風花雪月-7

間違いなら

 ひとしきり町をなぶって気が済んだのか、その日は久々に雨が小休止し、天気は曇りにまで退いた。
 俺はすみれ公園で煙草をふかし、ぼんやりと瞳を空に浮かせていた。
 少しずつ、日が長くなっていく。ピンクに縁取られた透明色のオレンジの夕焼けに、明日は晴れか、と思いながら煙草を捨ててスニーカーで躙った。
 帰んなきゃな、と思ったとき、「おにーちゃん」といつになく元気のない声がした。顔を上げると、ランドセルを連れた香憐がとぼとぼと歩み寄ってきていた。
 こんな時間にランドセルのまま──眉を寄せて話を聞くと、家に帰るのが気が重く、帰宅せずに友達のところにいたという。「何で」と膝に頬杖をつくと、香憐は言い澱んだあと、自分が忘れ物をしたせいで母親を豪雨にさらし、風邪をひかせたのだと語った。
 その沈んだ表情に、さらしたの俺だけどな、と他人事のように思っても、もちろん口をつぐんでいる。
「責められたのか?」
「……おとうさんが怖かった」
「………、おかあさんは」
「『心配しないで』って。でもまだ治らなくて、あたしの迎えも来れなくて」
「じゃあ、帰んなきゃ、お前のほうがおかあさんに心配かけて、余計具合悪くなるぞ」
「ん……」
「ほら。ちゃんと帰れよ。俺も──」
「おにーちゃん、さ」
「ん」
「これから、何か、ある?」
「何かって」
「……分かんないけど」
「別に。ヒマだけど」
「じゃ、じゃあねっ。あの……」
「何だよ」
「……あのね」
「ああ」
「おかあさん、お見舞いしてくれない?」
 もう煙草の煙たさもないのに、咳きこみそうになった。
「何で俺だよ」
「おかあさん、おにーちゃんといると楽しそうだしっ」
「……いや、そんなことは」
「ちょっとだけ、うちに来てよ」
「無理──」
「あたしが何かしてあげなきゃ。あたしのせいなんだもん」
「別に、香憐のせいじゃないだろ」
「あたしのせいだよ、だからおにーちゃん、おかあさんのお見舞いして」
「わけ分かんねえし。しないよ」
「何で? おかあさんのこと、心配じゃないの?」
「し、心配だけど。そんな、俺が行くの変だろ」
「変じゃないよっ。おかあさんの友達なんだしっ」
 友達、と思われてんのか。そんな綺麗なもんじゃないのに。
 風邪にほてって、寝込む佳鈴さん。また、暴走するかもしれない。もっと、我慢できないかもしれない。そんな理性の危険は冒せない。まして、香憐の前では。
「……悪い。行けないんだ」
 ごねる香憐をなだめて、何とか部屋に戻ることができた。
 オフの束ちゃんは、まだ寝ていた。雨でも晴れでも、束ちゃんの休みは大して変わらない。気の済むまで寝て、ぎりぎりまで書く。
 束ちゃんが起きるまで、PCで動画を眺めていた。束ちゃんは十九時前にやっと起きて、ふとんで立て膝をしてケータイをいじりながらつぶやいた。
「知幌」
「んー」
「お前、停学ってどのくらいの期間なんだ?」
「えー。一ヶ月くらいとか言われた」
「今日、二十日だぜ」
「はつか……」
「お前が来た日って──何日だったか。五月末ではあったよな」
「うん」
「そろそろ、家に電話ぐらいして訊けよ。停学解けてないか」
「……帰ってほしい?」
「そうじゃないけど。お前、これ以上この町にいたら、精神的にきついだろ」
「………、……うん」
 デスクを離れた俺は、まだ温かい敷きぶとんの上を這うと、コンビニで買った充電器に刺さったケータイをたぐりよせた。
 朝のメールは、少しずつ長くなりつつある。『おはよ』のひと言だったのが、『こっちも雨すげえ』くらいになって、最近は『友達の家事の無茶振りがすごい。』まで送信している。もちろん、『友達』が束ちゃんなのは伏せたままだ。
 かあさんの番号を表示させて、ぼんやり番号を見つめて、画面が消燈した途端、息をついて束ちゃんの匂いがするまくらに上体を折った。
「おい」
「怖い」
「どうせ俺は、一生の面倒は見ないんだ」
「うー」
「もうすぐ帰るんだよ。切っかけ作っとけ」
