見苦しいほどの花
「おかあさんっ。おにーちゃんっ」
はっとその声を見た。香憐が手を振って駆け寄ってきている。俺は舌打ちを何とか殺し、佳鈴さんも睫毛を伏せた。「お待たせっ」と俺たちの元にたどりついた香憐はにっこりとする。
この空気を読める歳じゃないのは分かっている。だけど──。
「じゃあ……えと、帰ろうか」
佳鈴さんはそう言って立ち上がり、「うん」と香憐は佳鈴さんを引っ張った。
俺は佳鈴さんを見上げたけど、佳鈴さんは表情を髪でうまく陰らせて見せてくれない。
「じゃあ、おにーちゃん、またね」
「え……あ、そうだ、俺──」
「私から話しておきます。……元気で」
きょとんとした香憐と手をつなぎ、佳鈴さんは歩き出した。さえぎられた俺は、狼狽えるまま、そのもろい背中を見つめた。
……終わ、り?
これで?
ほんとに、これで──
口を開いた。でも声がともなわない。喉に真綿が絡みついてくる。どんどん締め上げてくる。首を吊っているみたいに。
どうしよう。苦しい。このままじゃ苦しい。嫌だ。このまま死ぬまで、息もできないなんて嫌だ。
ばくばくと心臓が鬱血に錯乱して暴れる。怨みをたたえたまま息絶えた死体の目を見たような、冷たい恐怖が襲ってくる。
水中に投げ込まれたように素早く動けない。頭がぐらぐらして、灰色の雲と土の地面が逆転する。視界がぶれる混乱が、いっそう声帯をむしり取る。
そのあいだにも、愛おしい華奢な背中は遠ざかっていく。明け方、月が薄くなっていくかの如く。
ダメだ。やっぱりダメだ。
好きだ。あの人が好きだ。どうしてもあの人を見失いたくない。見つめていたい。つながっていたい。関わっていたい。次があってほしい。隣に座ってほしい。その声を聴きたい。その瞳に映りたい。好きで好きで好きで、気が狂ったほうが楽なほど、俺は闇雲なまでにあの人が──
そうだ。こんなの幸せじゃない。
俺も。あの人も。その旦那さえ。
誰も望んでない。終わりなんて、こんな胸が張り裂ける想いをして失う必要なんてない。間違ったまま、あえて失望を選ぶなんて、
「佳鈴さんっ!」
突然、沈水から水面に頭が届いたみたいに大声で叫んでいた。ついで、ベンチを立ち上がり、出口で立ち止まって振り返ったその人の元に駆け寄った。
知らないうちに涙があふれていた。
「やだ」
「……あ、」
「嫌だ、こんな、間違ってるの放っておけないよ」
「………、」
「忘れられない、こんなん、絶対忘れられないじゃないかっ」
強引に折れそうな腕を引っ張り、そのままぎゅっと佳鈴さんを抱きしめた。
「知幌く……」
「好きだ」
「っ……!」
「佳鈴さんが好きだ」
俺は壊しそうに佳鈴さんを抱きしめ、柔らかい髪を抱いて、その芳しい首筋に唇を這わせた。そしてそのまま口辺までたどり、少し首をかたむけてリップクリームだけの唇に唇を重ねた。
佳鈴さんはもがこうとしたけど、俺が抑えつけたし、すぐ力を抜いた。湿った舌で濡れた舌を交わし、熱い唾液がしたたる。
こんなに甘やかに苦いキスは初めてだった。息で息を塞いで、求めて、与えて、傷をなぐさめるように舌が絡んで──
俺は少しだけ唇を離し、自分でも信じられないかすれた男の声をもらした。
「好きだよ」
間近の佳鈴さんの瞳も、潤みをぽろぽろとこぼしている。
「好きなんだ。めちゃくちゃにぶっ壊したいくらい、好きなんだよ」
「ちほろ……く、」
「俺なら幸せになれるんだろ? 幸せにするよ、俺がずっとあんたのそばにいれば──」
言いかけたときだった。どんっ、と突然背中を衝撃が襲って、俺は振り返った。そして目を開く。
香憐だった。その目に浮かんでいるものに、俺はやっと思い出した。いや、期待したけれど、やはり都合のいい幻想だったと気づいた。
ピンクのランドセルが俺の足元に転がっている。衝撃は、これをぶん投げられたのだろう。
香憐は、心底虫酸を走らせた、嫌悪をみなぎらせていた。
「……れろ」
「かれ──」
「呼ぶな、もうあたしの名前なんか呼ぶなっ。おかあさんから早く離れろ、この変態!!」
そうだ。まだ、いた。このままで幸せな子がいた。
愛し合う父親と母親を愛している。そんな、ごく普通の幸せを見ている──何にも気づいていない、クソガキが。
「っ……ざけんなよ、お前のせいだ! お前さえいなきゃ、佳鈴さんはっ……」
「やめて!」
佳鈴さんを見た。佳鈴さんは俺と軆を離して涙をぬぐい、俺を見て首を横に振った。
「でも」
「いいの」
「俺は、」
「それがこの子の幸せなの」
「佳鈴さんは? 佳鈴さん自身は見殺しなのか?」
佳鈴さんは微笑んだ。儚い、美しい、綺麗な微笑だった。そして、佳鈴さんは俺の頭を撫でた。
「私なんか、どうなってもいい」
嘘、だ。
嘘つきだ、この女。
そう思っているなら、俺を選べよ。どうなってもいいなら、どんな汚い非難を受けても俺を選べよ。ここで香憐を選ぶのは、それは──
……上っ面じゃねえか。
香憐がランドセルを拾って俺を強く押しのけ、佳鈴さんの手を引いた。ふたりは公園を出ていった。追いかけようとしたものの、足元が融けて地面に貼りついたみたいに動けなかった。
俺の涙も乾いていた。胸はついに腐敗し、すうっと空洞に冷気が抜けていった。
息が、おかしい。胸が、虚しい。心が──潰れる。
最悪だ。こんなの、最悪じゃないか。美しすぎて、吐き気がする。子は鎹。こんな綺麗な終焉、本当に……
好きなのに。きっと通じていたのに。
何で? 何がいけない? どうしてこんなにうまくすれちがう?
なぜ、俺たちの歯車はこんなに、軋ませ、歪めて、それでも噛み合わないんだ。両想いなんて、好きだという気持ちだけで成り立つんじゃないのか?
膝の力が抜けて、そのまま座りこんだ。土埃がジーンズにこすれた。首が垂れて、でも視覚が途切れて何も見えない。どこかで子供が無邪気に笑っているのだけ聞こえた。
俺は……どうすればよかった? これ以上、何をすればよかった?
結ばれない恋。なんて醜いんだ。こんな、実らない、咲くだけ咲いて、募っても届かず、想いだけ残る冷たい恋なんて……
本当に、見苦しい。
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