君は壊れやすいから-3

彼氏ができたら

 高校生活を無事終えて、私は大学生になった。蒼樹はファッション関係の専門学校に進んだみたいだ。ますます生活がすれちがうようになったけど、妙な安定感で関係が薄らぐ心配はしなかった。大学で仲良く過ごす友達もできて、充実した毎日の中、ある日、男の子に声をかけられた。
 私は彼を意識したことがなかったけど、よく講義が一緒になっていたらしい。狩原かりはら文喜ふみきくんというその男の子は、ちょくちょく私に声をかけてきて、「あいつ、絶対つばめに気があるじゃん」と友達も言うので、次第にどぎまぎするようになっていった。
「美坂さん」
 梅雨が明けたお昼休み、生温い七月の風が抜けるテラスでカフェラテとハンバーガーのランチを取っていると、ふと狩原くんの声が降ってきて、はっと顔をあげた。
「ひとり?」
「え、と──あとでいつものふたり来るけど」
「そうなんだ。じゃあ、それまで一緒していい?」
「あ……どうぞ」
 私は操作していたスマホをバッグに戻した。蒼樹へのメッセだったから、あとになってもいいだろう。狩原くんは私の所作を見て、「誰かとメッセしてた?」と気にかけてくれる。
「え、ううん。昨夜来てたけど、今頃返してるような相手だから。平気、気にしないで」
「彼氏……じゃないよね」
「まさかっ。幼なじみだよ」
「そっか。よかった」
 狩原くんは無邪気ににこっとして、私が彼氏がいなくて『よかった』になるのか、とまたどきどきしてくる。
「ねえ、美坂さん」
「ん、なあに」
「美坂さんに、彼氏ができないうちに言わなきゃと思ってたんだけど」
「……はい」
「よかったら、その──俺とつきあう……とか、って考えられる?」
 心臓が跳ねる。狩原くんの、ちょっとだけ長川くんを思い出すような幼い顔立ちを見つめて、つきあう、と頭で反芻した。
 つきあうって。つきあうって。それは──
「あ、つばめ見つけたっ」
「あれ、狩原くん一緒だ」
 ふと友達のそんな声がして、私は顔をあげた。狩原くんもそちらに首を捻じって、「返事、今度聞かせて」と素早くささやくと立ち上がる。私は胸の中をぐらぐら揺らがせながら、狩原くんの目を見つめ返し、とっさに何も言えない。
 狩原くんとハイタッチしながらすれちがった友達が、テーブルの正面の椅子に腰かけた。ぽかんとしている私に、「どしたー?」と右側に座った茉優まゆが顔を覗きこんできて、左側に座った蓮菜れんなは「告白でもされた?」なんて鋭くにやりとしてくる。それに私が頬を染めてうつむくと、「マジか!」とふたりは一気に盛り上がった。
「何て答えたの?」
 身を乗り出した茉優に、「答える前に、茉優と蓮菜が来て」と私が事実を述べると、「うわっ、うちら邪魔したかあ」と蓮菜がテーブルをたたく。「何かごめんね?」と茉優も言い、「ううん」と私はとりあえず笑顔は作る。
「返事は、もちろんするよね?」
「……えと、何かは答えないとね」
「何かって! OKっしょ。狩原、ぜんぜんいい奴じゃん。顔も性格も」
「つばめに好きな人がいるって話は、一応、私たち聞いてないけど」
「同じくー。あ、でも幼なじみの話はよくしてるね」
「……はっ!? そんな、あいつの話なんてしてないよ」
「いや、してるから。けっこうしてるから」
「ごはんきちんと食べてるかなあとか、今の学校で友達できてるかなあとかね」
「それは、その……私は、あいつの保護者みたいな感じだからっ。だらしないんだもん、蒼樹は」
「ふうん……?」
 茉優と蓮菜は目を交わしてにやにやして、「蒼樹はほんとにないのっ」と私は包みを開いたハンバーガーに咬みつく。ハンバーグとレタスが、マヨネーズとソースで絡みあう。そんな私に笑ったふたりは、「じゃあ」と自分たちもランチを広げはじめる。
「狩原とつきあうの、何も問題はないんじゃない?」
「つばめも狩原くんが苦手には見えないしね」
「苦手ではない、かな」
「あーもうはい、つきあっちゃえ」
「狩原くんは、つばめのこと大事にすると思うよ」
 私は視線を伏せて、確かに優しい男の子かな、と狩原くんを思い返した。甘く童顔なところも、わりと好きだし。私がメッセをしていたら、「彼氏?」なんて心配して……一種の妬きもちだろう。何より、耳元で「返事聞かせて」と言われたとき、抑えたその声が低音でどきんとした。
 あの男の子とつきあう。彼氏。恋人。「いいの……かなあ」とつぶやくと、茉優と蓮菜は首をかしげる。