「いきなり帰るのは──」
「変にこじれて、また喧嘩にならないならいいけど」
「……こじれるかな」
「素直になれるのかよ、『心配かけてごめん』って」
 眉間に皺を寄せ、かちかちとケータイを操作する束ちゃんのクールな横顔を見る。
「心配してるかな」
「してるだろ」
「補導されて停学になったのに」
「俺でも捜索願い出てるっつっただろ」
「束ちゃん……は、出るよ」
「そうか? こもって小説書いて、進学もしないで、そんなふうにやってくなら出ていけって言われたんだぜ」
「『出ていけ』」
「言われたよ」
 束ちゃんはこちらも見ず、でも穏やかに言った。俺はゆっくり身を起こし、居心地悪く身動ぎする。
「……伯父さんたちは、心配してるよ。正月とか盆とか」
「それでも、俺は帰らない。お前もどうしても帰りたくないとかなら、せめて自活しろ」
「十五歳の少年に何言ってんですか」
「俺が家出た歳も、大して変わらない」
 ケータイを見て、もう一度画面を点燈させた。かあさんのメールの返事も、『人に迷惑かけるより帰ってきなさい』とかいらだったものから、『本当に友達のところなの? いつまで帰ってこないの?』と不安そうなものにはなっている。
 肺から深く深呼吸する。そして、思い切って通話ボタンを押した。
 ──翌日、すみれ公園のベンチで、雲の隙間の青空に目をうつろわせていた。むしむしと空気が素肌を舐める。雲の色はまた降り出しそうな灰色だけど、降り出すのは夜だと予報で見た。
 まだ荷物もまとまっていない。今夜帰るのは、やめておいたほうがいいか。
 俺の停学は、実際には二週間で終わっていた。というか、俺の家出を受けて、学校側が『処罰が重すぎた』と認めて減刑されたらしい。
 それでも俺は帰ってこないから、学校も責任で焦ってきているという。俺にそっけなく停学を伝えた担任に至っては、あんなに冷淡ぶったくせに、軽い鬱病になって学校を休んでいるというから、予想以上の大ごとだ。
 これ帰らねえとやばい、とさすがに思って、昨夜から増えた私物を整理して荷造りを始めている。
 終わるのか、と思うと目が虚ろに湿気った匂いの空中を彷徨う。ここでの生活が終わる。ということは、この恋も切断される。
 しつこいが、俺は束ちゃんじゃない。離れても、会えなくなっても想うなんて、そんな焦れたことはできない。
 月は月だったのだ。風が吹いた。出逢いが訪れた。花が咲いた。恋に堕ちた。雪が降った。想いは募った。月が光った。そう、決して届かない遠くで。
 全部、この恋は、満たされない綺麗事ばかりで──
「おにーちゃんっ」
 はっと顔を上げた。その拍子に、煙草の灰が少し落ちた。
 その打って変わって元気になった声は、もちろん──
「香憐……」
「あー、また煙草なんて吸ってるっ。はんざーい」
「……ほっとけ」
 言いながら、香憐のランドセルの後ろにいる人をちらりとした。その人も、俺を何とも言えない目で見た。俺は煙草を地面に落として、踏みつけた。
「元気になったんだな、おかあさん」
「うんっ。昨日おとうさんが桃缶買ってきてくれたから」
「桃缶って。どんな迷信だよ」
「でも、おかあさん元気になったもん。ねっ」
 香憐はそう言って佳鈴さんをかえりみて、佳鈴さんはぎこちなくうなずいて咲った。
「じゃあ、今は帰りか」
「うん。あ、でもここの近所の子に、連絡帳持ってかなきゃいけないの」
「ふうん……」
 言うべきなのだろうか。たぶんこれが最後だと。もう逢うこともないと。
「あ、あのさ──」
「だからおにーちゃん、ちょっとおかあさんと話してて」
「はっ?」
「だからーっ、すぐ連絡帳持っていって戻ってくるから。そのあいだ、おかあさんとここにいて」
「な、何で。一緒に行けよ」
「おかあさん風邪治ったばっかなのに、風邪の子の家に連れていきたくないもん。おかあさんもいいよね」
「え、あ──気にしなくても、ついていくわよ」
「ダメっ。あたしが気をつけなきゃ、おかあさんまた起きれなくなるもん。ここでおにーちゃんといて」
