ずっと隣で
マンションが近づく通りで、夕陽を見るふりで顔を上げ、蒼樹の横顔を見た。すると蒼樹も私を見ていたので、どきんと心臓を跳ね上げてうつむく。やけにどきどきしてきて、動揺で無意識にまばたきをしていると、「つばめ」と蒼樹のめずらしくまじめな声がした。
「俺、お前にひとりにしないとか言ったけど」
「……う、うん」
「紗由里が、いるじゃん」
「………っ」
「だから、……その」
私は蒼樹を見上げた。ああ、わがままだ。今の私、すごくわがままなことを言いたい。取らないでって釘も刺されたのに。それなのに──
「あお──」
「蒼樹!」
突然響いた声に、私たちははっと立ち止まった。鋭い声音だけれど、やはり愛らしい声。かえりみた駅の方向に、紗由里ちゃんが何かをこらえるように拳を握り、影法師を伸ばしてたたずんでいた。
「紗由里……」
……嫌だ。蒼樹が他の女の子の名前を口にするだけで、私の胸はこんなにどろどろとかき乱される。
「えー……っと、ふたり、やっぱ仲いいんだねえ。そりゃそうかー。幼なじみなんだもんねっ」
白々しく言いながら、紗由里ちゃんはこちらに歩み寄ってくる。生唾でも飲みこんだのか、蒼樹の喉が動いた。
私は唇を噛む。分かっている。笑顔で「お先に」と帰るべきなのは私だ。私に割りこむ権利はない。いくら蒼樹が私のかけがえない味方でも、いくら私が蒼樹を誰よりも必要としていても。
紗由里ちゃんは何も悪くない。蒼樹だって悪くない。そして、私も悪者にならないためには──
ぴたっと紗由里ちゃんの足が止まる。笑顔も凍る。私が、蒼樹の手を取って握って見せたから。蒼樹もびっくりしたように私を見る。
「え……何、つばめちゃ──」
「蒼樹は私のものだよ」
「え……ええ?」
「ずうっと昔からそう。それだけは、何があっても変わらない」
「……つばめ、」
「私、蒼樹に抱いてもらったからっ。もう紗由里ちゃんはいらないみたいだよ」
紗由里ちゃんは、蒼樹を凝視する。
助けて、くれたのに。たった今、蒼樹は私を助けてくれたのに。そんな蒼樹に、その恋人に、どれだけひどいことをしているの、私。ふざけるなって言われる。今度こそ怒られる。それでも私が蒼樹の手を握っていると、ゆっくり、蒼樹の手が私の手を握り返した。
そして蒼樹が何か言おうとしたときだ。涙をいっぱい溜めた紗由里ちゃんは身をひるがえし、その場を走り出してしまった。そばを歩いていた人がぶつかりかけて、驚いて紗由里ちゃんを見る。
紗由里ちゃんのすがたが、薄暗くなっていく景色に霞んで見えなくなると、私はどっと重たいため息をついた。「あー」と蒼樹も何とも言いがたい声を出して、濃紺に染まっていく天を仰ぐ。
「『抱いてもらった』って」
「……うっ」
「飛ばしすぎだろ。優等生は加減を知らねえな」
「だ、だって、」
「だいたい、何の嘘だよ。俺、あいつに振られるじゃん」
私は眉を寄せて一瞬顔を伏せたのち、蒼樹を見て、「振られないよ」とまっすぐ言い切った。
「はあ? いや、明らかに──」
「振ってよ」
「あ?」
「私のそばにいられるように、蒼樹も紗由里ちゃんと別れてよ」
蒼樹の表情に狼狽がちらつく。私はつないだ手を握りしめながら、こうなったら最低の女でいいと思って言葉を続けた。
「私のことを一番に考えてくれるのは蒼樹なんだもん。悔しいけど、蒼樹なんだもん。何で蒼樹なの? 何なの? そう思うけど、私にはどうしても蒼樹しかいないの。私の一番も蒼樹なんだよ」
「つばめ……」
「だから、そばにいてよ。もうどこにも行かないで」
蒼樹は何秒か困ったようにしていた。けれど小さく舌打ちすると、ぐいっとつないだ手を引っ張って私を腕の中に抱きしめた。私は蒼樹の匂いに倒れこむ。そこは柔らかに温かくて、自分のベッドに戻ったときよりもほっとした。
「大事にする」
「蒼……樹」
「お前すぐ壊れそうだから、大事にするよ」
