どうでもいい
ひとつ手前の階で別れるとき、「蒼樹につばめちゃんから話あるって言っとくからね」と暮樹さんは釘を刺し、私は仕方なく「分かりました」とうなずいた。まあ、確かに冷静になれば、蒼樹に相談したいような気もする。「そんな趣味悪い男がいるのかよ」とか言われるのは目に見えているけども。
家の前にたどりつくと鍵をさしてまわし、「ただいまー」と声をかけながら玄関のドアを開ける。「おかえりなさい」といつも通りおかあさんが出迎えてくれて、「うん」と答えながら私は靴を脱いだ。
そのあとすぐにおとうさんも帰ってきて、三人で夕ごはんの冷やし中華を食べた。ちなみに蒼樹の家だけど、今は暮樹さんが収入を家に入れるので、おばさんが仕事を辞めてごはんもちゃんと作ってくれるようになっている。それもまた、私が蒼樹の家を訪ねる機会が減った理由のひとつだ。
両親には告白されたとかまだ報告しなくていいよね、と考えて、私はシャワーを浴びて着替えを済ますと、念のため蒼樹に『今空いてる?』とメッセを飛ばした。まもなく返事が来て、『何か知らねえけど、兄貴がうるせえから早く来い』とあった。相変わらず、尊大で乱暴だ。
私はスマホを持ったまま、両親に蒼樹に会ってくると伝えた。「つばめから蒼樹くんの名前久しぶりに聞いたなあ」とおとうさんは笑って、何となく蒼樹が彼氏ならあっさり受けつけるけど、はるかにまじめそうな狩原くんを彼氏にしたら慌てるのかなと思った。何で私と蒼樹をそういうふうに見る人多いんだろ、と切実に疑問に思いつつ、私は家を出て蒼樹の家に向かった。
「よお。ちゃんと生きてんじゃん」
ドアを開けたのは蒼樹で、私を認めると真っ先にそう言った。蒼樹は前より髪を伸ばし、もはや茶髪というか金髪で、ピアスの数も増えていた。背がだいぶ伸びて、夏の薄着から覗く軆つきも、だいぶ筋肉がついたように見える。顔立ちもちょっと冷ややかな印象だけど整っていて、何かかっこよくなってるな、と不覚にも思ってしまった。
「既読だけだから、何かいそがしいのかと思ったぜ」
「は……? あ、あーっ、そうだ。違うの、お昼に返そうと思ったんだけど。思って……忘れた」
「暑くてボケたのかよ」
「そういうのじゃないけど、その──」
蒼樹は私を見つめて、玄関でしたい話じゃないな、と私は口ごもる。そこで「つばめちゃん、ちゃんと来てくれたねー」とのんきな暮樹さんの声がして、蒼樹の後ろから顔を出した。
「あ、お邪魔します」と私が言うと、「ほらほら、今のうちに部屋に連れこんじゃいな」と暮樹さんは蒼樹の頭をくしゃくしゃ撫でる。蒼樹はさも鬱陶しそうに舌打ちして、「今のうちって何だよ」と言いつつ、大きな手で私の手首を急につかむと引っ張ってきた。私は慌ててヒールを脱いで、蒼樹のあとを追いかける。
肌に伝わる手が熱い。この夏の気温のせいだろうけど。蒼樹は自分の部屋のドアを開けると、「入れよ」と手を放し、私はおずおずと昔はたまに入っていたその部屋に踏みこんだ。
香水っぽい匂いがすることに、一番最初に気づいた。部屋の中はパンクっぽい服であふれている。つくえには本が散らかり、ベッドでは毛布が無造作に丸まっている。私はフローリングを歩いて、ベッドサイドに腰かけた。すると、蒼樹はどさっとその隣に座り、その所作にさっきの匂いが薫る。
「蒼樹」
「あん?」
「香水つけてる?」
「いいだろ、別に」
私は、化粧もまだそんなにうまくできないのに。蒼樹ばっかり香水が似合っているとか、ずるい。
「で、何だよ、話って。兄貴がうぜえからとっとと話せ」
「………、」
「つばめ?」
「……もし」
「ああ」
「私に、彼氏……が、できたら」
「……ああ」
「ちゃんと、つきあえると思う?」
蒼樹は眉を寄せて怪訝そうにしたあと、「それは相手によるんじゃね」と肩をすくめた。
「クズ野郎なら、お前が我慢ならねえだろうし。まじめな奴なら、まあ……お前は好きだろ、そういうの」
「まじめ……かあ」
「何だよ、気になる奴でもできたのか」
「気になるというか、その、つきあいたい……って告白された」
蒼樹は私を一瞥すると、「ふうん」と立て膝をして頬杖をつく。
「それは、おめでとうございます」
「………、まじめな、人だとは思う」
「そうか」
「大切にしてくれるよって、友達にも言われた」
「はい」
「つ……つきあって、いいと思う?」
私は蒼樹に顔を向けたけど、蒼樹は視線を正面に放ったまま、「勝手にすればー?」と関心もなさそうに答えた。
何よ、と思わずふくれたくなる。そんなにどうでもいいみたいに答えることないじゃない。もちろん、蒼樹には実際どうだっていいことなのだろうけど。私は悩んでるんだから──
悩んでる?