 佳鈴さんは、とまどって俺を見た。俺は仏頂面だったけど、内心困惑で吐きそうだった。
 こんなことまで思ってしまう。香憐は俺たちのことをもう知っていて、とっとと仲良くなってほしいのではないか。とっくに“気づいて”いるのではないか。佳鈴さんの幸せを願っているのは、父親ではなく俺だとも──
 だとしたら、怖いものはない。佳鈴さんに目を向け、「どうぞ」と隣にスペースを空けた。「ほら」と香憐は満足そうに佳鈴さんの手を引いて、佳鈴さんは前のめりになったあと、しずしずと俺の隣に腰をおろした。
「じゃあ、あたし、行ってくるねっ」
 香憐は手を振って駆け出して、俺はそれを見守った。
 佳鈴さんはうつむき、膝の上で白い手を握りしめた。俺はそれを一瞥し、手を乗せて包みたい衝動に駆られても、「具合どうですか」と平静を装って訊く。
「あ……、はい、だいぶ、いいです」
「そうですか。すみません、俺のせいですよね」
「えっ」
「香憐は自分のせいって言ってましたけど。俺が──」
「そんな。知幌くんは気にしないで。あのあと、傘もささずに学校に行ったのは私だから」
「え、だって──」
「拾って、もらったけど。何かくらくらして、傘も持てなくて」
「あー、もう風邪入ってきてたんですかね。ほんとすみません」
「ううん。知幌くんは……何も」
「でもよかった」
「えっ」
「風邪治ったのだけでも、知れたなら」
 佳鈴さんはよく分からないように俺を見た。その前髪がかかる深い瞳を見つめ、俺は肩をすくめた。
「俺、帰ります」
「えっ」
「家に帰ることにしました」
 佳鈴さんは目を開く。その瞳に映る俺は、自分にも佳鈴さんにも残酷に咲っていた。
「さすがに親も心配みたいで。昨日、母親に電話で泣かれました」
「おかあさん……に」
「何も言ってなかったんで。一ヶ月ぶりくらいに話しましたよ」
 佳鈴さんはうつむいた。俺の無神経な笑顔を見ていたくないのは分かった。
「明日かあさってには、もう──」
「……知幌くんみたいな人だった」
「え」
「初めて、好きになった人。中学生だったけど──ちょっと悪っぽいというか」
「………、俺、悪っぽいですかね」
「嫌な意味じゃなくて。自由な人で、校則や勉強に縛られてなくて、私の中では、知幌くんはそんな感じだから」
「……茶髪も煙草も、今の高校生には普通ですよ」
「そうなのかもしれないけど。似てた気がする」
 俺は視線を下げ、右手と左手の指を絡ませて遊ばせる。
「夫は──」
 どきん、と心臓が黒く陰って、腐るんじゃないかと不安になる。
「正反対の人。真面目で、頭もよくて。ただ……愛情が、ない」
 唇を噛む。
 香憐が戻ってくる約束さえなければ、聞きたくない、と立ち上がりたかった。そんな話をされて、俺にどうしろと──
「私じゃない……のかな、って」
「……え」
「分からない。分からないの。ただね、結婚前のことなんだけど。夫の部屋にいたら、一度だけ、女の人が来て」
 佳鈴さんの思いつめた横顔に目を剥く。
 何。何だって。まさか、旦那の野郎──
「夫が少し出かけて、その入れ違いだったから、私がひとりなのは見計らってたんだと思う。でも……何も、なくて」
「何もないってことはないですよ、その女──」
「その人は、私を冷めた目で見た。睨みもせずに、にこりともせずに、ただ冷たい目をして。そして出ていった」
「じゃあ、旦那ってその女とまだ、」
「分からない。何か言われたわけでもないから、訊けないし」
「訊かなきゃ」
「………、うん、そう思ってた」
「え」
「でも、もう、私も夫も、ただ間違えたんだって」
「え」
「少なくとも」
 佳鈴さんは俺を見た。その瞳は、切なく震えて、たたかれるガラスのように砕け散りそうだった。
「私は、間違えた」
 何か言おうとした。言わなくてはならなかった。それで何か始まるかもしれなかっ──

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