優しい声が耳元で響き、私は何度もうなずきながら蒼樹の胸にしがみついた。蒼樹も腕に力をこめる。通りに人の往来は少しあっても、気にならなかった。今はこの、一番大切な人の軆を感じあって、通じあった心を痛感していたかった。
翌日、蒼樹に言われた通り婦人科に行こうとしていたら、生理が来た。「今回遅れたなあ」とおかあさんに話すと、「気持ちに不安があるだけで、若いあいだは定まらないから」と言われた。確かに、春先からメンタルはひどく不安定だった。「ほっとしたから、軆も安心したのかもね」とおかあさんは私に微笑み、私はこくんとして、紗由里ちゃんと別れたら蒼樹とつきあえるんだもんね、とやはりその安堵感なのかなと思った。
後日、蒼樹と紗由里ちゃんは駅に近いファーストフードで話し合いの機会を持った。蒼樹には「ちゃんと別れてくるから」と言われたものの、気になって私も駅に出て、そわそわとファーストフードの前も行き来してしまった。
紗由里ちゃん納得するかなあ、いや納得はしなくても承諾はするかなあ、と完全に挙動不審でうろうろしていると、「つばめちゃん」といきなり名前を呼ばれて、びくりと振り返った。
そこには、相変わらずモデルみたいに綺麗な紗由里ちゃんが、片手を腰に手を当てて立っている。
「何してるの?」
「え……えと、あの、散歩……?」
「ふうん。おばあちゃんみたい」
「ぐっ……」
買い物とか言えばよかった、と恥ずかしさに顔を伏せると、紗由里ちゃんは小さく息をついて首をかたむける。
「何かさあ、思ったんだけど」
「……はい」
「おじいちゃんになった蒼樹に、初恋はつばめちゃんだったんだよなーとか語られるのは、絶対嫌だよねえ」
小さく目をあげて紗由里ちゃんを見る。紗由里ちゃんは爪を見つめながら話していた。
「どうせなら、そんなことは本人つかまえてさあ、本人にのろけてろって話だわ。ジジイとババアになるまで爆発してろって感じだわ」
「紗由里、ちゃん……」
「……そゆこと。じゃあねっ。蒼樹とお幸せに! ほんとに、絶対幸せになってよね」
紗由里ちゃんはそう言うと私とすれちがっていった。突っ立ってその凛とした後ろすがたを見送っていると、「お前、店の中からすげえ目立ってたぞ」といつもの声がしてそちらを向く。
金髪。ピアス。パンクファッション。
眇目で私を見下ろしてくる蒼樹に、私は「だって」と言ったきり赤面を伏せる。すると蒼樹は軽く噴き出して、自然に私の手を取って「帰るぞ」と歩き出した。私は慌てて彼の左側に並ぶ。
「ねえ、蒼樹」
「んー?」
「ちゃんと……別れてもらえた?」
「そりゃあもう、誰かさんのおかげですがすがしく振られましたよ」
「振られたの?」
「あー、いや、振ったんだわ」
「どっちなの」
「どっちでもいいだろうが」
「どっち?」
そんなやりとりをしていると、蒼樹は急に立ち止まって私の顔を覗きこんでくる。みんなが行き来しているコンビニの前。至近距離の瞳にどきっと鼓動が高鳴る。
「で? お前、今から俺とつきあってくれんの?」
蒼樹の瞳を見つめ返す。どきどきして、真夏日の太陽のせいじゃなく、頬が熱い。
ばか。ばーかばーか。
……そんなこと、決まってるじゃない。
そんな憎まれ口は我慢して、私はただ、蒼樹の手を握る。蒼樹が子供みたいに嬉しそうに咲う。子供の頃から、いつも無愛想な顔ばかりしてきたくせに、こんなときにそんな顔をする。初めて知った。
でも、私は大切なことを生まれたぐらいのときから知っている。この人となら、いつかお腹に命を迎えることになっても大丈夫。それだけはよく知っていて、無条件に信じている。
蒼樹は私の手を引いてまた歩きはじめる。私はその隣に並ぶ。これまでずっとそうだった。だからこれからだってそうなんだ。蒼樹の隣は私のもの。ただ、これからは蒼樹の肩にこうしてことんと頭を乗せることができる。それがとっても幸せだ。
初夏の白い光の中、ふわりと穏やかな風が舞い、汗ばんだ軆を涼しく撫でていった。
FIN