そう、私、悩んでる。
何でだろう。
狩原くんとつきあっても、何ひとつ問題はないのに。
ただ幸せになるだけ……なのに。
しばらく顔を伏せていた私は、「分かった」と言ってベッドサイドを立ち上がった。蒼樹が目だけで私を見る。でもそれに目は合わせず、私はドアへと踏み出す。
「お前さー」
ドアノブに手をかけたとき、蒼樹のいつもの億劫そうな声がした。
「相変わらず、シャンプーはその匂いだな」
ドアノブを握る。香水をまとうようになった彼には、シャンプーの匂いなんてお子様なのだろう。「悪かったねっ」と私は一度振り返って、蒼樹に精一杯毒づくと、その表情も確かめないで部屋を出た。
あんまり眠れない夜を過ごした翌朝、私は大学最寄りの駅で落ちあった茉優と蓮菜に、狩原くんへの伝言を頼んだ。もちろん私が見つけたら直接伝えるつもりだったけど、すれちがってしまうのも考えておいて、『今日の講義が終わったら、大学と同じ通りにあるカフェで待っている』と。ふたりとも嬉しそうに了解してくれて、いよいよ彼氏できちゃうのかあ、と私もどきどきしてきた。
結果的に伝言は茉優から伝わって、そのあと授業が一緒になったときにはちらちら狩原くんの視線が来るから、何だか恥ずかしかった。午後の講義が終わり、急いでカフェに向かうと、私が待っていると言ったのに、すでに狩原くんのすがたがあった。
「ごめん、遅くなって」
アイスカフェラテをテイクアウトして、そう言いながら狩原くんの向かいの席に座ると、「俺が待ちきれなかっただけだから」と狩原くんは照れるような笑顔で言った。狩原くんのアイスコーヒーが、まだ三分の一くらいしか減っていないのをちらりとして、少しほっとする。
「えっー、と……呼び出されたって、あの返事ってことでいいのかな」
「あ、うん。あの──」
「待って。すげえ緊張する。美坂さんは、もっと何日か考えると思った」
「か、考えたほうがいい?」
「いや、もちろん早いほうが……まあ、どっちの場合でも、すっきりするけど」
「そ、そっか」
「じゃあ、ええと──お願いします」
私は狩原くんの顔を見ようとしたものの、何だかおもはゆくてうつむく。「その」とか言葉をしばらく躊躇わせてしまったけど、不安にさせて勘違いされちゃダメだ、と勇気を振り絞り、「私でよければ、よろしくお願いしますっ」と何とか言葉を吐き出した。
それから、ようやく顔をあげて狩原くんの目を見ると、狩原くんはぱちぱちとまばたいていたあと、「え……と、OKってことで……」とやや放心気味につぶやき、「それでいいです」となぜか敬語になってしまいながら私はうなずいた。すると、狩原くんは一気にほっとした笑みをたたえ、「すっげえ嬉しい!」と店内に響くくらいの声をはずませた。
「やばい、正直振られると思ってた」
「えっ、何で?」
「え、いや──何でだろ。分かんないけど、俺とか無理かなって」
「そんなこと、ないよ。というか、私こそ……」
「美坂さんは、男子の高嶺の花だもん」
「そ、そんなことは……」
「そんなことあるんだよ。やった……っ。みんな出し抜いて告ってよかったあっ」
私まで、照れ咲いになってしまう。そんなに、素敵な女というわけではないのだけど。私なんか、……あいつにしたら子供だし。いや、あいつが私をどう想っているかなんてどうでもいい。狩原くんが私の答えを喜んでくれているなら、それでいい。
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