「私、いまだに男の子とつきあったことないし……昔、片想いも振られたし、狩原くんに釣り合うほど魅力ない気が……」
「はあ? もう、化粧もほとんどせずに、そんだけかわいいのによく言うわ」
「まじめで近寄りがたさはあるけど、それってすごく美少女だからっていうのもあるんだよ」
「……でも」
「大丈夫っ、つばめはマジかわいいから。何なら化粧教えてレベルアップさせてやるわ」
「性格はもちろん最高だしね。じゃなかったら、私たち友達じゃないでしょ?」
 私は茉優と蓮菜を見つめて、その言葉はとても嬉しかったけれど、じゃあ狩原くんとつきあうとまでは言い切れなかった。ランチのあと、「落ち着いて考えたら、うちらの意見分かるから」と蓮菜は私の肩をたたき、「狩原くんを誰かに盗られちゃう前にね」と茉優はくすりとした。
 午後の授業は狩原くんと重ならなくて、私はぼんやり考えながら、電車に揺られて地元に帰ってきた。
 まばゆかった夕焼けが、緩やかに終わりかけている。人がどっと降りる駅を出て、マンションの群衆に入るとあたりは静かで、こつこつ、と私のヒールの靴音が響く。
 道端の夏草の匂いが、意識を奪いそうな熱気に乗って、立ちのぼってくる。
 つきあう。男の子とつきあう。そういうこと、しっかり考えたことってなかった。今想えば、長川くんだってつきあいたいとかでなく、近づきたいだけの憧れだった。高校は、わりと早くから進学のことばっかりだった。
 狩原くんとつきあったらどんな感じなのだろう。大事にしてくれるって言われたけど、男の子に大事にされるってどんな感覚なのかな。幸せ……なのかな。
 だったら、私──
「よっ、背負った背中してどうしたの?」
 突然背中に聞き憶えのある声がして、私は立ち止まる。「蒼樹?」と疑いもなく振り返ると、そこにいた背の高いスーツの男の人は、「えーっ、暮樹おにいちゃんだよー」と子供みたいに頬をふくらませた。「あ、」と私は声をもらしたあと、確かにそこにいたのが、蒼樹のおにいさんの暮樹さんだと認める。
「すみません」と謝り、「帰るところですか?」と私は暮樹さんを見つめる。
「うん、そう。あー、仕事疲れたー。今すぐ辞めたいー。だから癒やして」
「……彼女さんに言ってください」
「今いないんだよねえ。つばめちゃん、どう? 俺とか。蒼樹よりはいいっしょ?」
 私は苦笑いをもらして答えははぐらかす。蒼樹があんな無愛想、言い換えれば硬派に育ったのは、この軟派なおにいさんのせいなのだろう。顔立ちもおばさん寄りで柔らかさがあり、親しみやすい。蒼樹は一徹な感じのおじさんによく似ている。
「暮樹さん」
 緩やかに夜が下りてくる中、何となく並んで歩き出しながら、私は暮樹さんを見上げる。
「んー?」
「私、今日、大学の男の子に告白……をされまして」
「へえ、そうなんだー」
「……さらっと流しますね」
「だって、つばめちゃんなら、さんざん告白くらいされてきたでしょ」
「え、いえ、初めてです」
「初めて!?」
「はい」
「蒼樹は?」
「あお……え、何で蒼樹ですか」
「あいつ、何やってんだよ」
「……えと、蒼樹と私はそういうのではないので」
「つばめちゃんに彼氏できたら、蒼樹泣くよ?」
 何で蒼樹が泣くのか──というか、私が男の子に告白されて、どうしてみんなまず蒼樹の心配をするのだろう。
「えー、うわー、つばめちゃんに彼氏できんの? そんなん俺も泣くわ。すげえ寂しいよ」
「寂しい……ですか」
「蒼樹も寂しいと思うよー。つばめちゃんに相手にされないとか、あー、何かダメだな、あの弟。終わるわ」
「終わるって」
「終わるでしょ」
「何がですか」
 暮樹さんは私を見下ろし、何やら憐れむような笑みを浮かべたあと、「もうつきあうって決めたの?」とやや真剣な声で問うてくる。
「いえ。何か、誰かの彼女になるとか自信もなくて」
「蒼樹にも相談しなね」
「蒼樹ですか」
「一応、何というか、つばめちゃんが狙われてるということは、あいつにも知っとく権利あるっしょ」
「何の権利ですか」
「いいから、蒼樹にも相談しなさい。今夜うちにおいで。あいつ、今日は晩飯いるって家族のグループで返信してたから」
 私がいまいち腑に落ちない面持ちをしていると、闇が増して街燈が灯り、暮らしているマンションに到着していた。「エレベーターマジ欲しいわ」とか言いながら暮樹さんは階段をのぼり、私はそのあとをついていく。

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