一気に雨を全身に浴びて、俺は佳鈴さんを抱きすくめていた。
「知幌、く……」
「何で……くそっ、ずるいよ、佳鈴さんは」
「私……」
「……幸せだったよ」
「え」
「そんなん、決まってるだろっ。佳鈴さんが俺のものだったら、俺はそれだけでっ──」
熱い。目頭が熱い。でも打ちつける雨が冷たく、涙は生まれてすぐ冷えて死んで消えていく。
「佳鈴さんがそばにいればいい。何かしてもらおうなんて、そんなん、どうでもいい。佳鈴さんを見守れるなら、見守る……資格があるなら」
「知幌くん……」
「ただ、ずっと一緒に……いられるなら、」
涙にむせて咳きこみ、ただ、佳鈴さんの軆を砕きそうに抱きしめた。柔らかい。でも細い。この細さではひとりでは生きていけないだろう。なのに、この人が孤独だというのなら、俺は……
「佳鈴さん」
「……私、」
「もういいよ。いいだろ。俺といれば幸せになれるなら、幸せになってよ」
「……でも、」
「何で『でも』!? また逃げんの? 何がそんなに大切なんだよ、自分が幸せになるより──」
「香憐……」
「……え」
「香憐、は、……幸せなの……」
「………、」
「あの子は……私たちといると、まだ、幸せなの。きっと、いつか気づくけど。今は……」
せりあげたものに唇を噛んだ。喉を掻っ切りたいほど自分が嫌いになった。とっさに思ってしまった、そもそも、佳鈴さんに出逢えたのはあの子のおかげなのに。
あの子さえ、いなければ──
のろのろと、締めつけていた軆を離した。密着した体温が冷める。瞳がぎこちなく触れた。どちらも、睫毛にも瞳孔にも力がなかった。
気づかぬうちアスファルトに落としていたコンビニ弁当を拾い上げ、自分の傘も拾った。
「……何か、用事あったんですか?」
「え」
「バッグ以外、何にも持ってないですけど」
「……あ、」
「雨の日に散歩?」
佳鈴さんはまだ傘を持たぬまま、鈍くかぶりを振り、「香憐が」と重たくつぶやく。
「忘れ物したから、学校まで持ってきてって」
「………、」
「ほんとに」
「……別に疑いませんけど」
「………、持っていかなきゃ」
「俺も──弁当、持って帰らないと。友達待ってるんで」
そう言って、とっとと去ろうとした。けれど、やっぱり腰をかがめて紫の傘を取り上げてしまう。佳鈴さんは自失してたたずみ、雨にさらされるままになっている。そんな佳鈴さんに傘を持たせ、「じゃあ」と押し殺した声をかけた。
「風邪、引かないように」
佳鈴さんは俺を見たけど、もう顔面もずぶ濡れだったから、泣いているのかは分からなかった。でも、瞳は確かに破水していた。
何だよ。どうしろっていうんだよ。
香憐が不幸に気づくまで待つと? そんなもん気が狂うだけだ。俺は束ちゃんみたいな男じゃない。
欲しいものは今欲しい。すぐ手に入らないなら発狂したい。精神が分裂すれば、欲求すら崩壊するだろうから。求めること自体捨てたいくらい、死に物狂いでその温もりが欲しいのに──
きびすを返して、歩き出した。佳鈴さんは何も言わなかった。音も立てなかった。俺は絶対に振り返らなかった。
ああ、どうしよう。ひどいことを言われてしまった。決壊する。頭の中が洪水みたいだ。心は口を塞がれたように苦しく、ただ吐けない息がいっぱいになって、破裂しそうに腫れ上がる。
知幌くんに出逢うなら、待てばよかった──
そんな台詞、責任取れないなら我慢してくれよ。俺が我慢できなくなる。
束ちゃんの部屋の前に着いて、ふくろの中を見た。下のからあげ弁当の蓋が外れて、からあげと白飯がはみでていた。上の幕の内は、からあげがクッションになって無事だ。まあ、ひとつ無事なら束ちゃんはそちらを食べればいい。
目をこすって、髪の水分をなるべくはらった。さすがに風邪を引くかもしれない。温かいシャワーを浴びないと。
初めて振り返り、坂道のほうを見やった。まだ、佳鈴さんのすがたは通らない。またあのびしょ濡れのすがたを見たら、いよいよ気がふれてしまうだろう。だから──
貸してもらっている合鍵をさしこんだ。
俺は最低だ。罪のない女の子の無垢を憎みかけている。あの子でなく、こんな俺が死ねばいいのに──
冷えこんだ軆が震えたとき、音が濁るほど大きな、空中を叩き割る雷が鳴った。一瞬浮かんだ光に、手の甲の蒼い血管を見る。一瞬その血管を紅く切り刻む妄想がよぎって、頭を振るとドアを開けた。
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